深い森の中で
「はあっ……はあっ……はあっ……」
少女はひたすらに駆けていた。太陽光をほとんど遮ってしまうほど鬱蒼と葉を茂らせた木々の連なりの間を。悪意を持って少女の足を取ろうとするかのように複雑に絡み合った下生えの上を。
ことあるごとにずり落ちそうになる肩からかけた鞄を何度も手で押さえ、かけなおし、少女は走り続ける。ぱんぱんに膨れ上がったそれが己の逃げ足を阻害していることに少女も気付いていたが、しかしこの鞄を捨てることは想像の埒外だった。
「あっ!?」
やがて少女は太い木の根に足を取られ、転倒する。ついに少女の体から離れていった大きな鞄は地面に投げ出され、衝撃で留め金が外れたのか中身をぶちまけた。
少女は失意に沈んでしまいそうになる己の心を叱咤し、よろけながら立ち上がると散らばった荷物の側へと近寄った。
もはや全てを集めて背負う時間はない。せめて、あれだけは持っていかなければ。
散乱した衣服や小物の中に紛れているであろうそれを見つけんがため、少女は跪き、一心になって探り始める。
――お願い見つかって、あいつらが追いついてこないうちに。
「あった!!」
小さな両手がついに一枚の紙をさぐりあてた。長方形に折り畳まれ、リルドラ魔法学校の封蝋がされた白い紙。これこそが、迫る危険から目を逸らしてでも失ってはいけない大切なものだった。
土で汚れた顔に笑みが戻るのも束の間、少女は表情をこわばらせて振り向いた。その耳が捉えたのだ。複数の足が草ずれを踏みしめる音を。
「あ……ああ…………」
うめき声から遅れて全身に震えがやってきた。恐怖のあまりに歯がかちかちと鳴る。
うす暗い闇の中で、少女の背丈よりも少し高い位置に一対の目が三つならんでいる。その輝きは手に入れた玩具でどう遊ぼうかと考えているのか、残酷な光がらんらんと灯っていた。少女をごちそうにでもしようというのか、犬のような頭をもつその化け物の一体が舌なめずりをする。少女は昔母親がしてくれた、悪いことをすると魔物に捕まって大鍋で料理されてしまうという話を思い出した。
一際大きな個体が、毛深い五本の指で握っている粗末な棍棒をもう片方の手に打ちつけ、少女がいる方へゆっくりと近付いてくる。残りの二体も口元から涎を垂らしながらそれに倣う。少女は少しづつ後ずさり……やがて背が大きな木の幹へとぶつかった。
もはや脱出の術はない。いや、正確に言うとこの場をやりすごせるかもしれない方策が一つだけ存在していた。しかし少女は恐怖で思考が麻痺しており、その行動を取る機会はついにやって来なかった。
――怖いよ……お母さん……助けて……誰か……ルナちゃん……。
十年余りを生きてきた少女の脳裏に様々な言葉が浮かぶ。生を願うその少女へと、ついに犬の顔をした死神の魔手が伸びる。しかし鋭い爪のついたそれは、途中で突然に湧いた冷気と共に、瞬く間に水晶のように固まった。
――えっ……まさか……ルナちゃん……?
いつの間にか涙が零れていた瞳を瞬かせ、目の前で氷の塊となったそれを見上げる少女。予想もしないことに動揺したのか、他の二体の魔物は剣歯の狭間から耳ざわりな声を出した。
「こっちだ!!」
今までこの場にいなかったはずの、やや低い声と共に差し出された手に腕を掴まれ、少女は氷像と木の幹の間から引っ張りだされる。見上げるその瞳に、薄明かりの為に不明瞭だが自分よりもおそらくいくつか年かさであろう少年の横顔が映った。
「ハッ!!」
気合の声と共に少年は腰に下げていた剣を抜き放ち、一閃する。物言わぬ彫像となっていた魔物の体がたちまちにして粉々に砕けた。解けていく氷と共に、その異形はやがて光の粒子となって消え失せる。少女は魔物が倒されて消滅する姿を初めて目の当たりにした。
残りの二体は浮き足だち、わめく。何かしらの魔力が込められているのか、刀身から光を発している剣を片手に少年が一歩を踏み出すと、恐れをなしたのかたちまちにして森の奥へと逃げ去った。
――助かった……の……?
ようやくそれを実感できた少女は同時に力が抜けたのか、よろめき、倒れそうになる。その小さな肢体を振り向いた少年が慌てて支えた。
「大丈夫か? 怪我はない?」
飛んでくる質問にこくこく頷き、少女は自分を助けてくれた少年の胸の辺りに顔を埋め、泣きじゃくる。少年はしばし困ったように頭をかいていたが、やがてこの子の恐怖が少しでも早く無くなるようにと、汗でほつれたその髪の毛に手の平を乗せ、ゆっくりと頭を撫で始めた。




