XXIX
その日の夜。
皆が寝静まったころ、フェルディックは宿の外に出ていた。
「ウゥゥゥゥ……モ、モウ、漏れるでやス……!」
「あぁ、もう、まったく……。はやくしろよ」
フェルディックは呆れ顔で、草むらの中へ消えて行くチゲを見送ると、星空を見上げた。
綺麗な丸い月が輝いている。あと二日もすれば綺麗な満月が見れそうだ。
――それにしても、悪魔も小便がしたくなるんだな……。
――ん、まてよ。
――そもそも、あいつって水分取ってたっけ……?
「フゥゥ~。スッキリしたでやスゥ~」
草むらから出てきたチゲが、爽快な笑顔で近寄ってくる。そのままポケットに戻ろうとするチゲを、フェルディックは「ちょっと待て」と、手で制した。
「……? なんでやスか?」
「お前、手は洗ったのか? ……ついでに、下半身もだ」
「……」
チゲが小首を傾げる。そして、何食わぬ顔でポケットの中へ戻ろうとする。
「ダメだ! ダメダメ! こらッ! ポケットに入るな! おいッ!」
フェルディックは怒鳴りつつ、チゲをポケットに入れまいと避け続けた。
「ムムム……。どうしてでやスか!」
チゲが頭に血を上らせる。
「どうしてって……。汚いからだよ」
「――ガーンッ!」
大げさな反応をするチゲ。というか、どうやったらそんなに顎が外れるんだ?
チゲはそのまま、へなへなと地上に落下して行くと、今度はぐりぐりと指先で土をこねくりまわして、いじけだす。
「そうでやスか……。あっしは汚い生き物でやスか……」
「あぁ……いや、そうじゃなくって……」
あぁ、もう、なんだかなぁ……。
チゲが、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
「なら、外に出たままついて行ってもイイんでやスか……?」
「それは困る」
キッパリと言ってやった。
「――んガッ!」
チゲは白目を剥いて、顎を外した。
「じゃ、じゃあ、あっしはどうしたらァァァッ!」
涙を滝のように流しながら、腰をクネクネと踊らす姿に、フェルディックは思わず仰け反った。
め……面倒なやつだなあ……。
「たしか……、宿の近くに井戸があったはずだ。そこで洗っていこう。その後なら、ポケットに戻っていいからさ」
そういうわけで、井戸まで歩いて行くことにした。
井戸の水を汲み上げ、勢いよくチゲの頭にぶっかける。絶句しながら、ぶるぶると震えるチゲの姿を見ると、なんだか気分も晴れてきた。
気持ちに余裕ができると、なんだか可哀想になってきたので、チゲの身体を上着の裾で拭いてやった。
それから、チゲを胸ポケットに入れて、宿に戻ろうとした時のことだ。
灯りの消えた宿から、静かに扉を開けて出てくる人影が目に入った。
あれは――。
「ヘレン?」
暗闇の中、月明かりを頼りにうっすらとしか見えなかったが、背格好からしてあれはヘレンに間違いない。
どこへ行くのだろうか。こんな時間に。
彼女はふらふらと、まるでなにかに導かれるように歩いて行く。
明らかに様子が変だった。嫌な予感がする。
「ヘレン!」
今度は思い切って、大声で彼女の名を呼んでみた。
――だが。
彼女は振り返ることもせず、闇夜に吸い込まれるように消えてゆく。
「まさか……!」
心臓が跳ね上がる。フェルディックは、背筋のぞっとする思いで、ヘレンを追いかけた。
「――ッ!」
と、宿屋の前で、急に足を止める。
アザレアやオスカーに知らせるべきだろうか?
フェルディックはヘレンの姿を目で追った。
駄目だ、これ以上離れると見失ってしまう。
迷っている暇は――ない!
フェルディックはふっきるように宿屋に背けると、ヘレンの後を追って、駆け出した。
「ヘレン! ――ヘレン!」
彼女には、僕の聞こえていないのか?
もう少しで手が届くといったところで、彼女は、すうっと闇に溶けるように、道を左に曲がった。
それを見失うまいと、フェルディックもすぐに曲がって、彼女に接近する。――はずだった。
「そんな!」
ヘレンは目の前を歩いていたはずなのに、手が届きそうな距離にいたのに、どうしてあんな遠くにいるのだろう。
歩いている彼女を、走って追いかけているのに、その距離は縮まるどころか、どんどん離されてゆく。
何かが、おかしい。
――これも魔術士の仕業なのか?
アザレアとの会話を思い出す。
息を切らせながらも、必死に彼女を追い続け、ようやく辿り着いたのは、教会裏の墓地だった。
「ヘレン!」
彼女は墓地のど真ん中で、呆然と立ち尽くしていた。
フェルディックは、ヘレンの肩に手をかけて、こちらに振り向かせた。
「――……あれ……フェルディック……?」
どうしたの? といった風に、彼女はきょとんとした目でフェルディックを見た。
「……あれ? わたし……。ここは……? なんで? どうしてわたし、こんなところに……」
彼女はキョロキョロと辺りを見回す。
「なにも、覚えてないの?」
「……?」
彼女は疑問符の含んだ瞳で、見返してくる。
自分の身に何が起こったのか、全く覚えていないようだ。
「とにかく宿に帰ろう。――なんだか、嫌な予感がする……」
人気のない夜の墓地は、それだけで気味が悪い。
それに加えて、何か――、妙な違和感がしたのだ。
フェルディックは胸を締め付けられるような感覚がして、辺りの様子を探るように見渡した。
違和感の正体は、静寂だった。虫の音もないほどの静寂。無音――。今は二人の息遣いしか聞こえない。
「なんだか……いつもと違う気がする。わたし……、少し怖い」
ヘレンの声は、かすかに震えていた。
たぶん、僕と同じことを感じ取ったのだろう。
とにかく、いまは一刻も早くここを立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。
フェルディックはヘレンの手を取り、一歩踏み出す。
だが――。
どこからともなく、何者かが呻いているような声が聞こえて、足を止めた。
それもひとつではない。たくさんの、亡者の悶え苦しむような声が、墓地にこだまする。
胸ポケットがカタカタと震えた。チゲも異変に気付いたのか。
「ア、アニキィ……こいつはマズいでやスよォ……!」
それくらいわかっている。
早くここを去らねばと思いながらも、迂闊に動くことができないでいるのだ。
――カエセェ……。
呻き声から、かすかに意味のある言葉が聞き取れた。
「フェルディック……!」
ヘレンが、ぎゅっと手を握りしめてくる。
――カエセェ……。
まただ。
今度は別の方向から聞こえてきた。彼らは何を返せと言っているのだ?
耳を凝らせば、女性の声のようにも思えた。
だが、今はそんなことを考えている余裕などない。
「……ここにいちゃ駄目だ。行こう!」
フェルディックは思い切って、墓地から出ようと、ヘレンの手を引いて走り出す。
どぼん、と――。勢いよく、地中から腕が突き出した。
「わぁぁっ!」
情けなく悲鳴を上げて、フェルディックは急停止した。
背後から「どうしたの?」と、ヘレンが顔を覗かせ、小さく悲鳴を上げる。
「――……カエセェ……――」
今度は、はっきりと聞こえた。地中に埋まっていたはずの死者が桶を破り、いま目の前で土を掻き分け、亡者となってその姿を現し始める。
「そ……そんな……ッ!」
死んだはずの人間が蘇るなんて……!
フェルディックはヘレンを守るようにしながら、一歩二歩と、後ずさる。
「こっちだ!」
フェルディックは、湧き上がる恐怖を噛み殺し、ヘレンの手を引いて、逆方向に走り出す。
たしか、反対側からも出られたはずだ。
「……ッ!」
少し走ったところで、再び足を止めた。
視線の先には、もうすでに地中から出てきた亡者たちが。彼らは、よろよろと何かを求めるようにこちらに向かってくる。
「――ェセエ」「……カエセェ――」
ひとりじゃなかったのか! 後悔したところで、もう遅い。
墓地を穴だらけにして、蠢きだした亡者ども。いつの間にか、フェルディックたちは亡者の群れに取り囲まれていた。
「話して通じる相手じゃ……なさそうだね……」
もう逃げ道はない。フェルディックは奥歯を噛み締めた。
どうやって切り抜ける?
フェルディックは剣の柄に手を触れた。
――死にたくなければ、剣を取るな』
オスカーの言葉が頭を過ぎり、殆ど反射的に、剣の柄から手を放してしまう。
「フェルディック……ッ!」
徐々に迫り来る亡者どもに、ヘレンが身を寄せてくる。
――僕がどうにかしなくちゃ!
――だけど……!
剣を抜いてどうする? 葛藤している間にも、亡者どもは距離を詰めてくる。
「こうなったら……!」
もうヤケクソだ。追い詰められて覚悟した。
フェルディックは意を決して剣を引き抜こうとブロードソードの剣柄を握り締めた。
刹那、眼前に迫りくる亡者の一人が、何者かの突進をうけ、墓標に激突した。
「大丈夫かい?」
「あなたは……!」
ランプを手にしたスコット。彼は走ってきたのか、息を切らしていた。僕達を助けにきてくれたのか?
「一体、これは何なんですか? 何が起きているんです?」
「話は後にしませんか。今はそれどころではないでしょう」
スコットは周囲に目配せする。
彼の言う通りだ。いまは、ここから逃げるのが先だ。
「おそらく、彼らは教会の中までは入ってこれないはずです。さあ、こちらへ!」
スコットに導かれ、フェルディックはヘレンの手を引いて教会の裏口へと駆け出した。
「はやく!」
スコットが裏口を開ける。中へ飛び込むと、スコットは扉を閉めて、内側から鍵を掛けた。彼はドアを背にもたれかかると、安堵の溜め息を漏らした。
「ありがとうございます。……でも、どうして僕達が墓地にいるとわかったのですか?」
フェルディックは、肩で息をしながら、スコットに言った。
「いいえ、まさか君達が墓地にいるとは思ってもいませんでしたよ」
「なら、どうして?」
「単純なことです。嫌な予感がしたからですよ。いつもは静かな墓地から、なんとなくですが……異様な気配を感じまして……、それで、なにかと思って様子を見に行けば、ご覧の通りです」
聖職者の勘というものなのか。いまはただ、彼がき来てくれて良かったと、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「ともかく、外は危険だ。今夜は教会に泊まっていくと良いでしょう。神聖なこの場所に、彼らは入ってこれないはず。夜が明けて日が昇れば、再び眠りにつくことでしょう」
彼の言うように、亡者どもがここに入ってくる気配は感じられない。
「幸い、客人用の部屋なら、いくつか空いています。後ほど、案内すると致しましょう」
「ありがとうございます、神父様。――あ、でも……、お父さんが心配しないかしら……」
ヘレンも落ち着きを取り戻したようだ。ともすれば、自分よりも、父親のことが心配らしい。
「事情が事情ですからね。ダイモンさんには、私から直接お話しておきます。――それなら、構わないでしょう?」
彼の話す言葉には、人の気持ちを落ち着かせる力があるようだ。
ヘレンがそれを了承すると、スコットはにっこりと微笑んだ。