XXV
アムと呼ばれたインプは、軽く舌打ちする。
「ッたく、テメェはいったいイマまでどこほっつき歩いてたンだ、アァン? 勝手に冥界から抜け出してどっかいっちまったと思ったらヨォ……。ニンゲンなんぞと仲良く肩なんか並べやガッテ、……オメェ――親父殿がこのこと知ったら、消されちまうゾ」
アムに脅かされて、チゲが「ヒィ!」と身震いした。
「――チゲ。あのインプは、お前の知り合いなのか?」
フェルディックは上空に静止するアムを見上げて、言った。
彼はチゲよりもひとまわり大きく、筋肉質でがっしりとした体型をしていた。ギラついた瞳に、裂けるように大きく広がった口元からは、鋭く尖ったギザギザの歯が。
狡猾さを全身で表現したような存在に、彼はチゲと違う、正真正銘の悪魔なのだと、フェルディックは思った。
「知り合いもナニも、インプはみんなサタンの身体の一部から生まれてくるんでやス。だからあっしとアムは、いわばニンゲンでいうところの兄弟みたいな関係なんでやス」
そうか、だからサタンのことを『親父殿』と呼んでいたのか。
久しぶりに兄弟が再会したというのに、どうも雲行きが怪しい。
アムの話を聞く限り、その原因は一方的にチゲのほうにありそうなものだが。それにしたって、消されるなんて言葉が飛び出すあたり、穏やかではない。
「オイ、そこのニンゲン」
フェルディックが見上げると、アムが、見下すような目でこちらを見ていた。
「ぼ、僕?」
フェルディックは自らを指差して言った。
「当たり前だろうガ! イマここにニンゲンはテメェしかいネェンだヨ!」
アムの暴力的な口調に、フェルディックは思わず仰け反った。
――うぅ……。
チゲが脅えるのも、なんとなく分かる気がする。
「僕に何かよう?」
「――よう、ダト……」
何が気に食わないのか、アムは苛立たしげに舌打ちした。
「何様か知らネェガ、契約も交わさずウチの弟分を連れ回しやガッテ! ……テメェ……死にてェのカ?」
彼は爬虫類のように瞳孔を細めてフェルディックを脅した。――いや、脅しなどではない。
緊迫した空気の中で、フェルディックは確かに感じていた。
ぞっとするほどの殺意を。
フェルディックはこめかみに汗を滴らせながら、くっと奥歯を噛み締めた。無意識の内に、剣の柄に手を掛けていた。
「僕が連れ回しているんじゃない。こいつが勝手に僕についてくるんだ」
「ナンダッテ?」
アムが間抜けた声で言う。それから、ギロリとチゲを睨みつけた。
「ソレハ本当カ?」
チゲはビクリと身体を震わせながらも、コクコクと頷く。
それを見たアムが「チッ!」と舌打ちをした。
「ドウヤラ、死にてぇのはオマエのほうだったらしいナ……」
それまでフェルディックに向けられていた殺意の矛先は、今度はチゲに向けられた。
「――ヒッ! ヒィィィィッ!」
チゲは奇声を上げて、フェルディックの背中に逃げ隠れた。
「どうしてチゲを殺すんだ。チゲは君の兄弟みたいなものなんだろ?」
フェルディックはアムの気迫に圧倒されながらも、なんとか声を絞り出して言った。
「だからダ。悪魔はニンゲンなんぞに媚びネェンだヨ、契約はしてもナ……。ダカラ、ソコにいるバカヤロウのしていることは、オレタチ悪魔全体の品位ってもンを下げる行為なんだヨ」
「だからって、殺すことないじゃないか」
フェルディックが訴えると、アムが驚いたように目を丸くした。それから、「ホォウ……」と、思案するかのように、不気味に口元を歪める。
「悪魔に情を持つとは面白いニンゲンだナ」
ククク、と渇いた笑い声を漏らした。
「そ、そうでやス……!」
フェルディックの背中で、チゲがぶつぶつと独り言を言い始める。
「あっしはアニキに男を学ぶんでやス……。あっしは、あっしは……、もう、昔のあっしとは違うんでやス!」
何を思ったのか、突然、チゲがフェルディックの前に飛び出した。
アムにとって、それは予想外のことだったらしい。彼は驚愕の表情でチゲを見据えたまま、硬直していた。
しばらくの沈黙の後、アムが「ククク」と笑い出す。
「ハッハッハァ! コイツは面白い! あのチゲが……チゲが、フヒヒ! このオレ様ニ? こんなに面白いことがあるとはナ! クハハッ! こいつはたまげたゼ!」
アムがお腹を抱えて笑い転げる。
笑われたのがそんなに悔しかったのか、チゲが沸騰したようにぷしゅぷしゅと煙を噴き出させた。
「わ、笑うなでやス! あ、あっしは本気でやスよ! だ、大体、アムこそこんなところでナニしてるでやスか! 冥界にいるハズのアムがこんなところにいるなんて、ゼッタイおかしいでやスよ!」
半ば勢い任せにチゲが叫び散らす。
それまでゲラゲラと笑い転げていたアムが、ようやく笑いを堪えて――それでもまだ余韻を残したまま――口を開いた。
「そうダ……ククッ。オレは……クカカ……ッ! 冥界から盗まれた魂の行方を追って、ここまで来たンだヨ……ククク……ッ!」
「盗まれた……魂……?」
フェルディックは小首を傾げる。一体どういうことなのだろう。
笑い疲れたのか、ようやく平静を取り戻したアムが、話し始める。
「イツになるか、随分前カ……。イヤ、つい最近だったカ? ハッ、まァいつでもがナ。冥界に送られてきた魂を、現世に引き戻しやがったヤロウがいるンだヨ。オレは親父殿の命令で、その魂を連れ戻しにキタ。ついでに、そのふざけたヤロウを始末しにダ」
そこまで話して、アムが途端に苛立ちを見せ始める。
「――ンダガ、ここまで臭いを嗅ぎ取ってきたはいいンだがヨォ……。この町に着いた途端、キレイサッパリ臭いが消えちマッタ! ヤロウは魔術師に違いネェ。オレ様の気配を感じて魂をどこかに隠しやがったンダ!」
アムの口調は段々と荒くなり、最後は吐き捨てるように言った。思い出して腹でも立ったのだろうか。
フェルディックとチゲの二人は、それを黙って聞いていた。
アムがまた「チッ」と舌打ちをする。
「余計なコト話しちまったナ……。……ン……マテヨ……」
何か閃いたように、アムが頬を吊り上げ、双眸をギラつかせた。
……嫌な予感がする。
「ニンゲン!」
アムがいきなり大声で叫んだ。
「ぼ、僕?」
フェルディックは驚いて、再び自らを指差して言った。
「ダァァァッ! ニンゲンってったらテメェしかいネェって言ってンだろうがヨ!」
「わっ!」
そんなことを言われても、身体が勝手に反応するのだから仕方がない。
「……取リ引キダ……」
「取り引き?」
「ソウダ。盗まれた魂と、そのふざけたヤロウをオマエが見つケロ。そうすれば、オマエのコトも、チゲのコトも見逃してヤル。クカカッ! オレ様名案!」
アムが得意げに高笑いする。
こいつは、チゲとは別の意味で困った相手だ。
フェルディックはちらりとチゲを横目に見た。
――だけど、このままじゃ……。
僕もチゲも、アムに殺されてしまうかもしれない。
フェルディックは、深く息を吐き出すと、剣柄に当てていた手を下ろした。
「わかった。取り引きをしよう」
チゲが不安そうな顔を見つめてくる。
「ア、アニキィ……」
弱々しい声。だけど、今はチゲの相手をしている余裕などない。
「僕がその魂の居場所を突き止める。それと、盗んだ犯人も。それでいいんだね」
「アァ、ソウダ」
「そうすれば、僕の命も、チゲのことも見逃してくれる」
「ソノ通リ」
彼はリズム良く答える。
「わかった。なら、それで取り引きは成立だ」
「――オット、待ちナ。そうはイカナイ」
「……?」
「オマエ、中々頭がイイナ。ダガそうはいかない。オレの任務は盗まれた魂の回収ダ。魂を盗んだヤロウと居場所を突き止めても、魂が無事じゃなきゃ意味がネェンだヨ。わかっているだろうガが、そのときはオマエが代わりに死ぬことにナル」
フェルディックのこめかみを、つぅっと冷や汗が滴り落ちる。平静を装うので精一杯だ。
「そうなる前に、早く見つけることダ。アァ、それと……。オレは気が短くてナ。あんまり待たせすぎると、ウッカリ殺しに来るかもしれネェから、精々気をつけナ」
フェルディックはごくりと唾を飲み込み、「わかった」とアムの提案を受け入れた。
「ただ、僕からもひとつだけ条件がある」
「――ンダァ?」
アムが眉をぴくりと跳ね上げ、声を荒らげる。
「ニンゲンごときがオレ様に条件ダト? チッ! ナメやがって、イマすぐニ殺してヤル」
途端、彼の右手から漆黒の炎が、轟々と燃え上がった。その炎は、彼の身の丈よりも遥かに大きく、とても邪悪なものだった。
チゲが小さな悲鳴を上げて、フェルディックの背中にさっと逃げ隠れた。
フェルディックは、激昂するアムに負けじと、睨み返す。
「……オット、オレとしたことが、つい熱くなっちまっタ」
アムが自ら作り出した炎を、自らの手で握り潰した。ぶしゅうと音を立てて、指の間から煙が立ち上る。
それを、彼はふっと吹き消した。
「文字通リナ」
一瞬、何のことだか意味が分からずに、フェルディックはきょとんとした。
「オイコラ、今のは笑うところだろうがヨ。……まァ、イイ……。デ、条件ってのはナンダ?」
殺気立っていたと思ったら、突然、冗談を言ってきたりと、これはこれで、チゲとは違う意味で疲れる相手だ。
ひとまず安心したフェルディックは、一呼吸置いてから、条件を述べ始める。
「僕達がそれを探すかわりに、君の知っていることを教えて欲しい。そもそも、魂なんて目に見えないものを見つけろと言われても、無理な話だからね」
「ハッハッハ! やっぱりオ前は頭の良いニンゲンだナ」
……そうだろうか?
思っても、余計なことは口にしないことにした。
「イイダロウ。ソノ条件、乗ッテヤル」
「それなら、まず君の知っていることを教えて欲しい」
「ナニを知りたいンダ。言ってミロ」
「魂を追ってきたってことは、このフーズベリの町にあるってことだよね」
「フ……フーズ……ナンダ? よかわからネェが、ここらで途端に臭いが消えたからな。隠してるクソヤロウも近くにいるに違いネェ」
「それと、僕はどうやって魂を見つけたらいい?」
「ソイツは簡単ダ。チゲを使エ」
フェルディックは振り返り、チゲと顔を見合わせた。
「オレたち悪魔ナラ、魂を感じることができル。ダカラソコにいる落ちこぼれのバカでも、それくれいはできルッテこッタ」
「ムキーッ! あっしは落ちこぼれてなんかいないでやス!」
チゲが飛び上がり、高笑いするアムに、ぷんすかと顔を真っ赤にして言った。。
「ダッタラ、ソレを証明してみせナ」
「いわれなくとも、そうしてやるでやス!」
ぷしゅぷしゅと頭から煙を噴き出すチゲ。アムは小馬鹿にするように鼻をフンと鳴らした。
「精々頑張ることだナ。アバヨ……――」
アムの身体から漆黒の炎が燃え上がる。燃え上がった炎の消滅と共に、アムの姿も消えてしまった。
「クゥゥゥ~……ッ。覚えてイヤガレでやスーッ!」
もう誰もいないというのに、チゲは星空に向かって捨て台詞を吐く。
フェルディックは何だかやりきれない気持ちになって、頭を抱えた。
これは、いよいよややこしいことになってきた。
処刑まであと五日。
そして。
悪魔に命を取られるときまで、あと……?