I
この日のブライアン家の朝は、まれにみる大変な騒ぎであった。――というのは、それを見ていた隣農家のおじさんの後の話である。実に嬉しそうにニタニタと語っていたので、信憑性はない。
フェルディックはところどころ破けたシャツを被りながら、慌しく階段を駆け下りる。
「母さん、飯!」
頭に被ったままのシャツで、視界を無くしたフェルディック。不覚にも足を滑らせた。鈍い音を立てながら勢いよく一階へ転がり込む。棚にぶつかった衝撃で、フライパンが落ちた。それは見事にフェルディックの後頭部を直撃した。
様子を見ていたフェルディックの母は、ため息をつき腰に両手をあてる。
「とっくにできてるわよ、ミミズの寝ぼすけさん。でも残念でした。いくら叫んで揺さぶっても起きない筋金入りの寝ぼすけは、母の美味しい手料理を食べずに出発の朝を迎えるの」
フェルディックはすぐに飛び上がる。シャツから顔が出た。
「いいや、絶対に食べてから行くね!」
「あら、そう。父さんが生きてたら泣くわね。きっと――」
母の言葉を聞いている様子もなく、がむしゃらにパンとレタスを頬張るフェルディック。
ため息を漏らす母をよそに、一通り食べつくすと、壁に掛けてある、錆びたブロードソードを腰にぶら下げた。
「よしっ! ……と、その前に」
フェルディックは暖炉の壁に飾ってある盾に向かって、両手を重ねる。
(行ってきます、父さん……)
とその時、それまで外の様子を伺っていた母が、突然大きな声を上げる。
「フェルディック! もう馬車が来てるわよ!」
「嘘っ!」
フェルディックは窓を覗き込む。ヤバいと何度も口ずさみながら、前日に用意してあった荷物を背負い、大急ぎでドアを開け放つ。
回り道せず、畑の柵を器用に飛び越えながら、一直線に馬車の元へと走っていった。
畑を荒らすなと母が怒声を放つころには、フェルディックの姿はもう小さくなっていた。遠くから、ごめん母さんと、小さく聞こえてきた。
「――あの子ったら……」
フェルディックの母は肩で息を吐き、頭を抱えてドアにもたれかかる。ちょうど、その様子を隣農家のおじさんが見ていた。
「朝から賑やかなもんだね」
「先が思いやられるわ」
二人は、馬車の方を眺めていた。畑の向こうで、フェルディックが頭を下げて、馬車に乗せてもらうのが見える。
「大丈夫、フェルディックはあなたの息子です。ああ、それに、王から
栄誉ある者に授けられる、“守り手の盾”をもつお父上を持っているんですから。うん、大丈夫ですよ、きっと」
「そうだといいんだけど……」
心配そうに息子を乗せた馬車を見守るフェルディックの母。一方、隣農家のおじさんは嬉しそうにしている。
「息子は親の見ていないところで、ちゃんと成長しているものなんですよ。――ああ、それより……」
隣農家のおじさんは恥ずかしそうに、右手の人差し指で頬をかき、フェルディックの母を横目で見た。
「ごめんなさい、まだそんな気分じゃないの」
言って、フェルディックの母は家のドアを閉めた。
隣農家のおじさんは残念そうなしかめっ面で、遠く走って行く馬車に向きなおる。――日差しが眩しい。額に手を当て、顔に日陰を作った。
「お前は頑張ってくれよ。フェルディック」
クルプ暦223年。トマトが美味しい季節。
フェルディックが実家を離れ、王宮に旅立つ日の朝のことであった。