IV
森のなかを縫うように、川は静かに流れていた。
ここにある緑は、森のなかでもまた一段と鮮やかな色をつけており、虫、鳥、魚、とたくさんの小さな命であふれている。
川の水を汲んでいたフェルディックはバケツを持ち上げた。
「結構、重いな」
持つというより、ひっぱりあげる感じで、フェルディックはバケツを右手に小屋へと引き返す。
来る途中、運転手のおじさんの言う通り、念のため木に印をつけてきた。
後はまっすぐに小屋まで戻るだけ。
フェルディックは川沿いから、薄暗い森へと足を進める。
「――それにしても、父さんの居てた騎士団って、あんな人ばかりなのかな……」
あんな人とは、もちろんマントンのこと。
上流階級の人とは、皆あんなものなのだろうか。
「どうか、城の騎士団は立派な人たちでありますように」
祈るようにいいながらも、順調に足を進めるフェルディック。
一つ目の印が見えた。
木の幹に、フェルディックが剣で切りつけた跡だ。
「ひとつ」
念のため声に出して確認する。
印は全部で五つ。
ふたつ、みっつと、フェルディックは順調に進んでゆく。
それにともない息は荒くなり、額からは汗が、頬を伝って流れた。
よっつ、バケツを降ろし一呼吸。
――いつつ、フェルディックがつけた印はこれで全部。ドルイドの小屋はもうすぐそこだ。
歯を食いしばり、足を速める。
そしてようやく、ドルイドの小屋に到着。
――したかに思えたが、そこにドルイドの小屋はなく、前方には森が永遠と続いていた。
「あれ?」
まさかの事態に、フェルディックは慌てて自分の位置を確認する。
右、左、後ろ、――どこをみても、森、森、森。どれも同じような風景ばかり。
「ま、まさか……。いや、そんなはずない。印をたどって来たから迷うはず……ん?」
ふと、フェルディックは何かに気づく。
彼の視界の先には、木の幹に剣で切りつけた跡があった。
「おかしいな、確か印はいつつだったような気がするんだけど」
しかし、そこにあるのは間違いなくフェルディックが残した印と同じものだ。
「うーん。印の数を間違えていただけかも。うん、大丈夫。このまま行けば着くはずだ」
フェルディックは能天気にいって、まっすぐに進み始めた。
すると、また印があった。これで七つ目だ。
フェルディックはさらに進んでゆく。
――やっつ。ここのつ。
進めど進めど、あるのは永遠と続く森と、フェルディックの残した印だけ。
一向にドルイドの小屋にたどり着く気配はない。
フェルディックは疲れ果て、とうとう手からバケツを放した。
そのまま印のついた木にもたれ掛かり、座り込む。
「――おかしいな。印はちゃんとあるのに――」
どういうわけか、一向にドルイドの小屋に辿り着く気配はない。
それに、厄介なことにもうすぐ日が落ちそうだ。
印を辿っている間に、ずいぶんと時間が経ってしまったのだろう。
暗くなる空を、鳥のシルエットが横ぎった。
それを見ていると、なんだか、森のなかに独りぽつんと取り残された気がした。
「早く帰らないと」
夜になると視界はないに等しい。
自力で森を抜けるどころか、身動き一つ取れなくなる。
このまま森の中で永遠とさまよい、死んでしまうのだろうか。
フェルディックを不安と焦りが襲う。
「――駄目だ! 落ち着け……。確かに印はあるんだ。それに、僕は真っ直ぐ歩いてきてる」
そう、ここで慌てては駄目だ。今頼れるのは自分しかいない。
落ち着け、落ち着けと何度も頭の中で唱える。
フェルディックはゆっくり、
「すぅー……はぁー……」
と大きく深呼吸をする。
心なしか、落ち着いてきた気がする。
フェルディックはもう一度最初から、冷静に考えることにした。
まっすぐに歩き、道を間違えている様子はない。その証拠に、印もある。
本当なら、とっくに小屋に着いているはず。
ただおかしいのは印の数だ。これは、あきらかに自分のつけた数よりも多い。
まるで、この森に閉じ込められているよう。
「……まてよ、もしかして!」
フェルディックはあることを思いつき、勢いよく走り出した。
ひとつ、ふたつ、ともう一度印を辿る。
みっつ、よっつ。
「――ッ!」
五つ目の印、息を荒げる彼の視線の先には、水の入ったバケツがあった。
「やっぱり、同じところをグルグルと回っていたんだ……」
道を間違え、迷っていたのではない。
おそらくなんらかの力で閉じ込められ、同じところを永遠と彷徨うはめになっていたのだ。
どうしてこんなことになったのかは分からないが、思い当たる節が一つある。
「――もしかして、これって妖精の仕業?」
しかし、運転手のおじさんの話だと、妖精に危害を加えないかぎりは大丈夫といっていたが――。
「僕は何もしてないぞ。それとも、妖精はそんなことお構いなしなのか」
不安と焦りが、みえない妖精への怒りへと転化する。
今も、どこからか自分の姿をみてクスクスと笑っているのだろうか。
苛立ちを隠せないフェルディックは、ドンッと拳を木に叩きつけた。
――と、その時。
「ああ! 人間でやスッ!」
突然、空から声がした。
「えっ?」
声に驚き、顔を上げるフェルディックに向かって、小さな黒い影が急降下する。
――コウモリ!?
ベチャッ!
その小さな影は、フェルディックの顔面に張り付いた。
フェルディックの顔面を、爬虫類のような、冷たい乾燥した肌の感触が覆う。
「うわっ!」
フェルディックは慌てて引き剥がし、放り投げる。
「ぐへぇっ!!」
小さな影は勢いよく木にぶつかり、ひらひらと地面に舞い落ちる。
「ヒ……ヒドい……」
涙声でぼやく小さな影をよそに、フェルディックは、顔に残った気持ち悪い感触を必死にこすり落としていた。
なんだなんだ今のは! ――まさか、妖精?
フェルディックは、指の隙間から声のする方向を覗く。
木の根に座りこんでいる小さな影は、何やらぶつぶつと独り言を唱えている。
フェルディックは、おそるおそる、ゆっくりとそれに近づいてゆく。
コウモリくらいの小さな生き物だ。
しかしそれは、人間と同じように手足を持ち、額からは一本の角が生えている。
「な、なんだこれ? ――妖精、じゃないよな」
その奇妙な生き物を、フェルディックがまじまじと観察していると、それは急に飛び跳ねた。
「うわっ!」
驚いて仰け反るフェルディック。
その奇妙な生き物は、バッサバッサと翼を器用に動かして、フェルディックの周りを飛び回る。
「なんだこれとは失礼でやスね! あんさんインプも知らないんですかい?」
インプと名乗るそれは、フェルディックの顔の前で停止し、彼に向かって人差し指を突きつける。
「インプ……? それって妖精の仲間?」
フェルディックは首を傾げた。
「キィー! 違いやスよ! インプは悪魔でやスよ! 妖精なんかとは全っ然違いやス! そんなことも知らないんでやスか!」
インプは一気にまくしたてる。
「ああ、うん。わかったよ。ごめんごめん」
フェルディックは、なんだかよくわからないインプの勢いに圧倒された。
「わかればいいんでやス!」
インプは腕を組んで、うんうんと頷いている。どうやら納得したらしい。
「――えーと、それで。インプがこんな森のなかで何してるの」
「イッ!!」
フェルディックの問いに、インプの眼がカッ! と見開いた。
「うわっ!」
フェルディックはまた仰け反った。
今にも飛び出しそうなインプの眼球と、小さな口からむき出しになっている歯茎が気持ち悪い。
「――もしかして、迷ったとか?」
フェルディックの質問に、無言で硬直するインプ。こめかみから、冷やかな汗が滴り落ちた。
どうやら乾燥した肌の下は、ちゃんと水分を含んでいるらしい。
「そ……そうともいうでやスねぇぇ……」
インプが言葉を濁す。――図星のようだ。
フェルディック同様、インプもこの森から出られなくなったらしい。
「シカーシ!」
「うわっ!」
急に大声を出すインプにフェルディックは仰け反る。
何度みても気持ち悪い。
「人間がイれば、妖精の魔法から抜け出せるでやス!」
インプは人差し指を立て、瞳をキラリと輝かせた。
「えっ、妖精? やっぱり妖精の仕業なの?」
「そうでやス! やつらときたら同じところをグルグルグルグルと……ムキーッ!」
インプは歯を食いしばり、バタバタと飛び回る。
彼のいうことが正しければ、森のなかを出られないのは、やはり妖精のいたずらということになる。「そういえば、運転手のおじさんが話してくれた、妖精に出会った時の旅人の言い伝えがあったっけ。えーと、確か――」
「サァ! そのボロ着を逆さまに着るんでやス!」
インプはフェルディックの服を指差し、盛大に叫んだ。
「そうそう。僕のボロ着を逆さまに――。むぅ、失礼な奴だな……」
自分だって迷っているくせに、態度のでかいインプである。
「それは、構わないけど……」
妖精の仕業だというのなら、森から出るにはそれしか方法がない。
インプのいうことに異存はないのだが、何だか腑に落ちない。
「たしか、妖精に危害を加えようとしない限り、大丈夫だって聞いてるんだけど」
「イッ!」
インプの眼がカッ! と見開く。
――怪しい。
「君、妖精に何かした?」
「イヤァ……」
乾燥した肌から、大量の水分がボタボタと流れ落ちている。
「何かしたんだね」
インプはフェルディックの問いから逃げるように、頬をポリポリとかきながら、あさっての方向に視線を泳がせる。
「アノ……妖精が……飛んでいたからつい……」
「――つい?」
インプは恥ずかしそうに、両手の人差し指をもじもじさせる。
「……中身を……つまりソノ……」
と、ここまでいって開き直ったのだろうか、またもや眼をカッ! と見開き叫んだ。
「妖精の中身を下から覗いタ!」
「……は?」
フェルディックは唖然とした。
どうやら、森の妖精の怒りを買ったのは目の前にいる変態インプで、フェルディックはその巻き添えを食ったらしい。




