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三人の行先

分かり切っていた事ではあった。敷かれたレールを歩くようなものだった。行き先は変わらないのに、何度もだだを捏ねて行き先を変更しようとしているようなものだった。そこには微かな意思も組み込めないというのに。

ダイヤ改正の際に、ジェイアールにでも乗り込んでみてください。少しは希望を反映してくれるかもしれません。貴方の刑務所行きと交換に。

うむ?後半が異様に軽い物言いになってしまたな。まあ、いいか。

「ああ、ぐぞー。苛々するー」

 まあ要約すると、咲月の事です。

 さて、僕が幸奈との行き詰まる攻防戦(?)を繰り広げてから早一週間。

 あの後も変わらず幸奈の所に足しげく通い続けてはいるのだが、どうにもこうにも成果は上がらない。それどころか、活力を得たもやもやもやりんは僕の中を縦横無尽に駆け巡るばかり。

 何とも無作法な化物である。いつの間にか、魔法の呪文という一認識から一個体としてのポジションを確立してしまっている、もやもやもやりん。まあ、どうでもいいけどさ。

 分からないものを考え続けるくらい無駄な事はない。

 というわけで、有意義に咲月のお悩み相談といきましょう。

「まあ、仕方ないさ。何となく、最初からそんな空気は漂っていたわけだし」

 と、僕。ははーっ。最初からお悩みを投げ出してしまいました。

 ちなみに現在地は学校の図書館。

 昼休み。

 昼休みは週刊誌とランデブーをかますおばちゃんも居ない。つまり、今現在、僕と咲月は二人きり。

 かと言って、ここに居る意味も全くないのだが。あ、僕にとってはね。

 昼休みに入り、いざ食堂と咲月を誘うべく話しかけたのだが、その時既に咲月の苛々はここを焦点に定めていたみたいで

「ちょっと来い!」

 と、有無を言わさずここに引きずられてきたというわけ。

 で、そんな彼は目下テーブルの上に突っ伏し、頭をがりがりと掻き毟っている。マナー違反も大概にしろい、とは言わない。これはこれで咲月のMP(萌えポイント)な訳だし。

「お前がそんなんだから、こんなんなんだよ」

 咲月は僕に濡れてもいない衣を被せてきた。パンツ一枚で寝る季節に毛布は暑すぎる。せめて濡らしてくれ。

「僕は関係ないだろ?何となく、最初からそんな空気は漂っていたわけだし」

「リプレイすんなよー」

 口をパクパク。足をジタバタ。手もバタバタ。そう言えば今日の六時間目はプールか。

「だって、どうせ幸奈に付きまとってもどうにもならない事は分かり切ってたわけだし」

 そう、咲月の苛々の原因は未だに影の倒し方が判明していないという事。スウェットヒーローの日本刀以外での。

出会って間もない頃は

『意地でもヒントを掴んでやる』

 と意気込んでいたのだが、どうにも現実は順風満帆な道を用意してくれない。ただ、幸奈にひっつき虫の如く付き纏い、影の倒される瞬間を見学する。僕の目的は果たせど、ああ、いや、それも今は一概に言えないのだけど、とにかく、徒労に終わってしまっているのが現状。

 そうなると咲月は

「だしだしだしだし、五月蝿いー」

 我が侭な姫様まっしぐら。実は今週に入ってからずっとこの状態。

 ちなみに今日は木曜日。

 ファンクラブの人達もあまりの咲月の苛々具合に心配したり興奮したり嬉々として映像に残そうとしたり、まあ反応は様々だ。

「別にそこまでむきになってやることもないだろ。幸奈が適当な数の影をやっつけてはくれているんだし」

 また、だし付いた。口癖に昇華させるか?

「それじゃあ、嫌なんだよー」

 ぶーぶーとクラクションを鳴らしてくる咲月。もともと我が侭ではあったけど、今回はもう駄々っ子に近いな。

「自分で手を下したいのか?」

「うん」

 射抜くような目で僕を見てくる咲月。口は真一文字。僕の意見は一切取り入れませんと言う意思表示にも見える。考えすぎか。

「いやまあ、一応聞いておくけど、何でそこまでこだわるんだ?」

「…………前にも言っただろ?僕は影を許すつもりはないって」

「確かに聞いたけど……」

「だあーーーーっ!五月蝿い五月蝿い!僕はとにかく諦めないからな!」

 咲月は会話を潰しにかかった。自分で話を振っておきながらなんたる理不尽具合。

 しかも、そのまま図書館から飛び出していきやがった。

 残された僕にできる事。

「とりあえず、戻って謝ってみるか」

 僕は何も悪い事してない気もするけど。

しかし、結局、その後咲月の機嫌は直ることなく燻り続け、僕との会話の為の外堀内堀を埋めてくれる事はなかった。

 まあ、どうでもいいか。

 明日にはあっちから謝ってくるだろうし。

 たぶん。

 さーて、僕は自分のもやもやもやりんを倒す為に、幸奈の所に向かいますか。



 どこまでも、どこまでも、どこまでも、体のいい言い訳だった。

 どこまでも、どこまでも、どこまでも、身勝手な振る舞いだった。

 分かってる。そんなことしても意味ないって。

 分かってた。そんなことしたら智也に嫌われるって。

 でも、ばれたくなかった。

 影が許せないから、なんて。

 聞いて呆れる。

 言って呆れる。

 これっぽっちもそんな事思ってないくせに。

 許せないだなんて、正義感溢れる事言っちゃって。

 これは僕だけの問題じゃないんだ!っていうニュアンスを含ませる事で現実逃避しちゃって。

 自分から逃げちゃって。

 本当にくだらない。

 もっと素直になればいい。

 なれば、どうなる?

 曝け出して、どうする?

 きっと、僕は止まらなくなる。

 気持ちを抑え切れなくなる。

 ……もう抑え切れてもないかな。

 あの日、智也からヒーローの事聞くまではここまでじゃなかったのに。

 もう本当に、本当に、本当に、憎い。

憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!

 影が憎い。

 抑え切れない。

 幸奈に会ってから。

 幸奈が影を殺すのを見てから。

 影が殺せると分かってから。

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!

 憎い!

 憎い!

 殺したい。

 この手で。

 僕の手で。

 殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい!

 千切って。

 嬲って。

 踏みつけて。

 噛み砕いて。

 投げつけて。

 刻んで。

 潰して。

 蹴って。

 抉って。

 削って。

 燃やして。

 撃って。

 打って。

 壊して。

 齧って。

 裂いて。

 叩いて。

 殴って。

 殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい!

 なのに、何で僕にはその力がない?

 なんで幸奈なんだ?

 僕じゃないんだよ?

 くそくそくそくそっ!

 …………――――ああ、落ち着け。落ち着け。

 違う。違うんだ。ああああああああああああ、違わないけど、これじゃないんだ。

 僕が怖いのこれじゃないんだ。

 僕が本当に怖いのはこれじゃないんだ。

 幸奈に会って、希望を見出して、でもその思いが破れて、それで…………その衝撃で出来上がってしまったんだ。

 あの思いが。考えが。

 僕の中で作られた。嫌な感触を伴いないながら。

 じわりじわりと。

 僕はそんな事望んでいなかったはずなのに。

 気持ち悪い。

気持ち悪い。

気持ち悪い。

なのに、なのに、なのに、なのに!

どうしてこんなに、鳥肌が立つほどに僕は興奮しているんだ。

考えれば考えるほど、興奮が抑え切れなくなる。

もう、嫌なのに。

「あーあーあーあー、あーっ!」

 叫び声は、狭い住宅街の道に反響し、僕の鼓膜を何度も揺らした。

 帰り道。

 僕の側にはいつも居るはずの智也の姿はない。

 自業自得。

 あれだけ学校で当り散らした上に、無視をしたんだ。

 明日、謝らないと。

 一転、後悔に苛まれ始めた僕。

 見上げた空は陰鬱とした雲に覆われていた。

「あーあーあーあー……」

 二度目の咆哮、を上げたその時だった。

「おーおーおーおー、ちょいとさぁ、そこのきみぃ」

 後ろから、ねっとりと全身に纏わり付くような声が聞こえてきた。

「……っ」

 あまりの悪寒に、体は僕の意思を汲み取る前に自身を回れ右させた。と、同時に一歩後ろへと下がる。これも無意識に。

 視界に映り込んできたのは、一人の男。

 薄い。それが男を見た瞬間の第一印象だった。

 切れ長の目に、決して高くはない鼻。そして、色素が薄く、厚みのない唇。体も線が細いという表現がぴたりと当て嵌まる。

 服装も何の特徴のない白いポロシャツにジーンズ。

 しかし、何よりも特徴的なのは、見た目や服装自体もそうなのだが、その身に纏う存在感自体が薄いということ。

目を一度逸らしてしまえば記憶から消えてしまいそうな程、薄い。

きっと、次に会った時は覚えていないだろう。

そう思えるほど、薄かった。

「おおいぃ。そんなに睨み付けなくてもいいだろぅ?」

 だが、自身の持つ雰囲気とは正反対に、無理にでも鼓膜の奥に潜り込んで来る声。一切の遠慮なく、神経に絡みつき、体全体に不快感を催す。そんな声。

 声が印象的な人ではなく、声しか印象に残らない人。

 まるで体の印象の薄さをカバーするように声はねちっこい。

 話す度に口からスライムでも吐いてそうな勢いだ。

「あんた、誰だ?」

「んー、誰ぇ?そうだなぁ。正義の味方、てとこかなぁ」

「胡散臭い」

「そりゃあ、ちいとショックだなぁ」

 男は困ったように表情を変えるが、その変化は極僅かなもので、苦笑いだろうか?微かに口角が上昇するのが確認できた。表情も薄いなんて。

「胡散臭い」

 男の全てを考慮に入れた結果、結論。結局は他人に話しかけられて警戒しない人はいなんだから仕方ない。

「二回も言わなくてもいいだろぅ?」

「用がないなら帰りたいんですけど」

 毅然とした態度を徹底。不審者に会ったら逃げないさい。そんな言葉を小学生の頃はよく耳にしたけど、高校生になってからはあまり聞かなくなったな。そう言えば。

 って、今はそこじゃない。

 気を取り直し、男を改めて睨みつける。

「別に用がない訳じゃないさぁ。今日は君に取って置きの物を持ってきた訳だからさぁ」

「取って置きの物?」

「そうさぁ。取って置きの物ぉ」

 そう言う男が取り出したのは……。



 翌日。

 咲月は学校に来なかった。

 携帯に連絡したが、出る事はなく、ただ通話の繋がらない事を伝える定型句が何度も鼓膜を揺らすだけだった。徒労。

「何してんだか、あいつ」

 と、思いつつも、放課後を迎えれば自然と僕の足は幸奈の元へと向かう。結局、昨日は影に遭遇することなく、幸奈に抱き着かれ損な放課後を過ごしてしまった。

 いや、あの部分が夏の薄着のお陰で堪能できた分、無駄ではなかったか。……まあ、どうでもいいけど。

 とりあえず、連絡が取れないのは仕方ない。

 というわけで、今日も幸奈の元へと向かう放課後。まあ、明日には咲月も来るだろう。もじもじもじもじと恥ずかしそうな、気まずそうな顔をして。あー、やべ、興奮してきた。  

勝手な友達天気予報を脳内で放送しつつ、僕は早足で目的地へと向かっていく。

うむ。もやもやもやりんは今日も絶好調。むしろ、増殖してんじゃない?という勢いだ。繁殖期?発情期?思春期?ああ、最後のは今の僕か。

まあ、どうでもいいか。

にしても、今日は暑い。

幸奈の所まではいつも歩きで行くのだが、些か距離がある為、しかも夏である為、汗が嫌でも滲んでくる。

普段、運動をしない僕にとっては汗を掻くという生理現象はあまり心地の良いものではない。

もし、運動部にでも入っていたら抵抗なく汗を垂れ流す事ができるのだろうけど。今さらながらに自分の高校生活を後悔。

まあ、どうでもいいけど。

「ふぅ」

 丁度、半分くらい距離を縮めた所で一旦足を止め、額の汗を拭う。

やっぱり遠い。

やっぱり暑い。

特に最近は夕方になっても夏は町中に蔓延っている。夜更かしを覚えて、親の深夜のお楽しみに遠慮なく踏み込んで来る子どもみたいだ。全くもって不愉快。

さっさと夏が引っ込んで、紅葉に心揺れる秋が来ればいいのに。

ああでも、どうせ秋が来て冬が来れば、身を切るような寒さに文句を言うんだろうな。んで、冬が終わって春が来て、また夏が来て文句を言って…………エンドレス。

まあ、これは四季がある国に暮らす人々なら一度は感じたことのあるジレンマだろう。

「今さらだな」

 適当な所で折り合いをつけ、再び足を進めようとしたその時だった。

「そこのきみぃ」

 不意にその男は現れた。電柱の影から。

 ゆーっくりと僕の前まで足を運び、ゆーっくりと顔をこちらに向ける。

 薄い。パッと見の印象。

 うーん、何ていうか、全て薄いなぁ。見た目も、存在感も、全てが薄っぺらい。

「ちょっとぉ、いいかなぁ」

 ああでも、語尾が非常に不愉快だな。あと声質も。あんまり相手にしたくないタイプだ。

 ……んん、この状況は少しデジャブ。立ち位置がちょっと違った気もするけど。って、幸奈に初めて話しかけた時だ。

 これは気持ち悪いな。話しかけてきた相手は意図があるんだろうけど、こちらとしてはその意図が全く分からないから、この上なく気持ち悪いな。

 気色悪いと言ってもいい。あまり変わらない気もするけど。まあ、それはどうでもいいとして、とりあえずは今の思いを口に出しておくか。

「嫌です」

 全球ストレート宣言。

「これまた、はっきりしてるなぁ。おいぃ」

「嫌です」

 捕手のサイン無視の独裁投球。

「昨日の子と同じで軽ぅくトラウマだよぉ」

「昨日の子?」

 あー、なんだろ。あんまりいい予感がしないのは、男の発言のせいか、発言した際の男の顔のせいか、さてさてどちらでしょう?

「そおぅ。昨日の子も酷い突っぱねようだったからねぇ」

「それはそれは大層な事で。現代っ子は知らない人に話しかけられて笑顔で応対、お手々を繋いで歩きましょう、なんて教育はされていませんので」

 いや、それは今も昔も一緒か。その基準が多少上がっただけで。

「ふぅん」

 と、薄男。表情も実に薄い。感情は分からないが、見た目通りに薄いんだろう。おそらく。

「おっとぉ、話が逸れたけどぉ、今日は君に良い事を教えようと思ってねぇ」

「嫌です」

「曲らないねぇ」

 変化球を投げるなんて女々しい。とか、あの人のように言ってみたり(細かい違いはあれども)。

 薄男も参ったと、苦笑いを浮かべる。これまた、薄い。顔に筋肉付いてんのかなってくらい薄い。まあ、どうでもいいけど。

「それはいいけどぉ、君のお友達に関わる事だからぁ、聞いた方がいいかも、ねぇ」

 おいおいおいおいおい。嫌な予感しかしない。

「実はぁ、昨日の夕方に君のお友達にとぉーっても素敵なプレゼントをしたんだよぉ」

「プレゼント?」

「そおぅ。彼が欲しがっていたものをねぇ。所謂、日本刀ぅ?いやぁ、人に喜んで貰えるってのは、気持ちの良いもんだねぇ」

 薄い薄い薄い。言葉に含まれる感情が顔に反映されない。

 能面の如く動かない。顔に張り付いた表情はその表皮ごと取り替えなければ一生まともな変化はしないのではないかという程の、圧倒的な無表情。

「あんた、何者だ?」

「そうだねぇ。それは黙秘といこうかぁ。おおっとぉ、それよりも早く探しに行ってあげないとまずかいもねぇ」

「どういう意味だ?」

「ふふぅ。そのままの意味だよぉ。私は彼に日本刀、としか言ってないんだけどねぇ、どうやら彼はそれを何かと勘違いしたみたいなんだよねぇ」

 不思議だねぇ。と笑う。言葉が笑う。声が笑う。表情を固定したまま、笑う。

「でも、それも仕方ないのかなぁ。だって、影についての『事』を知ってる人なんて、ほとんどいないしねぇ」

「……っ」

 ああああああああああーあーっ!急展開過ぎるだろ。何だよこれ。何だよこれ。じゃあ、あれか?今日、咲月が学校に来なかったのは、日本刀片手に影を捜索してたってのか?

「だーっ、ちくしょう!」

 行くしかねえだろ。咲月が影に会う前に見つけないと死んじまうじゃねえか。

「ああぁ、あと一つ良い事を教えてあげよぅ」

 これ見よがしに人差し指を立て、どこぞの情報屋気取りの男。

「影の親玉は三城幸奈だよぉ」

「それはどうも!」

 ああーもう!ついでにいらんことまで入ってきたやがった。そんなに脳内の情報処理速度速くねえんだよ。

 せめてどっちかにして欲しかった。

 ああでも、とりあえず今は咲月を探さないと。

 僕は男に背を向けて走り出した。

 背を向ける途中、男の顔が奇妙に歪んでいたのは気のせいだろうか?

 たぶん、気のせいだろう。

 まあ、どうでもいいけど。



 憎かった。

 影が憎かった。

 四年前のあの日、智也の両親が影に殺された事を知ったその時から。

 だって、友達の両親を何の遠慮もなく殺して、友達を不幸にしたんだ。憎くないわけがない。

 むしろ、憎まない方が異常だとさえ思えた。その気持ちは、両親が殺されて放心状態となった智也を見て、確信に変わった。

 身近な人が殺されて、もっと身近な人が悲しむ。加害者を憎まない奴は頭の機能が停止しているに違いない。

 そこまで思えた。

 だけど、感情は風化するという事も理解していた。

 それは人生の中で何度も経験する事。

 先生に怒られて落ち込んで、次の日、その先生と将来の進路を話し合って。

 親に叱られて泣いて、次の日の朝、いつものように笑顔で挨拶して。

 友達と喧嘩して、お互いに罵り合って、次の日の学校で馬鹿話して。

 それは抗い様がないはずで、僕のこの気持ちもいつかそうなっていくはずだった。一抹の寂しさ。まだ風化の兆候も見られない時から、そんなものすら覚えるほどだった。

 でも、違った。

 明らかに、違った。

何回寝ても、何回朝を迎えても、憎悪は消えることなく、むしろ日を経るごとに膨れ上がっていった。

寄生虫の如く僕の心に入り込み、コンクリートに根を張る植物の如く深く深く食い込んでくる憎しみ。

栄養を毟り取り、肥大していく。

 異常。そう素直に思えた。

 そうしたら、段々と怖くなった。自分が怖くなった。

 早く消えろ。

 早く消えろ。

 ただそれだけを願って、僕は日々を過ごした。いつかパンクしてしまうんじゃないかという恐怖感と共に。

 友達に助けを求める事は憚られた。自分でも異常だと感じている事を、友達に話してどうなる?

 それで解決するなら、憎しみが消えてしまうという保証があるならいくらでも相談したさ。

 でも、そんな確信はどこにもなかった。だから、できなかった。もし、引かれたら。もし、気味悪がられたら。もし、怖がられたら。もし…………。もし…………。もし…………。………………………………………………―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 だから、僕は自分の中で勝手な解釈を無理やりにこじつけた。

 僕は影が憎いんじゃなくて、許せないんだ、と。

 これは憎しみじゃない、憤りなんだと。いつの間にか芽生えた思い、意思なんだと。欺瞞に満ちた正義感で憎しみを覆い、自分を騙した。

 それは意外にも効果覿面で、僕はむしろその思いに自信さえ感じ、影の死を受け入れてしまっている人々に対して優越感さえ覚えるようになっていた。

 自分は違う。他人とは違う。だから、僕はこの気持ちを強く持たなければいけない。

 欺瞞で精製されたはずの正義は、気づけば副次的な使命感さえ自身の中に生み出していた。

 だけど、それがいけなかった。

『ヒーローがいるかもしれない』

 その噂を耳に挟んだのは、丁度一年前。

 僕の胸はこれまでにないほど高鳴った。

 とうとう影に抗える人が現れたのだと。欺瞞である正義感とその欺瞞で欺瞞をコーティングした使命感が疼き出した。

 それから、僕は影の出現地点を逐一把握し(詳細は企業秘密)、ヒーローの捜索を開始。これは智也に気づかれないように、夜中や休みを利用して行った。

 別に隠す必要はこれといってなかったのだが、ヒーローを見つけた際の優越感を独り占めしたかったのかもしれない。

 ……あー、僕は自分を欺きながらも結局は歪んでいたんだ。

 んんー、でもそれは今はいいか。

 話を戻そう。

 でも、結局ヒーローが見つかる事はなかった。噂といってももともと信憑性は低かったわけだしなぁ。

噂にもなっていない噂を記憶から消去しようとしていた頃。

つまりは、諦めかけていた時にヒーローは唐突に姿を現した。

間が悪い。それだけじゃなく、場所も悪い。

どうして一年以上も探し続けた僕ではなく、智也の前に現れたのか。うににー。それはまあいいとしよう。

 僕はそのヒーローと会うという願いの第一段階が叶った。見た目は予想と大きくずれていたけど。それもいいとしよう。

 このままトントン拍子で僕の正義感溢れる物語は進行して行くと思っていた。ヒーローに会えて、ヒーローから影を倒す方法を伝授してもらって、僕が影を人類の代表として倒していく。

 個人的にはそれを智也以外に気づかれずに、影のヒーローとなるのもありだな、なんて事までプランニングしていた。皆が噂をする。昨日、ヒーローに助けられたんだ。昨日、颯爽と現れた救世主に命を救われたんだ。それを聞いて僕は静かに微笑む。みたいな?超クールだよねー。

 でも、現実は僕の不正を許してくれなかった。改造手術も受けないで、ヒーローになれるとでも思っていたのかこの大馬鹿者が!と。

それは実際にヒーローが影を倒した瞬間をこの目に捉えた時だった。

 突如として、それまで正義感に厳重に梱包されていた憎しみが溢れ出して来たのだ。僕は久しぶりに感じたその感情に戸惑い、恐怖を感じながらも、どこか陶酔感を覚えた。

 脳髄が麻痺し、意識と体が離れていくような感覚に鳥肌が立つのを感じだ。心地いい?いや、気持ちいい。気持ち良かった。

 長期熟成されていた為、よくないモノが混じってしまったのか?ううん、違う。結局は、偽りの感情は本物に、それがどんなに醜く歪んでいようとも、自分自身に毛嫌いされていようとも、勝る事はないというだけ。

 だけど、僕はこれに負けてはいけないと、粉々に砕け散った欺瞞の塊を接着剤で修復し、もう一度憎しみを覆った。麻薬のように病み付きになる前に、依存してしまいそうになる自分を抑えて。

 しかし、思わぬ方向に僕の心は作用し始める。

 影を倒す事ができるのは、ヒーローが持つ日本刀だけ。これがヒーローを仮にも(本当に仮)目指していた僕に突きつけられた現実。

 徒労。無駄骨。草臥れ損。

 んー、でも別にそれはよかった。自分がヒーローになれなくても、それでも良かった。幸奈と一緒に影を倒して回る。僕は何もしないけど。

 それだけで、正義感(欺瞞)と使命感(欺瞞で精製された欺瞞)は満たされた。ただし、それは初回限定のキャンペーンだったみたい。

 じわじわと僕の正義使命感は疼き出した。偽者のくせして自分を激しく主張してきたのだ。

 幸奈が影を倒すのを見る度に、疼いた。動いた。でも、それ以上に問題だったのは、それに便乗するように再び憎しみが動き出した事。

 そして、更なる問題として、偽りの両者は一度砕けてしまい、非常に消化し易い状態にあった事。突貫工事はいけません。後悔先に立たず。後の祭り。

 咀嚼は最低限で済んだみたいだ。

 ふひひー。偽りの正義感と偽りの使命感は、憎しみと混ざり合い、歪な形で『本物』へと変貌を遂げた。

 見事なまでの歪み。

 芸術点は何点でしょう?そうですか、難点だらけで点数はなし、と。落選決定。人としても落選?なははー、それは仕方ないかな。

「僕はもう駄目なのかー?ねえ、智也」

 手元に光るは日本刀。

 足元に広がるは赤の海。

「きひひー。もう、収まんないなー」

 


「咲月、どこにいるんだ」

 僕は走っていた。ただただ走っていた。

 ただ?走っていた?

 ああ、後半部分は正しい。じゃあ、前半は?

 なんで僕は走っている?

 理由?

 友達を助ける為?

 はっはー。偽善にも程があるだろー。なあ、僕。僕が何を期待しているか分かっているくせにー。

 咲月が持っているのは偽の日本刀。偽?ああ、違うなー。日本刀として本物か。単に、影を殺すというオプションが付いていないというだけ。

 さてさてさてさてー、僕はそれを咲月に伝えたいが為に走っているのか?はい、ダウトー!ダウトーダウットダウトンダウダウダウトーーーダウンンンントントントン、ダーウートー。

はい!ダウトッ!

はい!ダーウトッ!

 はい!ダウートッ!

 はい!間違い。

 はい!自分詐称の罪で逮捕でありますっ!

 咲月を救う?そんなつもりなんてさらさら御座いません。でも、咲月が影に遭遇して死んでしまう前にできるだけ見つけ出したいのです。

 できる限り、僕の側で死んでほしいのです。

 なぜ?理由は単純。より身近で死んでくれたら、影に殺されてくれたら、分かるかもしれないから。

 もやもやもやりんの正体が。

「ははは八は八派は母は八は母ははあは母八はhhhhッ母はあはhhhhhhhhhhhhhhっはっははははhhっはははははははははははははあhっはははhhhははあは八はhhhっはははあhhっはあははっははあっはあははっはあはははっははっはあはっははははははははhhはっ」

 狂ってるなー。僕。ものの見事に狂ってるなー。

 いつからだっけ?もともと?初めから?いやー、違うなー。だって、薄男に幸奈が影の親玉だって聞くまでは、結構本気に咲月を助けなきゃと思っていたわけだし。

 これも何か関係あるのかな?もやもやもやりんの正体と?

 ははっはー。

「とりあえずー、学校行ってみるかー」

 目的地・僕らの高校。

 速度・時速十五キロ。

 目標・咲月。

 目的・前述の通り。



 俺の人生は真っ直ぐだった。

 回り道する事無く。道草を食う事無く。後ろを振り返る事無く。

 全て自分の意思で選択し進んできた。疑問など挟まるはずもない。疑問など挟むはずもない。自分が信じた道を進んでいるというのに、どこに疑問を持てと言うんだ。

 意味がない。無駄。蛇足。

 そんな事を考える為の時間もカロリーも、全て無駄。無意味。自分が選択した道に疑問を持つほど人生の無駄遣いはない。

 おそらく、それまでにとってもこれからにとっても、重大な決断をしたあの時のことですら、些細な引っ掛かりにも成り得ない。当然だ。

 自分の選択は自分自身にとって絶対で、自分は自分の選択を信じ続ける事で人生を構築してきた。

 それは自信となり、それは芯となり、選択された道に一種の使命感すら覚える程だった。実際、使命と捉えていた。

 疑うべくもない選択は、使命。俺のすべきと考えた事は使命。

 使命は俺の行動全てを支配し、息一つに至るまでに根を這わせた。

 それで良かった。それが良かった。使命による支配に俺は母に抱かれる地乳飲み子のように安心し、身を委ねていた。これでいいのだと。

 ……その、はずだった。はずだったのに、今の自分はどうだ?今の自分は何だ?何なんだ?

 なぜ自分の決断に、使命に疑問を感じている?自分がそうしたいからしたいはずじゃなかったのか?

 何をしているんだ。何を疑問に思う。

 だって、自分がそうしたいからそうしたはずで、そこに迷いはなくて……でも、迷いがあるから疑問が出るわけで……自分は自分は自分は俺は俺は俺は私は私は私は僕は僕は僕は……。

 ちくしょうが!頭が痛え!

「おーいぃ、随分と悩ましい顔をしているじゃないかぁ」

「……おいおい。相変わらず、声以外は存在の欠片も感じさせねえ奴だな」

 廃工場のリビング(自称)。

 ソファで蹲る俺に話しかけてきたのは、いつの間にかリビングの入り口で仁王立ちしている一人の男。いつ入ってきやがった?全く気づかなかった。いや、でもそれはいい。これが全く知らない奴ならビビるんだろうが、こいつなら特に……だな。

「五年振りかぁ?なぁ、三城幸奈ぁ」

「気持ち悪い声。五年振りとは思えねえな。昨日聞いたばっかみてえに鼓膜にへばり付いてやがったぜ」

「そうかいそうかいぃ。……んんー、それはいいさぁ」

 五年振り……か。という事は、もう実験は終了って訳だな。にしても、こいつは表情も雰囲気も何もかも薄い。

 五年前と全く変わんねえな。中身は分からんけど。いや、そもそもまともに話した事はあまりないな。

「もう……」

「もういいのか?」

「ははぁ、そういうことだねぇ」

「じゃあ、この愛しの廃工場ともおさらばなわけかー」

 ふーん。そろそろだとは思ってたけどよー。と、ソファに座り直す。

 その勢いでソファの背もたれに両肘を乗せ、右足を立てたままの左膝に乗せ、だらしなく天井を見上げた。

天井からは微かに光が入り込んでおり、未だ太陽がご健在な事を俺に伝達してきた。思えば、五年もここで暮らしていたのに上を見上げる事ってあんまなかったな。

常に前を見て。俺らしいと言えば俺らしいか。

「おっとぉ。でもその前に聞いときたい事があるんだねぇ」

「聞いときたい事?」

 しっかりと目に焼き付けておくべく目を細め、廃工場の内装に焦点を絞っていた俺に質問が飛んできた。

「そおぅ。質問。あの二人は何だろうねぇ?」

 あっと、見られてたのか。今日はまだ来てないからこのまま何事もなく、って行きたい所だったんだけど。

「あー、あの二人はたまたま知り合ってな。所謂、おしゃべり友達って奴だ。大丈夫。何も話してねえよ」

 毅然とした態度。これが一番。出来る事なら、俺の『弱さ』に巻き込んでしまった二人はこのまま無事に、な。

「そうだよねぇ。やっぱりそうなったかぁ。いやいや、予想はしてたんだけどねぇ」

「あん?何を言ってんだ?お前」

「いやぁ、やっぱりバグを起こしてるなぁと思ってねぇ」

「は?」

 明らかにそれまで存在していなかった存在感が目の前の男から発せられた。



 校門側に位置する校舎の四階。

 そこに僕と咲月の教室がある。

 とりあえず、学校に到着した僕は可能性を片っ端から潰す為のローラー作戦を展開する事にした。まずは、教室へ。

「咲月っ!」

 開いた扉の先には誰も居らず、机と椅子が明日再び使用されるのに備えて静かに力を蓄えているだけ。

 つまりは無人。教室を絶賛占拠中の無機物達は、早く出て行けとばかりに無音のプレッシャーを掛けてくる。

 どうやら放課後になると昼間の主従関係は逆転しまうらしい。

 まあ、どうでもいいか。

「次は図書館」

 ドアを適当に閉め、る事無く僕は次の目的地へ。

 目的は変わらず。

河川側五階の僕と咲月の秘密の部屋へ進路変更。

 教室を出て直ぐの、校舎中央にある階段を一気に上りきり、そのままの勢いで右折。さらに右折。視界が開け、目の前には二つの校舎を繋ぐ渡り廊下。急激な方向転換に、靴の裏が廊下に削り取られる感触が足裏に伝わってきた。

 捻れそうになる足を何とか健常状態に保ちつつ、一気に加速。対の校舎へ。

 とんとんとんと、目の前に存在する壁との距離を詰めつつ、小さく弧を描き、右折の体勢を取る。

「うおおおおおおおりゃっ!」

 掛け声と共に左手にある白壁を左手で弾き体を思い切り回転させ、見事、正面の壁に激突する事なく河川側校舎の廊下へ侵入。

 かなり無駄な動きを含みつつ、残りの直線数十メートルを走破すべく、僕の足は止まる事無く掛けて行く。

 そして到着。図書館。

「はぁはぁはぁはぁ」

 呼吸を整え、ドアの取っ手に手を掛けて手前に引いた。

「咲月っ!」

 図書室に充満する、独特の生温い空気と図書館独特の古びた紙の臭いが鼻を突く。それに紛れ込むように、あまり嗅ぎなれない臭いが鼻腔を擽った。

「あ、智也―」

「……咲月?」

 視界に広がるのは、凄惨、その言葉しか当て嵌まらないような光景。僕の正面に立つ咲月の足元には赤褐色の水溜りが広がり、その中には人の胴体部分がだらしなく倒れている。

 天井にまでへばり付いている赤い液体は、ぽたりぽたりと、途切れることなく自由落下をしている。

 そして、僕と咲月の丁度中間地点には、胴体部分から見事な分離を果たした頭。

 ごろりと、自分だけ血の海から離脱して息苦しくはないはずなのに、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。

「……っ」

 慌てて鼻を覆う。血と認識した瞬間、鼻を突く臭いは明らかな嫌悪感を僕の中に作り出した。

 しかして、おいおいおいおいおい。これは予想外過ぎる。

「何やってんだよ……。何で、何で、担任殺してんだよ!」

 苦虫を潰したような顔で床に聞き耳を立てているのは、クラスの生徒が死んでも顔色一つ変える事のなかった担任の先生(一部分だけど最重要部)。

さすがに、自分の死には深く感じ入るものがあったみたいで、それなりの表情を作っている。二度と変わらないのだから、造形と言った方が正しいのだろうか?まあ、どうでもいいけど。

「にひひー。やっちゃった」

 興奮しているのか、上ずった声を発する咲月。担任とは違い、その顔には柑橘系の爽やかさすら感じられる。ねっとりと、血が全身くまなく付着しているというのに。

 そう思える自分も、そう感じさせる咲月も異常だ。僕は重々、自分の異常性を理解していたけども、咲月がここまでとは。

「やっちゃったって……お前。それにその日本刀……」

「んんー?これ?知らない人からの頂き物だよ。ああー、でも残念ながら、幸奈のと違って影を殺す事はできないけどねー」

 手に持つは日本刀。視線を斜め下に落とし、剣先から滴る血を眺めながる咲月は、自嘲気味の笑みを浮かべた。

「知ってたのか?」

「知ってたのかってことは、智也も会ったの?あの存在感薄い男に」

「ああ、さっき道端で……ってそれはいい……」

 本当は良くないんだけども。くそっ。ここまで走ってきたのが意味なくなりそうだな。いや、とりあえずそれは置いておこう。それよりも、目の前の事態を収拾したい、かもしれない。まあ、興味半分。咲月は何を考えてんだ。

「それよりも、どうして担任を殺した?あくまでも、咲月が許せなかったのは影じゃなかったのか?」

「なははー。…………そこは女心と秋の空って言うくらいだよ?女の子の心は七・変・化」

「今、それはいらねえだろ」

 おどけて誤魔化そうとする咲月を強く言葉で威圧し、力強く見据える。僕の態度に不満を感じたのか、詰まらなさそうに頬を緩く膨らませる咲月。

「むむー。別に言ってもいいけどさー。……引かないって約束してくれる?」

「ああ、約束する」

 自分も人の事、言えた性質じゃないし。

「じゃあ……。んんー、理由は結構単純なんだけどー、影を憎い憎いぜこの野郎って気持ちと、僕の中に溢れる正義感が混ざっちゃって、影だけじゃなくて影を容認している人も本気で許せなくなったって感じかな。つまりは、正義の鉄槌を貴方にみたいな」

 そう言って、足元の死体を日本刀で突き、微笑む咲月の顔からは、後悔の念は感じ取れない。

「ていうのは、理由の半分でー、もう半分は、影を殺せないならこっちでいいやって感じでかな」

「……っ」

 醜くつり上がる咲月の口元に、僕の鳥肌も一斉に湧き上がる。咲月が今までに見せたことのない笑みを浮かべたのもその要因ではあるが、それ以上に、僕は先にある、深いところにある感情を感じ取ってしまった。

 おそらく、咲月は自分の感情に従順になる事の快楽を知ったのだろう。僕と同じで。

 だからこそ、この今の状況は嘘偽りなく、咲月の本心の表れなんだ。否定の余地はない。だからこそ、僕は……。

「むににー。引かないって約束したのに引いてるな」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだが……」

「別にいいけど。人を殺しておいて、引くなって言う方にも無理があるしねー。……ふぅ。でもね、僕だって本当は担任を殺すつもりはなかったんだよ?そりゃあ、影を殺せない事に憤りは感じてたし?代わりに担任みたいな駄目人間を殺すのもありかなって思ってた。だけどさ、それをやったら御終いじゃん?何もかも。全て。これまで、自分が積み上げてきた全て、無駄になっちゃうわけじゃん?人殺しは犯罪わけだし。重罪なわけだし。だから、必死に抑えてた。影を殺せるような方法が見つかるまでの我慢だって。思ってた。昨日、あの男からこの日本刀を貰うまでは」

 咲月は目を細め、新しい記憶を弄くり返す。

「あの男、たぶん僕を何日か観察してたのかな?僕が影を殺したがってるの知ってたみたいだし。本当に嫌な声だった。何もかもが薄い癖に、声だけはへばりつく様な気持ちの悪さを持ってた」

やはり、あいつか。何者だ?あれは?

「んんー、まあそこは置いといて。結局はさ、そんな薄気味悪い奴から貰ったものをおいそれと信じる事はできないって訳で。誰だってそうだろ?何を信じればいいのさ?そりゃ、あの男が影を殺す為に日本刀が必要だって事を知ってる時点で、かなり内通してるんだろうけど、だからって何で僕にそれを渡す?意味は?ない。きっとない。あるはずがない。クリスマスでもないのに、自分の一番欲しいものを貰えるはずもない」

笑顔を振りまく咲月の声は、微かに震えていた。

「そうしたらね、もうどうでも良くなったんだ。全てが全て、どうでも良くなった。散々、影を憎んだ挙句、僕の手元に舞い込んできたのは、ただの鉄くず。笑えるだろ?ただの命令で影を殺す幸奈には、影を殺す為の刀があって、両親を影に殺されたのに、ろくに憎みもせずに生きる智也の前にヒーローは現れて、本当に、笑えるだろ?こんなにも、こんなにも、必死の僕にはこんな鉄くずしか与えられないなんて、どこまで僕を馬鹿にすれば気が済むんだよ!」

「咲月……」

 ここは同情すべき所か?いや、違うな。僕はもう、駄目なんだ。どこまでも、駄目なんだ。腐りきった僕の心はどこまでも冷めて冷めて、終わっていた。

「試してみればいいだろ?まだ、それが偽物って決まったわけじゃないんだ。また二人で影を探して歩いてさ、試してみればいいだろ?」

 そして、僕の目の前で死んでくれ。咲月。はははー、自分終了。

「なははー。智也はどこまでも優しいね。だから、憎めなかったの?影を憎めなかったのは、優しさ?両親殺されても、影は殺せない?」

 くだらない優しさだね、と彼。

 辛辣な言葉は僕の胸に突き刺さる事無く、ただ空を切る。咲月、そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ。僕は。

「あー、困らせてごめん。別に智也を責めてるわけじゃない。ただの八つ当たりだから気にしないで。僕も気にしてないから。…………でも、智也の言う事も一理あるし、一度くらいは影に効果あるかどうか、確かめてみようかな」

 咲月は笑いながら血がへばりつく日本刀を、静かに首元に宛がった。

「おい……。何する気だ?」

「あははー。試したいのは山々なんだけどー、でもね、さっきも言った通りもうどうでもいいんだよ。何もかもが。そして、自分自身も」

「咲月っ!」

 刺さる。咲月の首に、突き刺さる。そして、どちゃりと、血の海へと、重力に導かれるように倒れ込む咲月。

 何してんだよ何してんだよ何してんだよ。

 側に駆け寄り抱き起こす。虚ろな目は灰色に濁り、こひゅーこひゅーと微かに息が漏れる音が聞こえる。

「咲月!咲月!」

 叫んでも、叫んでも、咲月の目はさらに濁りを増していく。

「何してんだよ!何してんだよ!」

 それじゃあ、意味がないだろ!

何かを言いたいのだろうか?唇が微かに動いているが、日本刀によって寸断された声帯からは声は出てくるはずもなく。

静かに、頬を伝う涙だけが、その感情を悟らせた。



 気持ちがいいほど、すんなりと僕の首を突き抜ける日本刀。首に、熱が走った。

 でもその感覚も直ぐに薄れ、消えていく。代わりに、僕が感じたのは、体の表面に触れる熱。

「咲月!咲月!」

 霞む視界の中で、智也が僕の顔を覗き込み、心配そうに叫んでいた。なるほど。智也に抱きかかえられているわけですか。

 うーむー、悪くないかなー。なははー。

「何してんだよ!何してんだよ!」

 あーははは。やっぱり、失敗したかなぁ。どうでも良かったのに、良かったはずなのに、そんなに必死に叫ばれたら未練残っちゃうじゃん。

 ああー、お別れの言葉言いたいのに、声出ないや。喉を刺したのは駄目だったね。

智也、何て目をしてんだよ。全く、もう。

 本当にどこまでも優しいなぁ。そんなんじゃ、いつか悪い人に騙されちゃうよ。僕はその時いないんだから。

 嘘、言っちゃったなー。どうでもいいって言ったけど、智也の事だけはそうでもなかったのに。言っちゃったなー。

 ごめんね。嘘、言って。智也、智也、智也、智也、と……も…………………………――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 


 重く圧し掛かる、咲月の死体。

 手にはまだ体温が伝わってくるが、時間が立てば冷めていくだろう。

「…………」

 完璧に濁り切ってしまった咲月の目は、もう二度と光を取り戻す事はない。

「ちくちょう」

 くそ……くそくそくそくそっ。どうしてくれんだよ。咲月は影に殺される予定だったのに。

 くそくそくそくそっ。あいつだ。あいつのせいだ。あの男が咲月に日本刀さえ渡さなければ。

 あいつの…………あれ?あいつに咲月は殺された?のか?――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あああああああああー、そうだ!あいつのせいで、あいつのせいで咲月は死んで死んで死んで…………――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――そして、僕の両親は幸奈に――――――――――――。

「はは、はははははっはははははっはははははっはっははっはははhっはっははははhっはhっはhっはははっはははっははははははははははっはははははははあっははははははあははははh!」

 思い出した思い出した思い出した!

 そうだそうだそうだ!

 そうだったそうだったそうだった!

「はーはーっ!…………行かないと!幸奈の所に行かないと………」

 手に無遠慮に乗るそれを床に落として、僕は図書室を後にした。



「バグってるって、どういうことだ?」

 俺は睨み付けた。存在感の薄い男を睨み付けた。それでも、怯む事無く男は続ける。

「そのまんまの意味だよぉ。そういう風にはならないように、一応仕込んでたはずだったのに、そうなってしまった。ただ、それだけの話さぁ」

 男の表情は揺るがない。感慨深げでもなく、かと言って、完全に他人事のようにではなく、それでもただただ淡々とした口調で言葉を紡ぎ出す。

「いやいや、意味が分からん。お前、何を言ってんだ?」

 俺の混乱は止まらない。男の余りにも全てを知りきった発言が心を激しく揺さ振る。こいつは知っている。俺の知らない俺の何かを、知っている。

 くそっ。胸糞悪い。

「何もも何も、そういう事だよぉ。三城幸奈は実験のみを遂行するように、きちんと脳に細工されていたはずなのに、今こうして、実験以外の事にまで手を出しちゃってるからねぇ。他の奴らはバグることなく終わったんだけど。……だから、私は反対だったんだよねぇ。お前を出すのは」

 どういう事だ?こいつは何を言っている。俺の脳に細工がされている?

 そんなまさか。俺は俺の意思でこの実験に参加し、今ここにいるんだ。いるはずなんだ。なのに、どういう事だ?

 俺は俺じゃないのか?

 俺は、俺の意思でここにいるんじゃないのか?



 八年前。

 某所。

 公的機関による実験。

 そういう名目で集まった少年少女数十名。

様々な機材が所狭しと置かれている部屋。無機質な臭いが鼻を突き、無機質な機械音が鼓膜を揺らす、その部屋の中で横一列に並ぶ、少年少女二十名。

 その中に、俺はいた。

「では、これから実験を開始します。実験に協力の意思を表明していただいたご家族には深く感謝の意を…………」

 俺の目の前で白衣を着た男が、実験の開始を宣言し、資料を手渡していく。

「えー、皆さん、既に内容は十分に理解されているとは思いますが、今一度説明をさせていただきたいと思います」

 手に持つ資料を一枚捲り、男は話を進める。

「今回の実験の主旨は、簡単に言いますと、生物兵器の開発です。それはウイルス等とは一線を画す、新たな生物兵器。人間に内蔵し、そこから無尽蔵にある種の脅威を生み出していく、新種の生物兵器。現在、世界情勢は非常に不安定です。いつ何時、日本に脅威が降りかかるともしれません。そこで、我が国はその脅威を削いでしまうという決定を下しました。しかも、戦争をすることなく。それこそ、今回のプロジェクト。もし、この兵器の開発に成功すれば、日本の平和は未来永劫守られていくでしょう。皆様はその第一被験者として、誉ある役割を…………」

 続く説明。

 俺たちは被験者として集められた。それぞれが、何かしらの同意を経て、ここに集められた。

 他の奴らがどうかは知らないが、当時、十歳だった俺は、確実に自分の意思でそこにいた。疑う余地も無く、確実に自分の意思でそこにいた。

『国(、)の(、)役(、)に(、)立つ(、、)人間になりなさい』

 両親にそう言われ続けて育ってきた俺にとって、この実験に参加する事はまさに親の思いを形にしたものだった。両親もこの話が舞い込んできた時には、手を取り合って喜んでいた。

だけど、それはあくまでも、付随的な要素でしかなく、自分自身が国の役に立ちたい、その固い意志こそが原動力となっていた。

 実験の主旨は、現在から未来に至るまでの、日本に襲い来るであろう脅威を削ぐ為の兵器の開発。生物兵器、人間兵器の開発。さらに簡単に言えば、他国を内部から侵食していく為の兵器の開発。

 この日本という国に、将来的にどれだけの脅威が待っているのかは分からないし、それを考えて兵器を開発することにどこまで意味があるのかは分からない。だけど、自分にとって重要だったのは、それが確実に国の役に立つという一点のみ。その大小は分からない。しかし、確実に自分が役に立つ事ができる。それだけで、理由は十分だった。疑問の挟まる余地はなかった。

 これまでそうしてきたように、今回も自分の意思でここに来たのだ。

「それでは、これからの三年間、実験の第一段階として、様々な人体実験を行っていきます」

 

 そして、三年後、無事第一段階の実験を終えた俺たちは、再び、あの部屋へと集められた。

 何も変わらない部屋に集まる、少しだけ成長をした俺とその他の子どもたち。

「皆さん、第一段階お疲れ様でした。これより、第二段階へと移行します。第二段階は実践。ここからは、新しく実験主任へと就任された……」

「あぁ、名前はいいよぉ。教えてもどうせ五年間は会わないんだし、意味ないからねぇ。……皆さん、こんにちはぁ。初めましてぇ。それではこれから、第二段階の説明を開始するよぉ」

 ねっとりと絡みついてくる声とともに、一歩前に出てきた男。印象に残らない顔をしていた。声とは対照的に。

「第二段階は、実際に町に出て、五年間生活をしてもらうことになるんだよねぇ。皆さんの体に植えつけられたある特殊な細胞は、不特定多数の人々を攻撃する『影』と呼ばれる兵器を生み出す、ってのは聞いたよねぇ?それがどれほどの有効範囲を持つのか、やぁ、どれほどの期間働くのか、とかぁ、どれほどの攻撃性を持っているのか、とぉ言ったデータを集める為に、君たちには外に出てもらうことになるからねぇ」

 固定されたように動かない表情は薄気味悪さだけを俺に伝えてくる。横にいる奴らも同じ事を感じているのか、少しだけ視線を落として話を聞いている。

「この実験は多くの国民を犠牲にするんだけどぉ、でもまぁ、君たちが気に負う事は微塵もないからねぇ。ってぇ、これも三年前に了承済みだから、今さら確認する事でもないかぁ」

 国の為の犠牲。不特定多数の犠牲。

「国の未来を考えればぁ、現在における犠牲は仕方ないよねぇ」

 微塵もそんな事は考えていない。この男は。だけど、それは俺も同じ。自分の意思で実験に参加し、体を弄られ、人を殺す。

 躊躇いはない。自分が選んだ道。

 悔いはない。自分の意思が絶対なのだから。

 純粋に、ただ、黙々と、実験を継続すればいい。

 何も考えず。

 何も思わず。

 それが、俺の選んだ道なのだから。

 

 …………―――――――そのはず、だったのに―――――――…………。



「記憶は作る事ができるしぃ、人の精神を操る事もできるんだよぉ。いやぁ、より正確には、人の記憶を操作する事で、精神も支配できるって感じかなぁ」

 男は薄ら笑いを浮かべながら言葉を紡ぐ。

「簡単な事。実に、簡単。……な、はずだったんだけどねぇ。でも、お前の場合は余程、元々の自我が強かったんだろうねぇ。イレギュラーな動きをしてくれたもんだよぉ。一般人に積極的な接触を図るなんてさぁ。しかも、せっかく生み出した影を殺してまでぇ。余程、寂しかったのかいぃ?やっぱり、被験者にも殺せないようにしておけば良かったかなぁ。でも、影に殺されたら元もこもなかったしねぇ。これは次への課題だねぇ」

「ちょっと待て。意味が、意味が分からない。俺は俺の意思でこの実験に参加して、国の為に参加して、そこに間違いはなくて、両親も喜んで……くれ……て…………」

 あれ?両親?俺の、両親?俺は三城幸奈。両親は三城…………。

 え?あれ?お父さんは……。お母さんは……。

「ああ、え、うううう、俺は三城幸奈で、三城幸奈で……」

「おやぁ、そこまでバグっているのかぁ。これまた、予想外だねぇ」

 男はそこで始めて、声色を変えた。まるで廃棄物を見るような目で、見てくる。

「本当は、連れて帰って修復するつもりだったけど、これはいよいよ廃棄処分しないといけないかもねぇ。あの一般人みたいに」

「え?……今、何て言った?」

「んん、ああ、言ってなかったねぇ。あの二人は、今頃死んでいるんじゃないかなぁ」

 死んでるって、おいおいおいおい。冗談だろ冗談だろ冗談だろ。

 あの二人は俺が勝手に巻き込んだだけで、何も関係なくて。

「そんな怖い顔をするなよぉ。巻き込んだお前が悪いんだしなぁ。……とは言っても、向こうも何かしらの事情を抱えていたみたいだから、一概にお前が悪いとは言えないけどさぁ。でも、結局はどうであれ、関わってしまったら、駄目だよねぇ。いくら、影が憎いからって。死んでもらうしかないよねぇ。んふふふふふふふふふふふふふふふっふうっふふふふうふふ」

 こいつ、こいつ、こいつこいつこいつ、こいつ!喜んでやがる。

 人が死ぬ事を喜んでやがる。人を殺す事じゃない。人が死ぬという事実を楽しんでやがる。

 くそっ。なぜ五年前にそこに疑問を感じなかったんだ。

 なぜ俺は、人を殺す事に疑問を感じなかったんだ。

「この……外道が……」

「外道?それは君も同じさぁ。嬉々としてこの実験に参加したのは誰だ?自分の使命感の為に大勢の人間を殺したのは誰だ?大勢の人を殺して何も感じなかったのは誰だ?なぁ、三城幸奈ぁ」

「違う、違う違う違う違う。それは俺じゃない。俺じゃなくて。でも、それは俺で、俺で、俺は国の役に立ちたくて、立たなければいけなく、て…………それは絶対で……だから……。でも、それは違う……違う?何が、違う?ああああああああ、俺は俺は……私は私は……」

「くふふふふふ。お前はもう駄目だねぇ。『記憶』が崩壊して、記憶が出てき始めている。残念だけど、ここでさよならだよぉ。私は担当責任者だし、最後まで面倒は見るからねぇ」

 本当は、殺すのは趣味じゃないけど。と、呟いた後、男が取り出したのは、小さな小さな果物ナイフ。

 蛍光灯に照らされ、鈍い光を放つ果物ナイフ。

「残念ながら、お前が愛用している日本刀とは比べ物にならないくらいちゃちな物だけどぉ、殺すにはこれで十分だねぇ」

 ゆっくりと切っ先が俺に向けられる。男のどこまでもどこまでもどこまでも、歪んだ笑顔とともに。

「さようならぁ」

 切っ先が目の前に迫る。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――どすん。

 鈍い、音がした。

 俺の目の前から、鈍い音が聞こえてきた。

 同時に、男の顔が歪む。

「ちょっと、これは予想外過ぎるねぇ……」

 男の口から血が流れ出し、胸元から、血化粧を施した日本刀が飛び出している。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、ああ、あ」

 膝から崩れ去る男。そして、代わりに現れたのは、

「智也」

 男が死んだかもしれないと言っていた二人の内の一人が立っていた。血に染まる日本刀を片手に。

「いやー、間に合ってよかったよ」

 人一人を殺したとは思えないほど清々しい笑顔を向けてくる智也に、違和感を覚えた。

「あ、ああ、ありがとう」

 何が、あった?



「本当に、幸奈が死んだらこれからどうすればいいか困っちゃうとこだったよ」

 僕は安堵する。心の底から安堵する。危なかった。もう少しで、僕の大切な人が死んでいたかもしれない。まさか幸奈が殺されそうになってるとは。

 冷や汗ものだ。

「咲月、は?」

 幸奈は消え入りそうな声で僕の友達だった奴の安否を確認してきた。ふむ。この感じだと、今しがた僕に刺し殺された薄男に何かしらを言われたのかな?

「咲月は死んだよ」

「……っ。すまない。すまない。俺が巻き込んだせいだ。俺が、自分勝手に振舞わなければ、咲月は……咲月は……」

 悲痛な表情。目を見開き、出血してしまうんじゃないかと心配になるほど下唇を噛み締めている。

 駄目だよ幸奈。自分の体は大事にしなきゃ。と、思いはするものの、はてさて、どういう言葉を掛けたら気を逸らせるだろうか?やはり、あれかな。

「そんなショックを受けることかなー?幸奈、人が死ぬ事にはなれてるだろ?」

「えっ?誰、から……」

 台詞の途中で幸奈の視線は床で惨めに臥せっている薄男へと向けられた。とりあえずは下唇も開放宣言を無事に出せたようだ。うむうむ。でも、これだけだとどうにも僕が幸奈を苛めている感じになっちゃってるから、付けたしといきましょうか。

「あー、ごめんごめん。困らせるつもりは毛頭ないよ。咲月が死んだのは、結局こいつのせいでさ、幸奈は何も悪くない。さらに言うと、僕に嘘を付いていたことも悪くないし、咲月を騙した事も悪くない。何も悪くない。だって、そこには理由があったんだろ?僕らを騙してまで、共に行動したかった理由が」

 幸奈の驚愕は止まらない。何かを訴えたいのだろう。口はぱくぱくと動いている。でも、言葉は出てこない。よし。続けよう。

「ああ、本当に気にしないでよ。別に僕は何とも思ってないからさ。そう。幸奈は何も悪くない。例え僕の両親を殺した影の親玉が幸奈だとしても、ね」

「……」

 否定はなし。架空の昔話は真実の昔話へと自動昇格したみたいだ。

「でも、一つだけ許せないことがあるんだ」

いい加減に手に持つ日本刀の重さが煩わしくなってきた僕は、床と熱いキスをかましている薄男の背中に突き立てた。即席、日本刀立て完成。そして、幸奈が腰掛けるソファとテーブルを挟んで設置されているソファに腰掛けた。視線を幸奈と絡め合わせる。

「僕が許せないのはさ、それまで僕の人生を築き上げてきた両親を殺したにも関わらず、その責任を取らなかった事。代わりをしなかった事。引き継がなかった事。全く持って腹立たしい。別に殺すなとは言わないさ。でもな、殺すなら殺すで、きちんとその後を継いで、きちんと僕の人生を作っていってくれないと困るんだよ」

「……」

「ん?何でそれを忘れていたのかって?」

 静かに僕の話に耳を傾ける幸奈の心理を読んだ、と信じる僕は続ける。身勝手な以心伝心。幸奈の表情は変わらない。きっと正解。

「だって、怖いと思わない?自分の親が死んだのに、殺されたのに、悲しいと感じなかったんだよ?遺体を確認した時も、通夜の時も、葬式の時も、初七日の時も、四十九日の時も、納骨の時も、僕は悲しさなんてこれっぽっちも感じていなかった。ずっと、僕の人生を作り上げてきた両親を壊したのに、責任を取れない影に憤りを感じてたんだ。どう考えても異常だろ?裏を返せば、僕は両親をただの道具としてしか思っていなかったって事だし。だから僕は自分でも気がつかないうちに蓋をしていたんだ。その思いに。……だけど、咲月が死んだことで、はっきりと思い出した」

 あの時の気持ちを。

 感情を。

 僕は異常だった。異常でした。そして、今再び異常になります。

 ぬふふ。異常。

 くふふ。異常。

 ひひひー。

「思い出したから、どうするんだ?」

 ここでようやく幸奈が開口。待ってました幸奈さん。表情は固いけど。

「思い出したから、今度はそれを受け入れる事にしたよ。だって、それが本当の僕で、真実の自分なんだから。自分を騙しちゃ駄目だよね。それに、せっかく、両親を殺した影の親玉・三城幸奈もいることだし」

 それになにより、自分の気持ちに従う事は死ぬほど気持ちいい。本当の自分を惜しみなく出すことは気持ちいい。きっと、五年前の僕はその感情に浸るのが怖かったんだ。本当の自分を認める事が怖かったんだ。異常な自分を受け入れる事が、素晴らしく気持ちいいという事実を。

 でも、今は違う。

 僕は自分の為に生きる。僕は自分の思うままに生きる。幸奈の代役である咲月も死んだことだし。お役御免。

「そうか。はっきり言って、智也の言いたい事は理解できない。何もかも、理解できない。でも、意味は分かった。だから、聞こう。お前は俺にどうして欲しい?」

 さっきまで幸奈の瞳の中でゆらゆらと揺れていた何かは消え去り、強く僕を見据えてくる。うん。いい目だ。上から目線、失礼。

「これからは、僕の側にいて欲しい。僕の側にいて、僕の人生を作っていって欲しい。それが君の義務でもあり、責任でもあるんだから」

 素直な気持ち。

 少し考え込むように幸奈は視線を落とした。断られたらどうしよう?殺すっていう選択肢はないから、勝手に付き纏うしかないかー。

 顔を上げた幸奈は口を開く。

「分かった。これから、俺はお前の側にいる。何があっても側にいる。それで、いいか?」

「うん。ありがとう」

 さあ、ここからいよいよ人生第二章の開始だ。

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