こんな王太子、本当にいるわけないでしょう?
思いの外、長くなりました。
読みにくくてすみません。
その日、王都の一等地にあるローデンハルト公爵家の自室で、公爵令嬢キャベリンは読書を楽しんでいた。
侍女たちは一言も発さず、空気のように部屋の隅へ控えている。時折聞こえるのは、キャベリンが頁をめくる音だけだった。
一刻経つか経たないかという頃、キャベリンが本を読み終えそうな気配を見せると、一人の侍女がスッと部屋を後にした。お茶を用意するためである。
キャベリンの部屋は、公爵邸の西翼でもっとも景色がよく、ほどよく陽のあたる最上階に位置している。
天井近くまである大窓の向こうには、大勢の庭師が丁寧に刈り込んだ植え込みと、季節ごとに花を楽しめるよう工夫された花壇、いくつもの美しいガゼボや噴水が見える。
王城にも引けを取らぬ豪奢な屋敷と庭。その周囲を森がぐるりと囲んでいるため、邸内から公爵邸を囲む塀を見ることはできない。
かつて王女も降嫁したローデンハルト公爵家は、今もっとも権勢を誇る家門のひとつであり、だからこそ王家からも警戒されていた。
やがてキャベリンが本を静かに閉じ、小さく息を吐く。その頃には、いつの間にか戻っていた侍女が窓辺のテーブルへティースタンドを並べていた。
それを横目に、キャベリンは読書をしていたソファからテーブルの席に移る。
着席して一拍。淹れたての紅茶がサーブされた。
何かを考え込むような顔をしていたキャベリンも、温かな香りに気が緩んだらしい。美しい顔を綻ばせ、カップを口元へ運ぶ。
「美味しいわ……。いつもありがとう、キャス」
キャスは微笑んで一礼した。
三歳の頃からキャベリンに仕えていて、三人の専属侍女の中では最年長の女性である。
キャスケット・マローヴァ。ローデンハルト家の家令を代々務めるマローヴァ伯爵家の三女で、現在二十八歳。背中まで届くダークブロンドに薄茶の瞳を持ち、顔立ちは整っているものの、全体としては控えめな印象を与える。
現在の公爵家の家令は、彼女の祖父だ。
そんなキャスへ微笑み返したキャベリンだったが、ふと眉尻を下げた。
「ねえ、あなた方に聞きたいことがあるのだけれど……」
その一言を合図に、部屋の隅へ控えていた二人も近くへ寄る。
「お嬢様、どうなさいました?」
先に口を開いたのはビーニーだった。
三人の中でもひときわ背が高い。騎士家系の生まれらしく、侍女服の上からでも分かるほど引き締まった体つきをしている。
ビーニー・ラントセット。ローデンハルトに連なる子爵家の次女で、二十三歳。顎までの小麦色の癖毛に淡い翠の瞳。キリッとした美人で、見た目そのままに声もやや低く落ち着いている。
公爵家騎士団に所属する男爵令息と婚約を結んでいた。
キャベリンは先ほどまで読んでいた本を指す。
「この本、クロッシェが流行っているからと貸してくれたのだけど、作り物にしても設定がひどいのではないかと思って……」
本を取り上げ、ぱらぱらと頁をめくる。
「たとえば、ここなのだけれど」
目当ての頁を開き、指先で示した。
「王太子が、大勢の貴族が集まっている夜会で婚約者に婚約破棄を宣言するの。『君との婚約は今日限りで破棄する』と」
三人の侍女は揃って沈黙した。一度、互いに顔を見合わせる。
「それは……国が荒れますね」
最初に沈黙を破ったのはビーニーだった。
「そうよね?」
「まず間違いなく荒れますね」
間髪入れず返され、キャベリンはほっと胸を撫で下ろす。
「よかった。やっぱりそうよね。わたくしがおかしいわけではないのね」
「どうしてお嬢様がおかしいことになるのです?」
「だって、この本の中では誰も止めないのよ」
キャベリンは心底不思議そうに首を傾げた。
「国王陛下も王妃殿下もいらっしゃらない夜会で、王太子が勝手に婚約を破棄するの。しかも婚約者は公爵令嬢よ」
「うわあ」
思わず漏れた声に、キャスが静かに咳払いした。
途端、マリンが姿勢を正す。
三人の侍女でもっとも若い、十八歳の娘である。
マリン・ソルダーレ。ローデンハルトに連なる侯爵家の五女。ふわふわとした長いピンクブロンドに碧眼、小柄で庇護欲をそそる愛らしい容姿をしている。
十三歳の頃、行儀見習いとしてローデンハルト公爵家へやって来た——のだが、その後恋多き女として名を馳せすぎた。
婚約者もなく、本人にも結婚願望がなかったため、最終的に専属侍女へ立候補。面白がったキャベリンによって、そのまま採用されたという少々変わった経歴の持ち主である。
咎められた本人はまるで堪えていない。興味津々といった様子で本を覗き込む。
「婚約の経緯は書いてあります?」
「幼い頃に両家の話し合いで決まったそうよ。王家と公爵家の結びつきを強くするために、当時の国王陛下と公爵が取り決めた、と」
「でしたら余計に無理ですね」
マリンが大きく頷く。
その横で、キャスも静かに口を開いた。
「王太子殿下個人の婚約ではございませんもの。王家と公爵家との間で結ばれた約定です。婚約を解消なさること自体が絶対に不可能というわけではございませんが、殿下お一人のご判断で決められるものではありません」
「そうよね」
「当時の国王陛下と公爵閣下が取り決めたのであれば、王家の公文書にも記録されているはずです。正式に解消するのであれば、王家と相手家との協議が必要となりましょう」
そこで一度言葉を切る。
「その婚約に伴い、領地、資金、利権、役職、あるいは軍事上の協力について取り決めが交わされている場合には、それらの整理もございます」
「では、夜会で一言では?」
「何一つ確定されません」
キャスは珍しく、ぴしゃりと言い切った。
代わってマリンが楽しそうに身を乗り出す。
「世間では『婚約破棄』と言うでしょうけれど、本人が破棄すると宣言しただけでは、せいぜい騒動を起こしただけということですね」
「マリン」
「違います?」
キャスの視線が鋭くなるが、それでもマリンは悪びれない。
「……概ね間違ってはおりません」
キャベリンは思わず吹き出した。
「では、本当にその場で宣言しただけなら、翌日には王城に呼び出されそうね」
「当日のうちでは?」
「まあ」
「夜会の最中であれば、陛下のお耳に入るまでそう時間は掛からないでしょう」
「それもそうね」
キャベリンは本の頁を繰った。
「それでね。王太子は婚約者を追い出して、男爵令嬢を新しい婚約者にすると言うの」
「陛下の許可なく?」
「ええ」
「ご実家の調査も?」
「特に書かれていないわ」
「ご本人の教育歴や適性についても?」
「優しくて、純真で、皆を笑顔にする素敵な令嬢だそうよ」
キャスの表情が、すっと消えた。ビーニーは眉間を押さえ、対照的にマリンの瞳が輝く。
「面白くなってまいりましたね」
「あなた、本当にこういう話が好きね」
「他人事ですから」
「身も蓋もないわ」
呆れながら、キャベリンは皿から小さな焼き菓子を一つ摘まんだ。
口に運べば、ほろりと崩れた生地からバターの香りが広がる。
穏やかな午後だった。
窓の外では白い雲がゆるやかに流れ、庭師たちが噴水脇の花壇を整えている。
そんな平和な景色と、手元の本で起きている国家的な騒動との落差があまりにひどく、キャベリンは妙な眩暈を覚えた。
「そもそも、男爵令嬢が王太子妃になること自体は可能なの?」
「絶対に不可能とは申しません」
キャスはいつもの冷静さを取り戻していた。
「家格だけを理由に王太子妃になれないと定める法はございません。ご本人が十分な能力をお持ちで、王家がその婚姻に相応の利点を見いだし、議会や有力諸侯を納得させられるのであれば、前例の少ない婚姻が成立することはあり得ます」
「それはそうね。問題は家格ではないということね」
「左様でございます。王太子妃としての責務を果たせるかどうかです」
その答えに、キャベリンは素直に頷いた。
生まれた家だけで人間の価値が決まるとは思わない。
だが、就く地位によって必要となる能力が変わるのも、また事実である。
「王太子殿下が即位なされば、王妃となるお立場です。外国使節の接遇、慈善事業への関与、王家主催行事の補佐、王妃殿下の公務の補佐。場合によっては王家を代表して地方へ赴き、外国の王侯貴族と書簡を交わすこともございましょう」
「大変よね」
「お嬢様も現在、そのための教育をお受けです」
「それを言わないで」
キャベリンは眉尻を下げた。
「今日くらいは忘れていたかったのに」
三人の目が揃って柔らかくなる。
「本日の外交史の講義がお休みになったから読書をなさっていたのでは?」
「だから忘れたかったのよ」
マリンがくすくすと笑った。
キャベリンは十六歳。
ローデンハルト公爵家唯一の娘であり、二人の兄弟を持つ三人きょうだいの真ん中である。
そして、六歳の頃から王太子エルネストの婚約者でもあった。
十年に及ぶ王太子妃教育は、決して軽いものではない。国内法、外交史、外国語、領地経営、会計、礼法、宗教儀礼。
年齢が上がるにつれて学ぶ内容は増え、近年では王妃の公務にも補佐として同席するようになっている。
「この本の男爵令嬢は、王太子妃教育を受けていないのよね」
「それだけなら問題とは言い切れません。婚約成立後に教育を始めればよいのですから」
キャスは少し考えてから続ける。
「ただ、殿下の即位までに必要な教育を終えられる見込みがあるか、公務をどの段階から担えるのかは考えなければなりません」
「わたくしが十年掛けているものね」
「お嬢様の場合は幼少期から段階を踏んで学んでおられますから、成人してから始める場合とは事情が異なります。それでも数年単位の教育は必要でしょう」
ビーニーが腕を組む。
「それまで誰かが公務を代行する必要もありますね」
「ええ。王妃殿下や他の王族の方々に負担が掛かります」
「愛があればなんとかなるらしいわ」
本の一節を読み上げるようにキャベリンが言った。
ビーニーが真顔になる。
「愛は外国語を話してくれませんよ」
キャベリンは吹き出した。
「確かにね」
「予算書も読んでくれませんし」
「そうね」
「晩餐会の席順も決められません」
「間違えると外交問題になりそうだわ」
「なりますね」
あまりにも淡々と返され、キャベリンは口元を引きつらせた。
横からマリンが本を覗き込む。
「その男爵令嬢、何か特別な能力があるんですか? 実は隣国の王女だったとか、神殿に選ばれた聖女だとか」
「いいえ。ただ、とても優しくて純真で、誰にでも分け隔てなく接するのですって」
「それだけですか?」
「あと、笑顔が可愛いそうよ。傍にいると癒されるとか……」
「それで王妃になれるのなら、候補が多すぎて王家も困るでしょうね。どちらかというと愛妾にぴったりでは?」
今度はキャスも咳払いをしなかった。
「本人の人格としては美点でしょうけれど」
代わりに、穏やかな声音が続く。
「王太子妃として選定する根拠とは別の話でございます」
「そうよねぇ」
キャベリンはまた一頁めくった。
「それから、この男爵令嬢は学園で王太子と知り合うの」
「王立学院でしょうか?」
「そう書いてあるわ」
「男爵家の令嬢が在籍すること自体は珍しくありませんね」
「奨学生なのですって。家が貧しいから」
ビーニーが首を傾げる。
「もしかして、困窮貴族向けの学費免除制度でしょうか」
「奨学生としか書かれていないわ」
「成績優秀者への給付制度と、家計事情による学費免除制度では意味が違いますね」
「でも授業中はよく眠っていて、課題も友人に手伝ってもらうけれど、教師には可愛がられているそうよ」
しばし考えたあと、ビーニーは慎重に答えた。
「少なくとも、成績を基準にした奨学生ではなさそうですね」
キャベリンは満足そうに頷く。
「困窮貴族向けの制度なら?」
「それでも出席状況や学業態度を確認されるのが普通でしょう。国庫や王家の基金から援助されているのなら、なおさらです」
「そうなのよねえ」
頬杖をつき、小さくため息をつく。
「わたくし、読んでいて何度も不安になったの。もしかして、わたくしの知っている制度の方がおかしいのかしらって」
「小説の設定に現実を揺さぶられないでくださいませ」
キャスの言葉に、キャベリンは眉根を寄せた。
「だって、クロッシェが王都で一番流行っていると言うのだもの」
クロッシェはキャベリンの従姉で、王国の筆頭侯爵家の令嬢である。流行を追うことが何より好きで、社交界の華とも呼ばれる人気の令嬢だ。
彼女が流行っていると言うのであれば、その点については信頼できる。
もちろん、これを現実そのものと思って読む高位貴族など、さすがにいないだろうが。
「人気と現実は別物ですよ」
マリンがあっさり言った。
「空を飛ぶ絨毯の物語が流行っても、絨毯が飛び始めるわけではありませんよ」
「それはそうなのだけれど」
妙に説得力があるのが可笑しい。
「しかもその男爵令嬢、学院では『身分なんて関係ない』と言って、王太子や公爵令息や宰相の息子を愛称で呼ぶの」
「本人たちの許可があるのでしたら、私的な場では構わないのでは?」
ビーニーの答えに、キャベリンは首を振る。
「殿下が許可したとは書かれていないわ。本人が勝手に縮めて呼び始めて、そのうち皆が受け入れるの」
「人前でも?」
「ええ」
ビーニーの眉が僅かに上がった。
「王太子殿下を公式な場でも愛称で呼ぶなら、さすがに注意されるでしょうね」
「気がついた侯爵令嬢が注意するのよ。そうしたら『身分を笠に着るなんて最低』と言われるの」
「その侯爵令嬢は何と?」
「泣いて走り去ったわ」
「弱いですね」
マリンが真顔で呟いた。
「そうよね?」
「わたくしなら理由を説明します」
「あなたの場合、三倍くらい言い返しそうだわ」
「否定はしません」
キャベリンはくすりと笑い、それから少し真面目な顔になる。
「でも、身分を笠に着ると言われても……爵位に伴う役割の違いは本当にあるでしょう?」
「ございますね」
キャスが頷く。
「身分が高いことだけを理由に他者を侮るのは、褒められた行いではございません。しかし、高位貴族にはその家格に応じた義務がございます。領地を治め、税を管理し、有事には兵を供出し、国政にも責任を負う。権利だけが大きくなるわけではございません」
「むしろ不自由なことも増えますよねえ」
マリンがしみじみと言った。
「わたくし、侯爵家の五女で本当によかったですもの」
「あなたの場合は自由過ぎるのではないかしら」
「だから五女なのです」
「順番は関係ないと思うわ」
小さな笑いが室内を満たす。
キャベリンは紅茶を一口飲み、再び本へ目を落とした。
「でも、この話の公爵令嬢は悪役なのよ」
「何をしたのです?」
「男爵令嬢を廊下で睨んだり」
「はい?」
「ドレスを褒めない」
「……ええ?」
「自分のお茶会に招かない」
「……まさか、それだけですか?」
「まだあるわ! 王太子に近づかないよう注意するの」
三人が顔を見合わせる。
最初に口を開いたのはビーニーだった。
「最後のものは、言い方と状況によりますね」
「あら」
「婚約者のいる男性と過度に親密になっている相手へ節度を求めること自体は理解できます。ただ、本来ならまず王太子殿下へ申し上げるべきでしょう」
キャスも頷き、その先を促す。
「男爵令嬢が殿下から一方的に好意を寄せられているだけなら、ご令嬢を責めるのは筋違いです。殿下ご自身が婚約者としての節度を守るべきですから」
「なるほどね」
キャベリンは何度か頷いた。
「では、この場合はどうかしら?」
頁を確かめながら読み上げる。
「毎日一緒に昼食を取る。放課後も二人で庭を散歩する。休日には城下へ遊びに行く。手も繋ぐ。それから、王太子が男爵令嬢の髪に口づける」
「それは殿下が駄目ですね」
即答だった。
「やっぱり?」
「男爵令嬢が婚約の存在を知らなかったならともかく、学院に通っていて王太子の婚約者を知らないとは考えにくいです。ただし、主に責任を負うべきは殿下でしょう」
「婚約者が怒って終わりというだけの問題ではございません」
キャスも静かに続ける。
「人目のある場所でそのような振る舞いをなされば、王太子殿下の品位そのものが問われます」
「なのに、公爵令嬢が怒ると悪役になるの」
「どうしてですか?」
今度はマリンが本気で不思議そうにした。
「男爵令嬢が泣くから」
「……泣くと、それが正しいことになるんですか?」
「この本では、そう見えるわね」
「便利ですねぇ」
マリンは感心したように頷く。
「わたくしも次から泣きましょうか」
「あなたは泣くより先に口が動くでしょう」
「よくご存じで」
キャベリンはまた笑った。
だが、すぐに本へ視線を戻す。
「お茶会の話も変なの。公爵令嬢が男爵令嬢を呼ばなかったことが虐め扱いされるのよ」
「私的なお茶会なら、主催者が招待客を選ぶものです」
マリンが渋面を浮かべる。
「王妃殿下主催の公式行事などで、招待されるべき立場の者を意図的に排除したのであれば別ですが」
キャスが補足した。
「お嬢様がお開きになる私的なお茶会でも、参加者は目的に応じて選びます。高位貴族の令嬢が多いのは、将来的に王太子妃となるお嬢様との関係を築く必要がある方々だからです」
「そうよね」
「その男爵令嬢と親しくないのであれば、招待しないこと自体は何の問題もございません」
「……ところが、招かれていないのに来るの」
「押しかけて?」
「王太子が連れてきたのよ」
ビーニーが僅かに顔をしかめた。
「では、男爵令嬢が自分の意思で押しかけたとは限りませんね」
キャベリンは瞬きをする。
「あ、本当だわ」
「殿下に誘われて断れなかったのか、自分から同行を望んだのかで話が変わります」
「本にはそこまで書いていないわ」
「なら、令嬢側については判断できませんね」
キャスも同意する。
「ただし、主催者への事前連絡なく客人を追加なさったのであれば、王太子殿下の行動は褒められたものではございません」
「それなら分かるわ」
キャベリンは考え込むように指先で頬をなぞった。
「わたくし、どうもこの本の男爵令嬢を悪く考えすぎていたみたい」
「物語が公爵令嬢を悪者として描いているので、公爵令嬢であるお嬢様から見て、お相手の令嬢にも悪いところがあったと思いたくなるのではありませんか?」
キャスの言葉に、キャベリンは感心したように目を丸くする。
「確かにね。でも、それなら余計に王太子が悪いのではない?」
「この本のお話ですか?」
「ええ。婚約者がいるのに別の令嬢へ思わせぶりな態度を取って、その二人が揉めたら片方だけを悪者にするのでしょう?」
「少なくとも、いまお聞きした範囲ではそうですね」
ビーニーが頷く。
「男爵令嬢がどこまで意図していたかは分かりませんが、殿下はご自身の行動に責任を持つべきです」
「そうなのよねえ」
キャベリンはしみじみ呟いた。
「それなのに、最後には『彼女を虐めたお前が悪い』と言って婚約者を断罪するの」
「その王太子、自分の行動について何か仰らないんですか?」
「何も」
「すごいですね」
「でしょう?」
何がすごいのかは分からないが、二人とも妙に感心した。
「まだあるのよ」
「まだあるんですか」
「あるわ。これよ」
キャベリンが再び頁を繰る。
「今度は王太子のお友達。宰相の息子と騎士団長の息子と公爵家の跡取りが、皆その男爵令嬢を好きになるの」
「欲張りですね」
マリンが言った。
「しかも全員、婚約者がいるの」
「さらに欲張りですね」
「同じ感想なのね」
「それ以外が出ません」
ビーニーが腕を組む。
「婚約者たちは?」
「全員、男爵令嬢を虐めた悪女として婚約を破棄されるわ」
「婚約を解消すること自体はできますが」
キャスがすぐさま訂正した。
「その場で本人が一言申し渡して終わり、とはなりません。それぞれの家同士で交渉し、婚約締結時の条件を整理し、必要ならば相応の補償を行うことになります」
「でも、この本では全部その日のうちに終わるの」
「仕事が早すぎますね」
「そういう問題なの?」
キャベリンがまた吹き出す。
だが、ビーニーは至って真剣だった。
「騎士団長のご子息は家を継ぐ予定でしょうか」
「長男ですって」
「ならば婚姻先は慎重に選ばれるでしょう。王国軍の中枢に関わる家ですから」
「宰相の息子も?」
「当然です。宰相家なら政務官や外交官を多く輩出するでしょうし、婚姻先との繋がりにも政治的な意味があります」
キャスが言葉を継ぐ。
「まして公爵家の後継者なら、個人的な感情だけで家同士の約定を覆せば、家中から強く反発されるでしょう」
「廃嫡されたりする?」
「婚約解消そのものだけを理由に、とは限りません」
キャスは慎重に答えた。
「ただ、それによって家に甚大な損害を与えたり、当主の命令に背いたり、後継者としての適性を疑われるほどの行動を重ねた場合には、その可能性もございます」
「なるほど」
キャベリンは素直に頷く。
「つまり、恋をしたから婚約を変えたい、というだけなら話し合えばいいのよね」
「左様でございます」
「問題は、何もかも放り出して『真実の愛だから』で済ませようとすること?」
「そうですね」
マリンが焼き菓子を羨ましそうに見ながら頷いた。
「家なんて関係ない、自分の人生は自分で決める、と言うなら、それ自体はご立派です」
「意外ね。あなたは反対するのかと思ったわ」
「どうしてです?」
「侯爵令嬢なのに自由だから」
「だからですよ」
マリンはこれ以上ないほどにっこりと笑う。
「自分の人生を自分で決めたいなら、その結果も自分で引き受ければいいんです。家の庇護も爵位の恩恵も財産も欲しい。でも家の都合だけは聞きたくない。自分の恋愛には皆が協力してほしい――では、少々虫が良すぎます」
キャベリンは一度瞬きをし、それから声を立てて笑った。
「本当にあなた、ときどきすごく真面目ね」
「いつも真面目です」
「それは嘘だわ」
「お嬢様……」
「何?」
「焼き菓子を一ついただいても?」
「やっぱり真面目ではないわね」
それでも苦笑しながら、皿を差し出した。
マリンが一つ取るのを見て、ビーニーにも勧める。最後にはキャスにも差し出した。
こうして四人で菓子を分けることは、キャベリンの私室では珍しくない。
主従の線引きを忘れているわけではなかった。
キャスたちはキャベリンを主として立て、キャベリンも彼女たちを使用人だからと軽んじない。
その線を互いに理解しているからこそ、こうした柔らかな時間が許されていた。
「わたくしだって、本当に婚約を解消したいほど好きな人ができたら、まず家に相談しますよ」
菓子を口にしたマリンが言う。
「そうするの?」
「しますとも。父に反対されて、家を出なければならなくなる可能性も考えます。持参金も減るかもしれません。それでもその方を選びたいなら、その時初めて本気でしょう?」
「今までいた?」
「いいえ」
「即答なのね」
「皆、そこまでではありませんでした」
ビーニーが呆れた目を向ける。
「相手の方々が気の毒です」
「向こうも同じようなものですから」
「マリンの恋愛遍歴はさておき」
「ここからが面白いところなのに」
「さておくわ」
キャベリンは本を持ち上げた。
「この話の人たちは、そういう覚悟を全然しないのよ。婚約を解消しても爵位も財産も後継者の地位もそのままなの」
「ご家族は何を?」
「ほとんど出てこないの」
「亡くなっているのです?」
「生きてるわ」
「何をしているんですか?」
「分からないの」
ふぅ、とキャベリンがため息をつく。
さすがのキャスも困惑した表情を浮かべた。
「国王陛下や王妃殿下もですか?」
「最後に少しだけ。王太子と男爵令嬢の結婚を祝福するわ」
「元の婚約者の公爵家は?」
「何も言わない」
「公爵閣下は?」
「娘に『これを機に領地で静かに暮らせ』と言うの」
「あり得ませんね」
三人の侍女が見事に声を揃えた。
誰もがローデンハルト公爵を思い浮かべたらしい。キャベリン自身も父の顔を思い出す。
厳格で、慎重で、滅多なことでは感情を表に出さない男である。
だが、自家の利益と家族を守ることに関しては、恐ろしく頑固でもあった。
「お父様なら、どうなさるかしら」
「まず事実関係を確認なさるでしょう」
キャスが答える。
「感情だけで王城へ怒鳴り込むような真似はなさいません」
「そうよね」
「婚約がどういった経緯で解消されることになったのか。王家の正式な意思なのか。お嬢様に責任があるとされているのなら、その根拠は何か。補償や今後の両家の関係について、何を提示されるのか。すべて確認された上で判断なさるかと」
「フェドラー兄様もきっと一緒に考えるわね」
キャベリンの二歳上の兄は、公爵家の後継者として父の補佐に入り始めている。感情より理を優先する人間だ。
妹が傷つけられたとしても、その場で剣を抜くようなことはしない。その代わり、何を失い、何を取り戻すべきかを冷静に見極めるだろう。
「ボーラーは怒りそうだけれど」
「坊ちゃまはまだ十四歳でいらっしゃいますから」
キャスが苦笑する。
「でもあの子ったら、昔からわたくしが転ぶだけで、転ばせた石に怒るのよ」
「石と王家を同じように扱われては困りますね」
ビーニーの真顔に、キャベリンは笑った。
ローデンハルト公爵家には、大勢の人間が関わっている。邸で働く使用人だけではない。
領地の代官、騎士、農民、商人。公爵家と取引する商会。婚姻や主従関係によってローデンハルトと結ばれている貴族家も数多くある。
だから父は、幼い頃から何度も言っていた。
公爵家に生まれるということは、誰より自由に生きられるという意味ではない。大きな権利を持つ代わりに、大きな責任を引き受けることなのだ、と。
「わたくしの婚約がもし本当に解消されたら、失恋だけでは済まないのね……」
「お嬢様ご自身にとっては、失恋でもございます」
キャスが静かに言った。
「政治だからといって、心が傷つかないわけではございません」
その言葉に、キャベリンは一瞬黙った。やがて、諦めたように小さく笑う。
「そう、ね」
王太子エルネストは、キャベリンより二歳年上の婚約者だ。
六歳の頃から、十年。共に教育を受け、国政について語り、ときには喧嘩をし、その度に仲直りしてきた。
恋人らしい甘やかな言葉を交わすことは、さほど多くない。けれど、信頼はしていた。
エルネストは、自分の立場を理解している人だと。
十三歳の頃、地方伯の嫡男が政略婚約を嫌って家を飛び出したという話題が王城で出たことがある。
その時、エルネストは言った。
『婚約相手を愛せないことは責められない。でも、家の名と財産を使って生きるなら、まず家と話すべきだった。逃げるのは、自分以外の誰かに後始末をさせることだから』
まだ十五歳だった彼の言葉を、キャベリンは今でも覚えている。
だからこそ。
「殿下も、分かっていらっしゃるでしょうしね」
ぽつりと零した言葉に、マリンが首を傾げる。
「エルネスト殿下ですか?」
「ええ」
「もちろんでしょう」
「そうよね」
ビーニーも肩を竦めた。
「それをなさったら、過去のご自分の発言と真っ向から矛盾しますね」
「でしょう?」
キャスだけは少し考えてから答える。
「少なくとも、私どもがこれまで拝見してきたエルネスト殿下は、ご自分の立場を理解しておられる方です」
「そうよね」
キャベリンは満足したように微笑んだ。
エルネストは愚かではない。少なくとも、キャベリンは十年間そう信じてきた。
婚約というものが二人だけの感情で成り立っていないことを、むしろ彼自身が何度も口にしている。
「この本の王太子みたいに、急に知らないご令嬢を連れてきて『真実の愛を見つけた』なんて言ったりしないわよね」
冗談めかして口にすると、マリンが笑った。
「まさか」
ビーニーも肩を竦める。
「それをなさったら、過去のご自分の発言と真っ向から矛盾しますね」
「でしょう?」
キャスだけは少し考えてから答えた。
「少なくとも、私どもがこれまで拝見してきたエルネスト殿下は、ご自分の立場を理解しておられる方です」
「そうよね」
キャベリンは満足したように微笑んだ。
それから、もう一度本を見る。
「そういえば、もう一つ分からないことがあるの」
「まだあるんですか」
「あるのよ」
「すごい本ですね」
キャベリンは頁を探した。
「男爵令嬢がね、公爵令嬢に『あなたは殿下を愛していない』って言うの」
「なぜです?」
「王太子が他の女性と話していても嫉妬しないから」
「先程は近づくなと注意していたのでは?」
「そうなのよ」
マリンは心底理解できないという顔をする。
「矛盾してません?」
「わたくしもそう思うわ」
キャベリンは頬へ手を添えた。
「でも、怒鳴ったり泣いたりしないから、愛していないのですって」
マリンがしばらく考える。
「では、お嬢様は殿下を愛していないことになりますね」
「そうなのかしら?」
「殿下が女性と話しても怒鳴らないでしょう?」
「公務なら当たり前ではないの」
肩をすくめると、マリンも頷いた。
「ですよね」
「でも、この本ではそれは愛がない証拠なの」
「愛って言葉は便利ですね」
マリンがしみじみと言う。
「都合が悪いことを大体説明できます」
「ひどい言い方」
「では、お嬢様はどうなんです?」
「わたくし?」
「殿下を愛していらっしゃる?」
思いがけず真正面から聞かれ、キャベリンは言葉に詰まった。
愛……、愛?
エルネストへの気持ちを、その一語だけで表せるのかは分からない。
幼馴染のようでもある。
家族のようでもある。
そして、将来の夫でもある。
会えば安心するし、長く会えなければ少し寂しい。
何か良いことがあれば話したいと思うし、困っているのなら力になりたい。
王太子だからではなく、エルネストだから、そう思う。
「……大切よ」
しばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「とても」
三人は誰も笑わなかった。
「それで十分ではないでしょうか」
キャスが穏やかに言う。
「泣き叫ばずとも、相手を大切に思うことはできます」
「そうよね」
キャベリンは少しだけ照れたように笑った。
「ちなみに私は、婚約者が仕事で他の女性と話していても何とも思いません」
ビーニーが言う。
「そうなの?」
「はい」
「でも二人きりで毎日会って手を繋いでいたら?」
「本人に確認します」
「意外と冷静ね」
「事情を聞いてから殴ります」
「ビーニーったら物騒ね」
「冗談です」
「顔が本気だったわ」
笑い声が重なる。
紅茶は二杯目になり、ティースタンドの菓子も随分減っていた。午後の日差しが傾き、大窓から差し込む光が絨毯の上をゆっくり移動している。
キャベリンは本を閉じた。
「結局、物語だから許されるのかしらね」
「そういうことでしょう」
キャスが微笑む。
「現実では起こりにくいことを楽しむのも、物語の醍醐味でございますから」
「ドラゴンが出てくる話と同じですね」
マリンが言った。
「王太子が夜会で勝手に婚約破棄を宣言するのは、ドラゴンと同程度なの?」
キャベリンはくすくす笑う。
「そうですよ。もっとも、ドラゴンは北方に実在しますから、この本の王太子の方が珍しいかもしれません」
思いの外真面目に返され、キャベリンはとうとう声を上げて笑った。
「では、この本は妄想小説だったのね」
「恋愛幻想小説ですね」
「でも、読んでいる間は楽しかったわ」
本の表紙を撫でながら、キャベリンは穏やかに微笑む。
「あり得ないと思いながら読むと、余計に面白いの。こんなふうに自分の責任も立場も忘れてしまう人、本当にいるのかしらって」
「いないとは申しませんが」
キャスが少しだけ考える。
「少なくとも、そのような方が何の問題もなく高い地位に留まり続けるのは難しいでしょうね」
「そうよね」
「いたら見てみたいですけど」
マリンが言う。
「見るだけならね」
キャベリンも頷いた。
「でも、関わりたくはないわ」
「同感です」
その時、部屋の外が俄かに騒がしくなった。
普段なら足音一つ響かせないローデンハルトの使用人たちが、廊下を慌ただしく行き来する気配がある。
キャベリンが訝しげに扉を見る。
「何かしら」
三人は即座に表情を引き締め、侍女としての姿勢を整えた。キャスが確認のため扉へ向かおうとすると——
控えめなノックが響く。
「お嬢様」
聞こえてきたのは、廊下に控えていた侍従の声だった。
「何?」
「エルネスト王太子殿下がお越しでございます」
キャベリンは瞬きをした。
「……殿下が?」
本日の訪問予定など聞いていない。婚約者として私的に訪れるだけなら、当日の先触れになることもある。
幼い頃から互いの邸を行き来してきた二人なのだから、それだけなら驚くほどのことではなかった。
だが、今日は何の知らせもない。
「急用かしら」
キャベリンが立ち上がると、キャスが扉を開けた。
侍従は部屋へ足を踏み入れることなく、何かを言い淀んでいる。
その様子を不審に思ったキャベリンの声が鋭くなる。
「他にも何かあるようね?」
「……その」
「話しなさい」
公爵令嬢らしい威厳を帯びた声音に、侍従は重い口を開いた。
「はい」
短い沈黙。
「……殿下は、お連れ様とご一緒でございます」
一瞬、場に沈黙が落ちた。
ひと足先に我に返ったキャベリンが問う。
「お連れ様?」
「はい」
「どなた?」
また間があった。
「……存じ上げぬご令嬢でございます」
部屋の空気が僅かに変わる。キャベリンは眉を寄せた。
「存じ上げない?」
「はい。先方の従者に確認いたしましたところ、キャノチェ・モーリア男爵令嬢と名乗っておられるそうです」
再びの沈黙。
キャベリンの視線が、ゆっくりとテーブルへ向けられる。
そこには、先ほどまで散々に論評していた恋愛小説が置かれていた。符号する数々の条件が、頭の中に浮かんでは消える。
マリンが気遣わしげに、そっとキャベリンへ寄り添った。
「……お嬢様」
「言わないで」
「…………」
「お願いだから、今は言わないで」
キャベリンは額へ手を添えた。
きっと偶然だ。
そう思えばよい。
そもそも、男爵令嬢を伴って訪ねてきただけである。
彼女が何者なのかも分からない。
エルネストとの関係も、ここへ来た理由も知らない。
何かの関係者で、王家の保護を必要としているのかもしれない。
あるいは、キャベリンへ直接相談しなければならない事情がある可能性だってある。
先ほどまで自分たちは散々、事情を確かめないまま男爵令嬢だけを悪者にするのはおかしいと話していたではないか。ならば、自分が同じことをしてはいけない。
「キャス」
「はい」
「今日は殿下から、事前の連絡は本当に何もなかったのね?」
「ございません」
「そう……。お父様は?」
「本日は王城で閣議にご出席です」
「お母様は」
「慈善院の視察に」
キャベリンは眉を寄せた。
父が王城にいる。
エルネストが父に話を通したいだけなら、王城で会うこともできたはずである。
それなのに、彼はわざわざこちらへ来た。
もちろん、キャベリン本人へ先に話すべき用事なのかもしれない。父母の不在も、ただの偶然かもしれない。
けれど、普段なら気にも留めなかったいくつかの偶然が、今日に限って妙に胸へ引っ掛かった。
「分かったわ」
キャベリンは静かに息を吐く。
「殿下とモーリア男爵令嬢には、応接室でお待ちいただいて。わたくしは身支度を整え次第伺うとお伝えして」
「かしこまりました」
「それから、お父様に使いを」
キャスの目が僅かに細められる。
「どのようにお伝えいたしましょう」
「事実だけでいいわ」
キャベリンははっきりと答えた。
「エルネスト王太子殿下が、事前の連絡なくモーリア男爵令嬢を伴って来邸なさった。わたくしがこれからお話を伺う——それだけ」
「承知いたしました」
「推測は何も書かないでね」
「無論でございます」
このような異例の事態を父へ知らせるのは、当主に庇護される子女ならば当たり前のことだ。
それはエルネストを敵とみなしたからではない。王太子が男爵令嬢を伴い、公爵家を突然訪ねた。
それ自体が、公爵家当主へ知らせるべき出来事だからだ。
もし何でもない用件だったのなら、あとで皆で笑えばいい。キャベリンはそう考えた。
「ビーニーとマリンは一緒に来て」
「承知しました」
「キャスは後から来てくれる?」
「使いを手配したのち、すぐに参ります」
「お願い」
三人が動き始める。
キャベリンは鏡の前へ立ち、僅かに乱れていた髪をマリンに整えさせた。鏡の中の自分は、緊張のためかほんの少し青ざめて見える。
胸の奥に細い糸を張ったような感覚があった。
ぴんと張り詰め、締め付けるように痛む。
エルネストに対する信頼。
十年間かけて編んできた絆が、何の根拠もないまま僅かに揺れている。
切れてしまうのだろうか。
それでも、もし切れてしまったなら。
切れた糸を、体裁のためだけに結び直すことが正しいとは限らない。
「お嬢様」
髪を整え終えたマリンが、いつになく静かな声で呼ぶ。
「大丈夫よ」
キャベリンは先回りして答えた。
「まだ何も起きていないもの」
本当に、その通りだ。まだ何も起きていない。
エルネストは婚約を解消したいなどと言っていない。男爵令嬢との関係も知らない。
ならば、確かめればいい。
王太子の婚約者として。
ローデンハルト公爵家の娘として。
そして、十年間エルネストを見てきたキャベリン自身として。
扉へ向かう直前、キャベリンはテーブルの上に置かれた小説を見た。
「ねえ」
ビーニーとマリンが振り返る。
「本当に、物語の中にしかいないと思っていた人が、いるのかしらね」
先ほどまでなら笑えた問いだった。今度は誰も笑わない。
マリンがほんの僅かに唇を引き結ぶ。
「まだ、そうと決まったわけではありませんよ」
「ええ、そうね」
キャベリンは頷いた。
「だけど、信じることと、備えないことは別だわ」
——だから、会って確かめる。
扉が開かれ、廊下へ一歩踏み出したその時だった。階下の方から複数の足音が聞こえてくる。
どうやら応接室へ案内されている途中らしい。聞き慣れた男性の声は、十年も聞いてきたエルネストの声だ。
それに重なって、鈴を転がすような知らない少女の微かな笑い声が聞こえた。
キャベリンの足が、一瞬だけ止まる。
ほんの少し先の未来で、すべての答えが待っている。
男爵令嬢は何者なのか。
なぜ彼女を連れてきたのか。
エルネストは——この婚約をどうしたいのか。
答えはもう、この屋敷の中にある。キャベリンは背筋を伸ばした。
「参ります」
凛とした声音。
腹心の侍女たちを従えるその姿は、婚約者から受けるかもしれない仕打ちに怯えるだけの少女ではなかった。
己の立場も、責任も、十年かけて学んできた。もしエルネストが、小説の王太子のような身勝手な幻想を抱えてここへ来たのであれば。
それを糺すだけだ。
もしそれを「運命の恋」と呼び、すべてを許される奇跡だと信じているのなら——
「決して負けないわ」
キャベリンの歩みは揺るがない。その背はまっすぐに伸びていた。
そしてそれは、己の立場と責任を知る、ローデンハルト公爵令嬢そのものだった。




