XIX
「すごいや……」
フェルディックは、鏡にうつる自分の姿を見て呟いた。
ホジュアに着替えを用意して貰ったのだ。
丈夫な布で作られた服は、これまでのボロ服とは比べ物にならない。
貴族達が着ている服のように染色はされていなかったが、それでも今の自分にとっては十分立派なものだ。
ただ着替えただけだというのに、不思議と気持ちが引き締まってくる。
フェルディックは、机に置いてある麻布のマントを拾いあげ、肩に羽織り、もう一度鏡に映る自分の姿を見た。
――よし!
いよいよ旅に出るのだと、実感が湧いてきた。
「――ネェ、アニキィ……そろそろ出てもいいでやスかァ?」
机に放り投げられたズボンの膨らみから、くぐもった声がした。
……あ。
新しい服につい夢中になって、チゲがズボンのポケットに入ったままだと、すっかり忘れていた。
この部屋には、今はフェルディックとチゲしかいない。
ホジュアは先ほどいた部屋で本を読んでいるし、アザレアといえば、まだ魔道具を物色し続けている最中だ。
だから今、チゲが出てきても問題はないのだが。
「ちょっと待って、いま出すから静かに――」
そうフェルディックが言うよりもはやく、チゲはズボンから這い出して、宙に飛んだ。
「プハーッ! やっぱり外の空気はウマいでやス!」
チゲは気持ちよさそうに、伸びをする。
「わっ、こら! 騒ぐな――!」
フェルディックは声を抑えながらも、語気を強める。
宙を飛ぶチゲを捕まえようとするが、チゲはフェルディックの両手をするりと抜け、さらに天井近くまで浮上した。
「ズボンのなかも、アニキの臭いがして悪くなかっでやスが……。やっぱり外がイチバンでやスネェ」
チゲは、独り言のようにうんうんと、頷いている。
「とにかく、マズいって!」
フェルディックは、下りてくるように手を振って合図する。
だが、チゲは、口笛を吹きながら部屋中を飛び回り、あたりを物色し始める始末。
無邪気というか、なんというか、このバカインプときたらもう……っ!
少なくとも、今のフェルディックにとっては、悪魔と実感せざるおえない状況だった。
城内では大人しくしていろと、言われたばかりなのに!
〈――なんじゃ、騒がしいのぅ〉
閉ざされたドアの奥から、ホジュアの声がした。
〈――なにかあったか?〉
「い、いえ、なんでも!」
フェルディックはホジュアに聞こえるよう、声を張り上げる。
ホジュアさんが気づく前に、こいつをどうにかしないと――!
焦るフェルディック、チゲは指を加えながら本棚を流し見ている。
それを捕まえようと、フェルディックは、忍び足でそっと近づき――、チゲに向かって、ゆっくりと両手を伸ばす。慎重に、小鳥を捕まえるように……。
ふわり。
と、チゲが浮上し、フェルディックの両手をするりとかわした。
逃げたのではなく、どうやら別のところに関心がいったらしい。
こ、この……っ!
悪意がないところに、悪意を感じる。
それから何度も飛び跳ねて、チゲを捕まえようとするが、ギリギリのところで届かない。
「おいチゲ、いい加減にしろ。降りてこい!」
……聞いちゃいない。
フェルディックはもう、このバカインプのバカさ加減に苛立ちを隠し切れないでいた。
歯を食いしばりながらも、「クククク…」という渇いた笑いを止められない。
〈おーい、どうかしたか?〉
――しまった!
つい怒りに我を忘れ、声を抑えるのをすっかり忘れていた。
「あ――えっと! おっきな虫が飛んでいて、ビックリしただけです!」
苦し紛れの誤魔化しが、思わず口をついて出る。
さすがにもう、ホジュアが部屋の様子を見にくるのも時間の問題だ。
視線を戻し、チゲの姿をさがす。
――いた!
チゲは机の上に転がったフラスコを、物珍しそうに指で突いている。
絶好のチャンス!
今度こそ、慎重に、確実に捕まえようと、フェルディックは息を殺して忍び寄る。
そして、もう少しでチゲに手が届きそうなところまで近づくと、思い切って――跳んだ!
※ ※ ※
研究のため、分厚い書物に目を通していたホジュアだったが、豪快な破砕音に意識を奪われ、それどころではなくなった。
「なんじゃ?」
音の出所は――隣室の、フェルディックのいる部屋からだ。
「なにごと?」
魔道具を物色していたアザレアも、さすがの異常事態に部屋から飛び出してきた。
「――あの子のいる部屋からじゃ。……さきほどから騒がしいとは思っておったが――」
言いながらホジュアは、足早にドアへと向う。アザレアも後を追ってついて来る。
ホジュアは、勢いよくドアを開いた。
「どうした、フェルディ――!」
言いかけて、ホジュアは声を詰まらせた。
机の上に突っ伏しているフェルディックと、床に散乱したガラス片にも驚いたが、それよりも――。
むむむ……、この天井付近に感じる違和感は……一体なんじゃ?
ホジュアは、ゆっくりと視線を上昇させる。
はじめはコウモリかとも思ったが、すぐに違うと判った。自らの体よりも大きなフラスコを抱きしめ、宙を飛んでいるのは……インプだ!
「インプ……じゃと……? 一体何故こんなところに……?」
ホジュアは驚きのあまり、目を丸くした。
「あらら……忘れてたわ……」
振り返ると、アザレアが苦笑を浮かべながら“彼ら”を傍観している。
「……?」
どういうことじゃ?
ホジュアは、インプとアザレアを、交互に何度も見やる。
のんきな顔で宙を飛ぶインプと、それを見て苦笑するアザレア――。
……もしや。
アザレアの様子から察するに、どうやらあのインプは、迷い込んできたというワケではないようだ。
ホジュアは顎鬚を撫でながら、胸の内で呟いた。
――やれやれ。今日は客人の多い日じゃのぅ……。