第60話『それでもと、祈りを込めるしかないのだから』
☆
虹色の波が、通路の先から風と共に吹き込んできていた。
「――光が、見える……」
声が出たのは、単に喉の奥に溜まっていた血を吐き出したから。
刺さったナイフが抜けた腹部からは、この小さな身体のどこに詰め込まれていたのかと思うほど、血が流れ出ていて。
最初はトプトプと音を立てていた気がしたけど、今はもう分からない。
どうしようもないほどの死に体。このまま壁に背を預けたまま、二度と立ち上がることはないのだと、本能が告げている。
それでも――。
「エトランゼ粒子……ええ、そうね……キリエ……」
全身に力を込める。立たなければならなかった。通路の先へと歩いていくラルエット。彼女はあの日の私だ。空っぽの空を希望の光と見間違えて、飛ぼうとして、墜ちてしまった毬萌樹那と。
――風が吹いている。
私は助けを求めていない、か。うん。確かにそうだ。
けれども――。
――私の背中を押している。
建前ならある。利己的利他主義という言葉が。
流儀ならある。問答無用な現実と、己への反逆の意思が。
理想ならある。私は既に、それをこの胸に抱いている。
――風が吹いている。
あの日。あの夜。あの月下で。
他者という鏡が映し出した、無償の愛に見えた輝く星。
――私の背中を押している。
正しさが欲しいわけじゃない。
見返りなんて求めてはいない。
世界を変えたいと思ってない。
ただ、あなたは私を選んだ。それが偶然だとしても。
だから、私もあなたを選ぶ。この出会いを、必然のモノにする。
――風が吹いている。
人は、論理だけでは生きてはいけないから。
――私の背中を押している。
人が、死の誘惑に打ち勝つには――?
その答えを抱いて瞬きをすると、暗転、世界が一変した。
灯火の世界。
そこはきっと、未来に向かおうとする人々の、意思の炎が築き上げた場所。
その中心に私は立っていて、そして目の前には一領の鎧が在った。
私の髪と同じ白色の外殻に、紫色のラインが引かれていて、淡く明滅している。
鎧は、まるで一輪の花でも差し出すように、いつからか手にしていた一振りの剣の、その柄を私に向けた。
「――――――、」
迷わず手を伸ばし、剣を手に取る。
刹那、再び視界が暗転し、世界は元の場面へと切り替わって。
ぱきり、とガラスの割れるような音が響き、胸に孔が開いた。
――風が吹いている。
孔の先は灯火の世界。
そして私の手は既に、剣の柄を握りしめていた。
魂が到達したその剣の名は。
十二番目の剣――『ミゼリコル・トゥエ・レーヌ』。
けれどそれは私が付けた名前ではない。私の祈りではない。
ゆえに、込められた法則は書き換えさせてもらう。
――この身体は耐えられず、空に手を伸ばして。
からのそら。空の空。すべてが、虚しいモノだというのであれば。
「現実……押収……――――空想、展開――――」
求めるのは、あらゆる墜ちゆく者に授けられるべき、白のひとひら。
それを以て伽藍の空を、あの方から頂いた色に。
破滅の赤に抗う、空色の青空へと書き換えてみせよう……!
「――――『絶対無血領域』」
――祝福の言葉を告げて、私は翼を広げた。
あらゆる重さを振り払い、軽く、高く、羽ばたくための、【慈愛】の翼を――‼
それこそが、大いなる車輪に逆らい続けた果ての果て。
――到達せし極地。死の奔流、その掌握。
辿るべき運命を書き換える、生命の羽ばたきだった。
今は彼方――空に墜ち、時の波に流され、そして海に辿り着いた。
そこで一度は指針を失い、溺れかけてしまったけれど。
私は星を目指して、再び羽ばたこう。
たとえ飛翔に及ばずとも。
濡れた翼でもがくだけの行為だったとしても。
それでも成せるものがあると信じて――ひたすらに。
高らかに踊る翼は羽根を舞い散らし、桜のように、雪のように、優しく包み込むように降り積もっていく。
「――――――」
束の間、私の意識はまるで、本物と見間違う浮遊感を得ていた。
あらゆるモノが手の届くところにある。自分と世界が一つになったような感覚。それはまるで、どこまでも視えて、どこまでも感じられて、どこまでも触れられる神様になった気分だ。爽やかな風の中を、私はずっと佇み続けている。流されながら、逆らいながら、身を委ねながら、偏在している。
目を閉じていても開けているみたいで。
澄み渡るように起きているのに、微睡みに沈んでいるみたいに穏やかで。
一瞬を味わい尽くす至高の絶頂が、どこまでもどこまでも私を貫き続けている。
ああ――けれど、この感覚に飲まれてはダメだ。
だって、美しく翼を広げるだけでは意味がない。
醜くても必死にもがかなければ、それは墜ちてゆくだけなのだから。
己が運命を掌握し、歩んでいく道。見据えるべきは神への回帰ではなく、人の可能性の先であると、私は自らの手綱を握りしめた。
「――――あ、え……? 何これ、私……術式が消えて――ッ、マリモジュナ!」
意識を取り戻し、私を振り返ったラルエット。
「まさか使ったの――? 魔法を」
続く言葉に、頷く。
――空想の具現化。それこそが、死の経験という本来はあり得ないモノを手に入れた私の、魔の法則だった。
空想とは時として、現実の前には無力になる瞬間がある。
それこそどんなに綺麗な言葉を紡いでも、尽くしても――ただの一言で崩れてしまうような脆さを内包している。
それを知っているからこそ、私は精一杯、思い描いた。
理想を、祈りを、建前を、捧げられるモノはすべて捧げた。
そうすることがきっと、捻じ曲げられてしまう現実に対しての、せめてもの作法だから。
その到達点のひとつがこの、虚無へと至る引力に抗うための――反逆の翼だ。
「羽根が、会場全体に……結界、なのか、これは。魔術を無効化する結界……?」
「……そう。この結界の中では、人を傷つけるあらゆる魔的法則が無効化され、怪我や病でさえも、一時的にその進行を止める」
「な、なにそれ――あり得ない……」
そう、あり得ない。だけど思い描いた。必死に祈った。
生きることを選んだから。命を諦めないと誓ったから。
だから誰も死なせない。それが自分を死なせないことにも繋がると、知ったから。
「こ、効果時間は⁉ こんな大掛かりな結界……すぐに壊れてしまうはず……!」
「私はこの結界の効果時間を、四十時間に設定した。だから多分、その間は大丈夫。そう感じる」
四十時間。それは私が死へと到達するまでに落ち続けた時間であり、その果てに何も残すことができなかった時間だ。
かろうじて生きていたというのに、父に謝罪することも、新しい母に感謝を伝えることもできずに終わってしまった。
だから、次こそはと想いを込めた。
この時間は、何も残せなかった結末を書き換えるための、運命を超えるための試練の刻限なのだ。
「よんじゅう、じかん……――は、はは……これが、本物? バケモノじゃない……そんなのあるなら、最初から使えよ……」
「そうしたらきっと――あなたを現実で受け止められなかった、から」
剣を手放す。武器は、必要としていない。
スノードームのように、白い羽根が舞い上がり、そして落ち続ける通路。
座り込んだラルエットの頭を、頬を、流れゆくナミダを、そっと撫でた。
流れ込んでくる、彼女の絶望と慟哭。そのすべてを包み込むように、私は――ラルエット・マルシャンの身体を、ただひたすらに抱き締めた。
……良かった。あなたに手が届いて、本当に。
通路の先。暗闇を抜けた向こう側から、遠ざかっていた声が伝わってくる。
『――一年後。この場に立っているのは私ではありません。私の、私たちのバトンを受け継いだ誰かが、『百年祭』の閉幕を告げることになります。
そのとき振り返った一年が、胸を張れるモノであるように、可能性あふれる未来へと歩んでいきましょう。この言葉と祈りを以て、開幕の挨拶を終わります。
――ご清聴、ありがとうございました』
☆
いつの間にか意識を失っていたと、彼女の腕の中で目を覚まして、気が付いた。
視界の端。【慈愛】の剣が生み出した白い羽根は、今も降り続けている。
ということは、ここは会場で、少なくともまだ、四十時間は経過していないらしい。
ぼやけた頭でそんなことを考えていると、そっと、彼女が私に微笑んだ。
同じだ。あの再誕の日に見つめた、星のように眩しい笑顔と。
……なら大丈夫。
それが分かるということは、鮮明に覚えているということだから。
安心して、伝えられる。
「キリエ……私、決めたわ……」
「うん」
「私は……委員会には、入らない……あなたと同じ道は、歩まない……」
「……うん」
「だから、待っていて。それぞれの道を歩んだ先で、またこうして、出会える時を」
「――分かった。そのときを楽しみにしているね」
大丈夫……きっとまた会えるわ。私たちは、まるで回り続ける回転木馬のように、お互いを追いかけあっているから、もしかしたらすごく、遠いのかもしれないけれど。
それでも、いつか――運命の時が訪れる、その瞬間を、一緒に迎えようね。
「キリエ先輩!」
知っている声が、近付いてくる。
「ルカ――この子のこと、お願い」
「はい……! マリモさん。遅れてしまって本当にごめんなさい。でもようやく、あなたの力になることができます」
少女は花のような笑みを浮かべて、それから。
「安心してください。アプステラ魔術学院高等部唯一の治癒魔術師――ルカ・フローレンスの名に懸けて、傷跡も残らないほど綺麗に治してみせますから!」
柔らかな陽射しのような声で、そう告げたのだった。




