第51話『ベルナデットの過去』
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――幼い頃から、人の上に立つ人間だという自覚があった。
大きな屋敷。天蓋付きのベッド。おろしたてのような服を着る朝。微睡むようなティータイムを嗜む昼。豪奢な晩餐の席でグラスを手に談笑する夜を送る、階上の生活。
一方で。
半地下の空間。二人も眠れないベッド。眠い目を擦りながら屋敷中のカーテンを開け、暖炉の灰を掻き出し、清掃に朝食の準備に服のアイロン掛けを行う朝。リネン類の取り換え、お茶の準備、ディナーテーブルのセットと忙しない昼。給仕と一日の後片付け、そして次の日の準備と、時間に追われ続ける夜を送る、階下の生活。
そんな足元を見れば、比べてしまえば、自分がいかに恵まれているかなど一目で理解できた。
自分は選ばれた側、与えられる側の人間で。
美しくなければと、美しさを込められる側の人間で。
使用人とはそうではない者たちなのだと、悟っていた。
ごく自然に憐れみを覚えて、見下していたのだ。
――ある日のことだ。いずれ私の侍女になると聞かされていたハウスメイドと、部屋で鉢合わせたことがあった。
普段、掃除のような『生活の営み』は私がいない間に済まされるから、なぜ彼女がベッドの横に立っているのか分からなかった。
だが彼女のお腹が鳴り、その視線がベッドの脇のサイドテーブルに置かれたガラス瓶、その中に残っていた一枚のクッキーへと向けられていたら、さすがに察しはついた。
どうせ補充しなければならないのだから、自分が最後の一枚の後始末をしても良いのではないか。
そんなことを考えて葛藤していたのだろう。
私は彼女に声をかけ、クッキーを差し出した。
もっと欲しいなら、貰ってきてあげる。好きなだけあげるよ、と。
彼女はごくりと喉を鳴らして手を伸ばし、そして……その場に跪いた。
私が与えようとしたモノを受け取らずに、こう言ったのだ。
『それは、いつでもそこにあるわけではないですが、誰かが見ていてくれないと自分では見失ってしまうモノですが、お仕えできるだけで満たされるモノもあるのです』
彼女は微笑みながら言った。
階下どころか階上で生きる誰よりも、きっとこの屋敷の外にある何よりも、それは幸せそうな笑みだった。
『それに私が食べたら、あなたの分がなくなってしまいますから』
言いながら、美しいモノを目に焼き付けるように、私を見上げる彼女。
確かに、彼女の瞳の中の私は綺麗で、輝いていたけれど――否。
本当に綺麗だったのは彼女だ。その眩しさは、彼女自身のものだった。
彼女にはまるで、夜空に浮かぶ赤い星のような輝きがあったのだ。
その輝きの正体は分からない。
だけど少なくとも、それが私に無いことだけはハッキリしていた。
なぜならば。
荒れていない手。滑らかな爪。枝毛ひとつない長い髪。
それらは使用人の誰もが持ち合わせていない美しさだが、私が努力して磨き上げたものではない。
常にそれを保つ努力をし続けてくれた使用人たちの成果を、まるで自分が持って生まれたモノのように見せているに過ぎないのだから。
私の美しさなど、持っている物など、クッキーの一枚でさえ所詮は仮初めのもの。
そして仮初めであるがゆえに、失う恐れなどなかった。
それが本来あるべき場所に戻るというなら、そうするべきだと思った。
だというのに、それを受け取らなかった彼女に、ひどく腹が立った。
私は本当に何も持っていないのだと、事実を突きつけられるようで。
そんなことはないと、私は意地を張るしかなかった。
次の日。私はガラス瓶のクッキーを一杯にしてもらい、様子を窺った。
一枚減ったところで分からないような量だ。昨日と同じく喉を鳴らした彼女を見て、今度こそ食べる。そう思った。だが彼女は手を付けなかった。
その次の日。私はクッキーに加えて、サンドイッチを用意してもらった。彼女は手に取った。今度こそ食べる。そう思った。けれど彼女は枕元にサンドイッチを備える私を怪訝に思っただけで手を付けなかった。
さらに次の日。業を煮やした私は誰よりも早く起きて、掃除用具を手に取り、屋敷中を掃除して回った。
彼女が忙しさのあまり朝食を摂る暇もなく、それが仕事中の空腹に繋がるのであれば、その原因を取り除いてやろうという考えだ。
結果は――まあ、両成敗といったところに落ち着いたよ。
彼女は自己管理の甘さから私にこんな真似をさせたことをきつく咎められ、私は祖母に使用人の仕事を奪ってはならないと叱られた。
『私たちは、ただそこに在るだけで、意味を生み出す存在なのよ』
祖母の言葉。私はそれに疑問に持った。
階上の人間――私、父、叔母、祖母のたった四人に対し、階下の使用人は常にその十倍はいた。
繁忙期にのみ雇われる労働者も含めれば、百人を超えることもあっただろう。
それだけの人間を、まるで養分のように吸い上げて成り立つこの生活に、本当に意味はあるのだろうか。
ただそう決まっていることだから、誰もがその流れに逆らうことを忘れているだけではない。
自分を犠牲に何かを輝かせ続ける、ただ搾取されるだけの使用人たちは幸せなのだろうか。
そんな人生に、意味はあるのだろうか――。
その疑問には、父が答えた。
『意味ならあるよ。人が生きていくためにはお金が必要で、お金を貰うためには働かなければならない。だけど生まれ育った環境、獲得できる教養や身分、時流によっては、求められる職種に適応できず、働きたいのに働けないという自体も起こる。
その点、使用人という職業は多くの人を受け止めることが可能だ。ただ賃金を支払うだけでなく、衣食住を保障し、望む人には教育を施し、役目を与えて果たさせる。そこで初めて、人生というものを送れる人だっている。
彼らが幸せかどうかは僕たちが決めることじゃない。できるとしたらせいぜい、彼らが自ら選択し幸せを手にできるよう祈って、少しでも多くの道を用意すること。私たちは多くを与えられる側であるのと同時に、多くを与える側なんだ』
父は、そう説いた。
『そして、彼らが私たちを支えるという役割を果たすのと同時に、私たちも人の上に立つからこそ課される役割を果たさなければならない。教養や礼儀作法を身に着け、社交の場に出て人脈を築き、表舞台に立って世の中を動かしている。
そんな風に、誰もが大いなる車輪を象る歯車のひとつであり、誰もが尊重されるべき存在なんだ。だからその人の誇りであり、果たすべき役割に、安易に踏み込んではならないんだよ』
父は婿養子で転生者だった。
大衆寄りの価値観を宿しながら上流階級の世界に入門し、そこで身に着けた矜持は――父なりのノブレス・オブリージュには、重い説得力があった。
実質貴族などと揶揄されながらも、揶揄されるからこそ。
持てる者の義務を、役割を、果たさなければならないのだ、と。
私は頷いた。
あのとき、眩しく美しかった彼女の姿。
あの輝きはきっと自らの役割を重んじ、誇りを抱き、それを果たすことで宿るものなのだと、そう信じて。
私も持てる者として、義務を――ノブレス・オブリージュを自らの矜持とした。
とはいえ、彼女の仕事を肩代わりした自らの行いを、悔いることはなかったがな。
私の過ちによって、彼女のスケジュールは見直された。
叱られて、相応の罰則も受けたが、しかしそれは充分すぎるほどの成果だった。
私が私だけの力で、誰かに何かを与えられた数少ない記憶。
それは最初で最後の、後悔のない過ちとして、今もこの胸に秘められている。
それから十年の歳月が経ち、私は――運命の夜を迎えることになった。
その日は、十五歳の誕生日だった。
中等部の卒業式が近付いていた冬の日。
いつものように大勢の客を招き、大勢の使用人を雇い、生み出された人の循環。
その輪の中で、父の友人だという男から、あるプレゼントを渡された。
促されたので、私はその場で箱を開けた。
中身は――大きな宝石をあしらった指輪だった。
到底、自分より二回りも年上の男から貰っていい代物ではなかったが、男は寂しそうに笑ってこう言った。
『贈り物とは少し違うんだ。これは……そう、かつて君のお父さんから預かった物の、返却。あの幼子がこれほど立派な高潔さを宿して成長したのだから。これは君が受け取るべきだ』
男の言っていることは理解できなかったし、訊くつもりもなかった。
おかげで彼と父との間に何があったのかは、今でも知るところではないが。
そのときの私はとにかく、指輪から目を離せないでいたのだ。
正確にはその宝石から。
ロードナイト。あるいは、薔薇貴石。
――家名と同じ名を持つその宝石から。
私は宝石に指を伸ばした。
おもむろに、何となく、そうするべきだと身体が勝手に動いたのだ。
そして指先がロードナイトの表面に触れた、瞬間だった。
私は――母の声を聴いた。
記憶にないはずの声。産まれた私と入れ替わるように亡くなったという、母の声を。
同時に目撃した。その光景に目を見張った、父の姿を。
私は晩餐会が終わってすぐ、父の執務室へと向かった。
そこで私を待っていたのは、父が観念したように明かしたのは、ロードナイトの真実だった。
父は本棚の前に立ち、一冊の本の背表紙を指で引いた。
すると、何か仕掛けが起動する音がして、本棚の一角が動き、階段が現れた。
地下室へと続く通路。私は父の背を追って、一段ずつ階段を下りていった。
そうだ、マリモ――今の君は、まさしくあの日の私だよ。
地下室に安置されていたのは、ロードナイトの断片だった。
断片。そう、砕かれて原形を薔薇色の宝石であり、そして。
――自らを宝石化したロードナイトたちの、身体の断片だ。




