第40話『仕えるということ、仕えられるということ』
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七月四日。土曜日。使用人として働き始めて五日目の朝。
今日も今日とて朝の清掃を終え、階下の大部屋で一人待機――という名の朝食までの休憩――をしていると。
ちりんちりん、とサーヴァントベルが揺れて音が鳴った。
プレートを見ると、呼び出しを受けたのはベルナデット様の私室のようだ。
「……む、……っ」
ついにこの時が来たかと、身構えるように唾を飲み込む。
まるで見計らったかのように、ジスティさんだけでなく同じ仕事をこなしたトワルさんまでもが不在である。
お客様たちの応対をしているのか、あるいは別の仕事が舞い込んだのか。
とにかく現在、この大部屋にいるのは私だけだ。
基本的にベルナデット様の呼び出しに対応するのはラフィーネさん、あるいはジスティさん、そしてたまにグットレットさんと決まっている。
しかしあの忙しい方々が大部屋に常駐できるわけもなし。
いつか即座に対応できる人が私しかいない状況が訪れると、それなりに予測はできていた。
が……タイミングもタイミングだし。
実際に直面すると、初めての出来事に心は強張るもので……。
――いやいや、こんなことでどうする、マリモジュナ。
私は何とか自分を奮い立たせ、席を立つ。すると。
「はい、マリモ、これ」
「はい?」
突如として現れたプランが、ティーセットを乗せたトレーを差し出してきたので、流れるように受け取る。
「いや、休日の朝の呼び出しっていったら、お茶のご用意に決まってるじゃない」
「は、はぁ……」
なにぶん知らない話だったので、微妙な感じに首を傾げるしかない。
なぜベルが鳴ったのとほぼ同タイミングで、湧いたお湯が用意できているのか、多少の違和感を覚えるが……まあプランがそういうからにはそうなのだろう。
思えば今日は、使用人になってから初めての休日シフトだ。
多少の伝達ミス、というほどでもない小さな行き違いがあるのかもしれない。
何はともあれ、トレーを持ったまま使用人階段を使って大広間、そして二階へと上がり、ベルナデット様のお部屋を目指す。
「…………」
静かな廊下を木霊する、私の足音。
部屋が近づくにつれて、少し、鼓動が勢いを増す。
……緊張している。
ベルナデット様のお部屋に入るのが初めて、というのもあるけれど。
昨日の失態。あれが内心、まだ尾を引いている。
ラフィーネさんの励ましを受け、その晩のうちにクーペさんとプランに謝罪をして、気にしなくていいとのお言葉をいただいたものの、ベルナデット様と顔を合わせるのはあのドレスの受け渡しのとき以来だ。
別に赦しの言葉が欲しいとか、叱責が欲しいとか、そういう話ではない。
ただ、ロードナイトの使用人を背負うことを認めてくださった上で、お客様の前でそれに泥を塗るような真似をしてしまったその事実が、後ろめたくて、情けないというだけ。
「…………」
気持ちを隠すように口元を引き締め、私は扉をノックして、お部屋に入った。
「おはようございます。ベルナデット様」
「うむ。おはよう、マリモ」
天蓋付きの豪奢なベッドの上。
ベルナデット様は枕をクッション代わりに、ヘッドボードに背を預ける形で、新聞を読んでいた。
肌触りの良さそうな白の寝間着。
まだ整える前の、簡素に一つ結びにされたミルキーブロンドの髪。
プライベートな場でしかお付けにならない金縁の丸眼鏡。
まるで絶世の女優の、飾らない舞台裏。
飾らないがゆえに、その剥き出しの輝きは普段より生々しく、普段以上に網膜に焼き付く。
「………………」
……本当に、どのようなお姿であっても損なわれない美しさを持つお方だ。
私は一瞬、本当に一瞬だけ見惚れてから、すぐにお茶の用意を始めた。
主がお茶をご所望しているのであれば、一秒でも早くお届けしたかった。
私は手際よくカップに紅茶を注いで、トレーごとサイドテーブルにお出しする。
それを見たベルナデット様は新聞を置いてカップを手に取り、一口。
「ベッドティーはいいな。いつもできるわけではないが、ゆえに至福だ」
ベッドティー。それはアーリーモーニングティーとも言って、起き抜けに紅茶を飲むことで、気怠さの残る脳や身体を優しく覚醒に導いたり、リラックス効果のある香りや紅茶を朝に嗜むという行為そのもので、精神面に余裕をもたらすという――まさしく優雅な一杯のことだ。
「ベルナデット様は、必ず一日のどこかにティータイムを設けられますよね」
「長い人生、ブレイクタイムはどれだけあってもいいものだ。まあ単にカフェイン中毒だという見方もできるがね。――さて」
カップ置いて、こちらに身体を向けるベルナデット様。
露わになった素足が、ベッドから放り出される。
「マリモ。着替えを手伝ってくれるか?」
「はい。――――――――――、はい?」
え、なんだ。今ベルナデット様は、何と仰った?
「あの、お着替えをお手伝いするということは、お着換えをお手伝いするということですか……?」
「そうだ」
「そ、それはつまり――お着換えをお手伝いするということですか……!」
「そうだ」
「しょ、承知いたしました! お着換えをお手伝いするということなのですね⁉」
「先ほどから同じことしか言っていないが……理解できたならいい。昔から侍女の仕事とは、着せて脱がせて、また着せることだと言われている。これも立派な業務だよ。さ、服はそこに――」
ベッドの足元のほうに目を向けると、着替え一式が丁寧に置かれていた。
きっと昨夜のうちにラフィーネさんが用意したのだろう。
その多忙さゆえ、いつも手が空いているとは限らない。
それを見越した周到さ、さすがは荘厳なる家令だ。
……あれ、待てよ。
ならベルナデット様がお読みになっていた新聞は、いつ誰が届けたのだろう。
考えてみれば、部屋のカーテンも私が入った時点で既に開けられていた。
さっきは剥き出しの輝きがどうのと感じていたけれど、言っても洗顔はされているように思う。
なんだか色々と疑問を覚えるのだが……ええい、今は職務に集中だ。
「……それでは、失礼いたします」
お着換えを開始する。
まずはベルナデット様の寝間着、その胸元のボタンを外すところからだ。
イメージ的には、なんだか高貴な透け感のあるネグリジェでも着用していそうなベルナデット様だが、実際にお召しになっているのはルームウェアに近いというか、本当にシンプルなシルクのシャツとショートパンツだ。
三つ目のボタンを外し、シャツの隙間から露わになったナイトブラもそうだけれど、デザイン性よりも機能性を重視していることが窺える。
その辺り、伝統を継承しつつも、現代的で合理的な価値観を持ち合わせているベルナデット様らしいと言えるのかもしれない。
シャツを脱いでいただき、まだ人肌の温もりが残るそれを畳もうとする。
すると、ふわり――と、ベルナデット様の纏うフローラルの香りが、いつもとはまた違った濃度で鼻孔に絡みつく。
色香とさえ形容できてしまう匂い。
反射的に焦点を合わせてしまう、ベルナデット様の肢体。
一切の無駄がないその完璧な造形は、まるで彫像が肉の身体を手に入れてそのまま動き出しているかのようで…………怖い。
「――――。次はその、下のお召し物を」
「うむ」
そう短く言うと、ベルナデット様はベッド脇に立った。
私は背を屈めて、ショートパンツに手をかけ、下ろす。
そうして、下着しか身に着けていない状態となったベルナデット様。
その立ち姿は、やはり感嘆するほど美しい。
陶器のように滑らかな肌。細くしなやかな手足。胸からお尻にかけて描かれる見事な曲線。過剰なまでの黄金比。もはや人間味が薄れてしまうほどに、すべてが整いすぎている。
……なんだろう、この感情は。
己より成熟した同性に対する、未熟さの痛感。気恥ずかしさ。
あるいは手の届かないモノを前にしたときに抱く憧れ――いや、この感覚はともすれば、以前の私が強く縛られていた完璧主義、言い換えれば強迫観念に由来するもののような気もする。
得も言われぬ感情がいくつも渦巻く中で、私は整えられた着替えの一番上に鎮座する、新しい下着を一瞥して……そして。
「下着は、いかがいたしましょうか」
ベルナデット様の秘所に私などが触れてよいものか。
そう思い尋ねてしまう。……すると、一瞬。
偶然捉えることがなければ見逃していただろう、ほんの刹那。
「ん――」
長い睫毛に彩られた目を、僅かに細めたベルナデット様。
「……なに、私とて、いくら使用人でも出会って数日の者に裸体を晒すのは抵抗がある。自分でやるよ。そもそも着替えは普段一人で――」
「え?」
「おや……――はは、口が滑ってしまったな? 忘れろ」
威風堂々たる誤魔化し方だった。
「ええと、ではその間、お茶のお代わりをご用意させていただきます」
うむ。という短い返事を受けて、私はベルナデット様に背を向け、空のカップに紅茶を注ぐ。
紅茶がカップを満たす水音。背後で微かに響く衣擦れ音。
そして次に聞こえたのは。
「そういえば昨夜預けたドレス、見事に綺麗になっていたな。マリモがやってくれたのだろう?」
ベルナデット様の、穏やかな声。
「恐縮です。ジスティさんに教わりながら、手入れをさせていただきました」
「あれはお気に入りなんだ。丁寧な仕事をしてくれて助かった。ありがとう」
それはとても優しく、労わるような声色だった。
これは……もしかしなくても、きっと。
「もうこちらを向いて構わない。続きを頼む」
「……かしこまりました」
私が差し出したカップを受け取り、ベッドに座る主。
その姿は変わらず下着姿だが、一段と華やかさが増していた。
上下共に細かな意匠が施されたパステルブルーの生地。
さらにその腰には、フリルがあしらわれたガーターベルト。
初めて生で見たガーターベルトに私は一瞬目を見張ったが、すぐに意識を切り替えて、ストッキングを手に取る。
跪いて、ベルナデット様のおみ足に触れ、その人形のような足が折れないよう、割れないよう、丁重に布地を滑らせて太腿まで伸ばしていく。
確か……ガーターとストッキングを結ぶサスペンダーは、ショーツが上になるようにするのが正解だったはず。
でないとトイレに行くときに全部脱ぐことになるからだ。
そこを留意しつつ、留め具を正しく固定して。
それをもう片方の足でも行う。
「――――」
無事完了。次はシャツだ。
ベルナデット様のミルキーブロンドの髪を首元まで持っていき、アイロン掛けされてパリッとした黒シャツを広げ、位置を調整しながら腕を通していただく。
髪を元に戻し、ボタンに手を伸ばす。
上から一つずつ、ゆっくりと止めていく。
「…………」
その間、言葉はなかった。
朝の静寂。慣れない行為。けれどもう、そこに気まずさは一切なかった。
むしろお互いにリラックスしているようにさえ思う。
ベルナデット様は私にすべてを委ねてくれて。
私はその信頼に応えてお世話をすることで、満たされていく心があって。
「…………」
――これまでに抱いたいくつもの疑問は、既に頭の中で形を成している。
ベルが鳴ったタイミング。見計らったように用意されていたお茶。
開かれていたカーテン、用意されていた新聞、検分されたドレス。
普段は行われることのない、お着替えのお手伝いという職務。
導き出される答えは、ひとつしかない。
――ベルナデット様は私を励ますために、文字通りひと肌脱いだのだ。
失態には新たなチャンスと功績を、とでも言うべきか。
ご自身でもできることを、その負担を、信頼して預けてくださった。
それは私にとって、充分すぎるほどの贈り物だ。
これが、使用人を励ます主人のやり方。
そしてこの気持ちが、主人に頼っていただける使用人の――喜びというモノ、なのね。
「ときにマリモ。近頃の学院では、ループタイをどう身に着けるかがトレンドだそうじゃないか。知っているか?」
「はい。見える位置に着用すればよいという校則を逆手にとって、腕や腰に巻いたり、宝石の部分をイヤリングにしている生徒もいるようです」
「試しに私にもやってみてくれないか? 君が似合うと思う付け方で」
「――――、はい。どうぞ私にお任せください。ベルナデット様」
――なんて気高き、お心遣いなのだろう。
与える側としての高貴な振る舞い。
それは傲岸不遜と似て、しかし一線を画す。
与えられる側に優しく寄りそう、温かなご高配というもの。
この上ない美徳の眩しさに、私は思わず、涙が出てしまいそうになる。
この方のお役に立ちたい。
この方にもっと、もっと重荷を預けてもらいたい。
全身全霊を以て、私という存在そのものが、声なき声でそう叫んでいる。
ここまでしていただいたのだ。
使用人として。奉仕のプロフェッショナルを背負うことを許された身として。
いつまでも失態を引き摺っているわけにはいかない。恐怖に臆するわけにはいかない。
私も相応の心構えを以て、その命を完遂しよう――――。
「――――」
そうして、しばらく。
無事にお着換えを済ませ、それから髪を梳かし終えた頃だった。
主の意図をきちんと汲み取った使用人に、与えられて当然の褒美を授けるように、ベルナデット様は告げた。
「マリモ、あまり無理をするなよ。辛いときは辛いと言っていい。泣きたいときは泣き、笑いたいときには笑え。君はここで確かに生きているのだから。誰かを頼っていいのだ。それとも君の主人は、悲しいから慰めての一言も言えないほど薄情なやつなのか?」
「……いいえ――いいえ。断じて、そのようなことはありません」
「よろしい。では戻るといい。そろそろ朝食の時間だろう」
「……はい。それでは失礼いたします。ベルナデット様……」
年上の先輩の、あるいは雇用主の着替えを手伝った。
言葉にすれば、たったそれだけのことなのに。
だけどそこには、言葉以上の多くのモノが、籠められていて。
上手く言えない、温かい気持ちを胸に抱えたまま、踵を返す。
すっかり立て直されてしまった自分の足で。
掛け替えのない時間に別れを告げるように。
そうしてお部屋の扉を閉める、その間際だった。
何もかもが氷解した時の最後に、一つの栞を挟むように――部屋の端に置かれた本棚の本がぼんやりと、光を放った、ような気がした。




