第49話『月引少女/月抗少女』
☆
この世界の警察組織であるところの騎士団への応対を終え、代わりの馬車をラフィーネさんに手配していただき、お屋敷に到着する頃には――月が昇っていた。
今でも魅入られそうになる、青白くて冷たい、硝子細工のように美しい死の象徴が。
帰宅してからずっと、主人は夕食も摂らずに部屋に籠っている。
そのような事態は、きっと初めてのことなのだろう。
噂好きのジスティさんもトワルさんも、私やラフィーネさんの表情から事の深刻さを察したのか、事情を詮索するようなことはしなかったし。
キッチン組はいつ声がかかってもいいように、いつでもベルナデット様の好物を提供できるように備えて。
ライナさんは辛そうな表情でどこかに姿をくらまし。
ロードナイト本家を含めての古株であるグットレットさんは、お目付け役として泰然自若の構えを取っていたけれど、しかしどれだけ時間が経ってもいつも読んでいる本のページが捲られることはなかった。
まるで家族が熱を出して寝込んだときのような、どこか落ち着かなくて、やりきれない気持ちが渦巻く――そんな光景を、見て。
不謹慎だと思いつつも、ほっとひと安心する。
だって皆、どこかで、ここに居ることを仕事と割り切っている節があったけれど、そしてそれは真実そうなのだろうけれど、でも――それだけじゃなかった。
ベルナデット様はきちんと慕われている。
確かなモノをきちんと積み上げてきたのだ。
その価値を、今の私なら正しく理解できる。
……本当に不思議だ。
どうして人は、自身の内側だけに目を向けると、大きな誤解をしたり、激しい思い込みをするくせに……他者という鏡を通すだけで、答えをあっさりと見つけられるのだろう。
「――ごちそうさまです」
プランに頼んで用意してもらったまかないを食べ終えた私は、感謝を込めて両手を重ねた。
「お粗末様。でも意外と呑気ねぇ。こんなときにお腹鳴らすなんて。てっきりマリモが一番あたふたするもんだと思ってたけど」
「……生きていれば、どんなときでもお腹は空くものだから」
苦笑する。またヘリオスレッタ的、酔ったことを口にしてしまった。
けど、腹が減っては戦は出来ぬというし。
この場合、何をどう戦とするかが肝心だけれど――うん、大丈夫。
私の目にはまだ、きちんと見えている。
そうだ。
あの日からずっと。
進み方を間違えても。そこに籠める想いに翻弄されても。
ずっと――あの星は、見えているのだから。
行こう。式典は明日。ぐずぐずしている暇はない。
私はラフィーネさんにこれからすることを伝えた。
許可を求めたわけではなかったけれど、ラフィーネさんは私の背中を押すように、訊きたいことがあれば答えられる範囲で答えると言ってくれた。
ならば、と私は一つだけ質問をして。
その解答に頷いて――そして、ベルナデット様の部屋を尋ねた。
★
ラルエット・マルシャンによる馬車の襲撃。
その収集を騎士団に顔が利くらしいマリモを任せ、ラフィーに新たな馬車を手配させ、そうして屋敷に戻る頃には――月が昇っていた。
ひどく病的な青白い光を無遠慮に垂れ流す、永遠に届くことのない、ヘリオスレッタの冥府が。
「…………」
風が吹く。冷たい夜の風が巻き上げる、白いカーテンと私の髪。
開かれた窓。明かりの付いていない部屋。
制服を脱いだシャツだけの身軽な姿で、沈むようにソファーに座る……ただのベルナデット。
帰宅してからずっと、こんな調子だ。
夕食の時間も無視して、まるで拗ねた子供みたいに、自分の世界に閉じこもっている。
今頃、下ではどんな会話が繰り広げられているのだろうな。
話のタネを手に入れたジスティとトワルがあれこれと憶測を立てて。
クーペとプランシュはいつ必要になるか分からない私の夕食のために、文句を言いながらずっと待機していて。
ライナは何かつまみ食いでもしながら、クーペやグットレットに絡んで。
そんなグットレットは、私の異常事態を本家に報告すべきか考えつつ、ひとまず静観している、といったところか。
残ったラフィーとマリモは、私への言及から逃げるように、今日をやり過ごすように、二人で適当な仕事をこなしているかもしれない。
「――――」
下唇を噛んだ。
……本当は分かっているさ。そのようなことは断じてないと。
私の使用人たちは今頃、本気で私の身を案じてくれていると。
皆はそういう人間だ。そういうところに、聡い者たちなのだ。
だからこそ私は、彼ら彼女らを側に置くことができていると、いうのに。
『ミリエルホーム――貴女が援助することで廃院を免れた、孤児院です』
あの燃えるような瞳が放った熱視線が、胸に突き刺さって、いつまでも抜けないでいる。
私の中で燻る黒い火種を、煽り続けている。
再生されるいくつかの場面。思わず叫びたくなる衝動。
それを必死に噛み殺し、行き場を失くしたモノを誤魔化すように、緩慢に立ち上がる。
夜風に揺蕩う白い波。
射し込む光はまるで海に架かったムーンロード。
私は淡い月光に誘われて、バルコニーへと出る。
もう七月だというのに、吐く息が白く凍えそうな空気だ。
降り注ぐ冷たい光が眩しくて、左目の奥が軋むようで、思わず目蓋を閉じる。
それから恐る恐る手を翳して、ゆっくりと瞳を晒すと。
光は、まるで白砂のように指の間をすり抜けて、私の顔に影を作っていた。
……欠けた月に願う。
こんなものが私に課せられた永遠だというのなら、いっそのこと……。
ヘリオスレッタの冥府よ――どうか私を連れ去ってくれないだろうか。
死神に魅入られたかのように、甘美な静けさへと、一歩を踏み出した。
そのときだった。
「――危ないですよ、ベルナデット様」
優しく手を握られる。
静謐の中に木霊したのは、清楚で可憐な少女さを持ちながらもどこか虚脱感のある、あるいは押し殺しているかのような声。
たなびく髪を追いかけるように振り返ると、そこには。
――マリモが、いた。
目を離した瞬間には消えてしまいそうな、儚い死の香りを纏う、白髪の少女が。




