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ビニース・ザ・ウィール -反逆少女と宝石令嬢-  作者: 悠葵のんの
第二章《to dress, un-dress and, re-dress》
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第39話『酔えないワインは誰が為に』

     ☆


 こつ、こつこつん、と足音が響く。響いてしまう。


 ジュリエッタ先輩がダイニングルームを出る際、私を拘束していた、目を凝らしても微かにしか視認できない魔術製ワイヤーをピンと引っ張り、そして断ち切ったのだ。


 私はその反動で躓くようにして、控えめな明かりのもとに姿を晒した。

 音に反応して振り返ったラフィーネさんの、眼前に。


「――聞かれていましたか」


 平淡に言うラフィーネさん。

 淡いライトブルーの髪に隠れて、その表情は分からない。


「……申し訳ありません」


「構いません。あの子の仕業でしょう。私にしてみれば愛らしき児戯です」


 言って、使用人のまとめ役である家令は、私のほうへと歩き出す。


 普段通りの足運び。普段通りの威厳ある風格。

 この時代まで続いてきた伝統作法を一身に背負い体現する、当主以上にこの方が『プティ・シムティエール』であり、『プティ・シムティエール』がこの方であるかのような……普段通りの超然的姿。


 とん、とん、と規則正しい足音が響く。

 静かな、けれども確実に場を支配する力を内包しているそれを、居住まいを正される心持ちで聞いていると。


 ラフィーネさんはすっと私の横を通り過ぎ、棚の前で足を止めた。


 それから、空のワイングラスと無数に並べられたボトルのうちの一本を手に取り、給仕のときよりほんの少しだけ雑に、その中身を注いで。


 そしてラフィーネさんは――グラスをぐいっと煽った。


「――⁉」


 衝撃的な光景に目を剥く私。

 香りも味も楽しむ素振りすらないその行動は、果たして現実のものなのか。

 そんな私の混乱を余所に、ラフィーネさんはさらにもう一つグラスを手に取って、計二つの器を満タンにする。


 由緒正しきお屋敷が、まるでここだけ下町の飲み屋にでもなったようだった。


 それでもなお、ラフィーネさんの所作には普段の気品が滲み出ていたけども。

 ともかくとして前代未聞の行動を見せた家令は、ゆっくりと身を翻しては、ダイニングテーブルにグラスを置いて、手近な椅子を引き寄せた。


「どうぞ」


 座りなさいと、ラフィーネさんが椅子をこちらに向ける。


「……で、では……」


 何がなんだか分からないが、席に着く。

 まさか、酔っているわけではないわよね……?

 見たところ、顔が赤いとか目が据わっているとか、そういった変化はなさそうだけど……。


「マリモも一杯、どうです?」


「未成年ですので……アルコールはさすがに」


「ふっ、ここにはノンアルコールしかありませんよ」


 ――だからどんなに酔いたくても、酔うことはありません。


 そう、ラフィーネさんは小さく呟いた。

 極めて理性的に自棄を起こしている己を、まるで嘲るように。


 ……私は黙って、グラスの片方に口を付けた。


「…………」


 妙な感覚だ。普段職務に就いているときとは違う。役割を果たすための歯車ではなく、ひとりの人間同士として、対等な距離感で向かい合っているというか。


 無論ラフィーネさんからすれば私は子供なのだろうけれど、家族や同級生たちと接するときとは違った雰囲気がここにはある。


 同じ時間ではなく、それぞれが自分の時間を過ごしていて。

 だけど座ったときの姿勢や足の組み方、目線や呼吸の感覚、ワイングラスを扱う手つき。

 普段は気にも留めない動作に、お互いの人生を垣間見ては、その人の姿がより鮮明になっていくような……そんな感じ。


 そうして少しの間、二人してグラスに口を付ける静寂があってから、ラフィーネさんは言った。


「妹が迷惑をかけました。申し訳ない」


 ハニーイエローの瞳と、視線が重なる。

 ジュリエッタ先輩と同じ、目の色と。


「……いえ。きっかけを作ったのはジュリエッタ先輩かもしれませんが、あの結果を選び取ったのは私です」


 ならば、料理を完璧な状態で届け切ることができなかった事実や、皆様にお気を遣わせてしまったこのやるせなさのすべては、私自身が受け止めるべきだ。


 と、そこでふと、ハイネの助言を思い出した。


 ――責任と責任感は違う。行き過ぎればそれは、傲慢になる。


 ……まさしくその通りだ。

 物事のすべてを自分のせいと断ずることは、見方を変えれば、自分にはそれだけの影響力があるというある種の驕り、傲慢と解釈できるだろう。


 ゆえに。


「ひとまず、先輩への怒りや糾弾の感情はありません……それが良いことなのかは分かりませんが……」


 どうも煮え切らない返答になってしまったけれど、それが今の私の本音だった。


「……マリモはなぜ、使用人になろうと?」


 再びノンアルコールワインを一口飲んでから、ラフィーネさんは話題を変えた。


 たった一節の質問。しかし私を沈黙させるのに充分な質問だ。


 実のところそれは、私の中でも明確に言葉になっているわけではない。

 だから……考える。私が使用人として、ここに居る理由を。


 表向きにはベルナデット様に粗相を働いた罰として、ということになっている。

 そして寮長や使用人の方々などの関係者には、例の一件を仕組んだ者やその余波から保護するためにと説明がされている。


 だが、それは確かに物事の一面でありながらも、私自身の答えとは言えない。


 奉仕の精神に触れることで他者を重んじること、誠実さの何たるかを学んでもらう――始まりとなった、ベルナデット様の言葉を思い出す。


 加えて、プランにこぼした、あの想い。

 それをとっかかりにして、言葉を手繰り寄せる。


 薄暗いダイニングルーム。向かい合う私とラフィーネさん。

 両者を仕切る壁も窓もないけれど、私は一度だけ入ったことのある教会の告解室を思い出しながら、懺悔でもするように口を開いた。


「……使用人。私はそれを、とても献身性の強い職業だと思いました。

 いえ、どの職業にも献身自体はありますが――主人に仕え、生活を支え、尊い祈りを体現する。そういったニュアンスでの献身は、私が漠然と思い描いていたモノが、そのまま目の前に現れたような感じがしたのです。

 なので、それを間近で見て、実際に体験することができたのなら、きっと多くのことを学べると考えました」


「あなたはそういった生き方を、敢えて大げさな言い方をするならば、無償の愛というようなモノを身に付けたいと考えているのですか?」


「……断言はできません。それはきっと、身に付けようとした瞬間に意味を失ってしまうものでしょうから。

 それでも言葉にするなら……愛を受け取れなかったはずの私の中に、それを見てくれた人がいるんです。だから、それに報いるためにも、諦めたくない――」


「何を?」


「分かり合うことを。遠い彼方に置き去りにして、もう形すらも思い出せない幸福を、いつかこの手に取り戻すことを――」


 なんて、随分と酔ったことを口にしてしまった。


 私は内心自嘲しながら、それを誤魔化すようにグラスに口付けて、ノンアルコールワインをごくりと飲み込んだ。


 ああ、ラフィーネさんの言う通りだ。

 これじゃあどんなに酔いたくても酔えやしない。

 そしてきっと、本物のお酒であっても同じだろう。


 だって私はもう、お酒以上に強いモノに、酩酊してしまっているから。


 醒めない悪夢。甘美な静謐。冷涼なる抱擁。見つめ合う深淵。

 空の空に墜ちようとする――死の引力。


 顔を上げる。窓の外。カーテンの向こう側で、煌々と輝いているだろう月を見上げるつもりで。


「私は目指す方角へと進むために、迷わずこの身を投じることのできる人でありたいと思っています。

 ですが、遠くそびえる山の頂上を目的地と決めても、実際に山を登るためのルートは無数に分岐する。私は、何が自分や周囲にとっての最善なのかを考えました」


 急がば回れ、急いては事を仕損じるといった言葉があるように、最短直線の近道が絶対だとは限らないから。

 正しいことが必ずしも正しいとは、限らないから。


「ですが現実は問答無用です。嵐のような風に背中を押され、流されて、そしてきっと、進み方を間違えてしまった。ベルナデット様やほかの多くの方々に迷惑をかけてしまいました」


「ゆえに、使用人の生き方を体験すれば、得られるモノがあると思った」


 最初の私の返答を反芻するように、ラフィーネさんは頷いた。


「その通りです。それは先ほどの言葉に反する、罪悪感で動くよりももっとひどい、利己的な動機ですが……。ラフィーネさんは、使用人をやめることは考えなかったのですか? 妹さんと同じ道を行くことは」


「マリモは、使用人名については既に知っていますね?」


「はい。このお屋敷で本名を名乗っている使用人は、私だけなのですよね?」


 ちょっとした笑い話のように言うと、ラフィーネさんも控えめに口角を上げてから、しかし小さく首を振った。


「いいえ。私の名も本名です。セルヴィール家の長子は使用人名を本名とし、生涯をロードナイト家に捧げる。それが我が家の掟であり、ラフィーネとはそのための名前なのです」


 一拍置いてから、言葉を続けるラフィーネさん。


「一方でジュリエッタはそうではなかった。あるいは私が男性であれば、お嬢様と同じ女性であるあの子が重用されることもあったでしょうが……いえ、それでもあの子なら、今と変わらず家を出たでしょうね」


 苦笑するように、心配するように、宝物を愛おしむように囁かれる声。

 それからラフィーネさんの唇が、再び濡れた。


「……マリモはそのような私を、セルヴィールの掟に囚われた奴隷のように思いますか?」


「思いません」


 迷いなく答える。


「それはどうして?」


「たとえ誰かに敷かれたレールだとしても、ラフィーネさん自身がその道を生きることを選び、そしてその役割に誇りを抱いているからです」


「……お見事」


 よく本質を見抜いています、と感心したように微笑むラフィーネさん。


 対する私は、そこまで理解していながら未だ煮え切らぬ未熟な自分を恥じるように、曖昧な表情をするしかない。


「お屋敷を出ることを、あの子と同じ道を歩むことを、全く考えなかったとは言いません。ですが私は、心の底から思ったのです。お嬢様にお仕えし、お支えしたい。それ以上の幸せはない、と。

 ゆえにラフィーネ・セルヴィールは、『ベルナデット様の使用人』で在り続けることを選択しました」


 ラフィーネさんには理想、流儀、建前……私に必要なすべてが揃っている。


 プランと同じように。いや、自らの選択を自覚しているという点では、彼女より強く輝いているとさえ思う。


 きっと、長い使用人生活の中で、経験として培ってきたのだろう。


 何かに選ばれるということは、何かに己の手綱を握られるということなのだと。


 何者かになるということは、その肩書きに縛られてしまうということなのだと。


 だからその手綱を握り返さねば。その肩書きに誇りが伴わなければ。

 それはただの隷属にしかならないのだと、ラフィーネさんは己が人生を以て証明してきたのだ。


「私には、それがとても気高い、見返りを求めていない無償の愛に見えます」


 思わず見上げてしまう星のような、手を伸ばしたくなる光のような。

 憧れを口にするみたいに、囁くみたいに声を紡ぐ。

 だけどラフィーネさんは。


「――それはどうでしょうか」


 と、疑問を呈した。一刀両断というほどの否定ではないが、少なくとも自分の考えは違うと訴える、確かな意思が宿ったその声音。


 ラフィーネさんはそっとグラスを置いた。

 中のワインに、波紋は立たない。


「私は、本当の意味では無償の愛など存在しないと考えています。いえ、利益の生じない愛といえばいいのでしょうか。確かに私はお嬢様からの見返りは求めていませんが、その実、得ているものはあります。仕える喜び、自尊心、お給金や地位といった報酬を」


「……そう、ですね」


「そしてたとえば、愛する人を救うためにすべてを失うという究極の自己犠牲を果たしたとしても、愛する人のためにすべてを失うという選択をできた、その事実は残るでしょう? それはお金のような、社会で役立つ物質的報酬ではありませんが、立派な報いといえるものだと私は思います」


「客観的に見れば、ええ」


 思考しながら、私は頷く。


「もしも当人が、相手が救われることよりも、自己犠牲そのものに価値を感じてしまったら、それは自己満足になってしまうという危うさがありますが……」


「ふっ、存外に冷静な指摘ですね。つまり私が言いたいのは、いかに見返りを求めていない献身だとしても、どうあれ得られるモノは生じてしまうということです。

 ならばその時点で献身は成り立たないのでしょうか?

 ならば報いを受け取らなければ成り立つものでしょうか?

 ならば報いを受け取ることを相手が望んでいたらどうなるのでしょうか?」


「それは……」


 受け取らないことが献身だというなら、やはり報いなど受け取るべきではないだろう。

 だが、受け取ることそのものが相手の望みを叶えることになるなら、それを断ることだって、自己満足となってしまう。


 何が本当の意味で相手のためになるのか。

 献身と自己満足を別つものは何なのだろうか。


 自らの利益を顧みないとは、失うことだけではなく、得てしまうことも同様なのだろうか。


 そんなもの、解釈次第でいかようにも変わってしまう。

 正解なんてあるはずない。


 ……なんだか頭が混乱してきた。言葉に振り回され過ぎている。


 いっそこのまま、答えを出せないまま沈黙することが最良なのではないかとも思ったが、それでも私は考える。

 一度頭の中を空白のキャンバスにして、考え続ける。


 ――林檎の例え話をしよう。


 一つの密室に一つの林檎、そして助けを待つ飢えた二人の子供が居たとする。


 先に林檎を見つけたAくんは、それをBくんにあげることにした。

 見事に利他的な行動だ。


 だがそれは、『林檎を渡さなければBくんを敵に回してしまうかもしれない』、『林檎を無理やり奪われたり、自暴自棄になって寝込みを襲われることがあるかもしれない』、『密室を脱出した際に、Bくんを見捨てて林檎を独り占めした人間失格として批難されるかもしれない』という――あくまでも、Aくんが自分の身を守るために取った利己的な行動だったとしよう。


 けれどどんな理由であれ、それを知る由もないBくんは、林檎をくれたAくんの行動を利他的と解釈するはずだ。

 行動だけを見れば、Aくんのそれは間違いなく献身なのだから。


 ならば次に、Bくんが渡された林檎をAくんに返そうとしたとする。


 理由は……そう、自分に優しくしてくれたAくんを生かしたいと思ったから。

 それは空腹のBくん自身よりもAくんという他者を優先する、利他的な行動だ。


 しかしそれは、Aくんから見れば酷く利己的な行為に映ってしまった。


 Aくんの選択を無下にしたBくん。

 たとえそれが相手を慮ったがゆえの決断だとしても、Aくん自身はそれを望んでいないのだから、それは親切の押し売り、善意の押し付けでしかない。


 つまりそれは、極めて利己的な行為になってしまうというわけだ。


 無論、そう感じたAくんの、Bくんに対する行いも同様だろう。


 だって相手を助けようとする、相手の望みを叶えようとすることを利他的行動とするなら、Aくんは返された林檎を受け取らなければならないし、そもそもBくんもAくんの気持ちを汲んで林檎を受け取らなければならないのだから。


 となると、これは……。


「突き詰めてしまえば、利己的な行動は利他的とも、利他的な行動は利己的とも解釈できてしまう……」


「その通りです。断固たる否定によって積み上げたモノが絶対的な肯定となるように、相反する概念は、時と場合や見方によって容易く逆転してしまう。結局のところ、人は矛盾し続けるしかない生き物なのでしょう。であるならば――」


 ――であるならば、二人は、一つの林檎をどうすればいいというのか。

 どちらかが受け取るべきなのか。どちらかが受け取らないべきなのか。


「――――――」


 ……今の私なら、分かる。

 それはきっと、とても難しいからこそ、とても簡単なこと。


 きちんと話し合って、理解し合って、半分ずつ分け合えばいいのだ。


 受け取ることと受け取らないことを両立すればいいのだ。


「何か掴んだようですね。

 ――であるならば、利己と利他の性質を同時に兼ね備えてしまうこと。それがきっと一番正しい、とは言いませんが、一番納得できましょう?」


 頷く。

 彼女が私に再誕の道を用意したように。

 ルカがクロヴィスに生き方を問いただしたように。


 そして、いつかのレイヴン先生の言葉――――。


『人が人を動かす――変化を与えるということは、自身の感情が他者を乗っ取るということではない。相手の立場になって考え、信じ、訴え、善も悪も超えた相互理解を果たしたときこそ、それは初めて成されるモノなのだ』


 きっと、この世には、尊い無償の愛が存在するはずだ。

 きっと、この世には、尊い自己満足が存在するはずだ。


 魂が輝く瞬間を、神聖性とさえ呼べるそれを、人は宿すことができると、私は信じている。


 だけど多くの人が持ち得るのは、破綻した無償の愛と、歪曲した自己満足だ。

 ならばその二つは、本物に対する偽物で、価値はないのか?

 間違っているのか? 意味はないのだろうか?


 否……その二つもまた、相互理解という調和を果たすことで、尊いモノへと至ることができるのだ。


 分かり合った先で辿り着けるモノ。

 それこそが、お互いにとって過不足のない――幸いというモノなのだ。


「……人は論理だけでは生きてはいけませんから。私はそれこそが最もしなやかな生き方であると思います」


「論理だけでは、生きていけない……」


「でなければ、私やお嬢様のような非転生者がヘリオスレッタに生まれることはなかったでしょう。

 教会はこの世界を天国と地獄の狭間――罪を注ぐ煉獄だと解釈しているそうですが、そのような世界で愛を育み子孫を残すだなんて、到底論理で行えることではありませんよ」


 非転生者であるラフィーネさんは、冗談を語るように笑う。

 いつもと変わらない控えめな表情だったが、しかしそれは皮肉でも嘲笑でもなく、心の底から愉快に思って、この世界に芽吹いた生命を祝福している笑みなのだと、そう感じた。


「話が逸れましたね。……あなたは利己的な思いから使用人になることを望んだのかもしれません。ですがそれが実現したのは、あなたの中に利他の精神があったからです。本気でベルナデット様に仕え、本気で仕事を覚え、本気で失敗を落ち込んでいる――失敗とは、間違いとは、あなたが()()ということをした証明でしょう。

 本当に何も選ばない人間にそれは訪れません。ですから、現在いまを精一杯生きているマリモジュナを、ラフィーネ・セルヴィールは納得して理解します」


 ……ああ。この、次に瞬きをしたときには消えてしまいそうな、微かな感覚は。

 脆くて儚い――雪のような、桜のような、永遠を内包した一瞬は。


「私に見ている輝きを、あなたは既に宿している。あとはどう納得するか。集めたピースをどう組み立てるかです。大丈夫。マリモならできますよ」


 私は目蓋を閉じて、そっと右手の指先に触れた。

 いつかの温もりを思い出すように。

 今の言葉を、この感覚を、宝物のようにそっと心中に秘めるために。


 ラフィーネさんが、私より多くの時間を費やして獲得した、答え。

 今すぐ同じ場所に立てるとは思わない。けど、やれることはある。

 それはもがくこと。

 墜ちないように、遠くまで行けるように、手を伸ばし続けることだ。


 祈りと美学、そして指先に触れた『言葉』を胸に、私は目蓋を開けて言う。


「ありがとうございます――ラフィーネさん」


「いえ。私の言葉があなたの助けになり、あなたがお嬢様の助けになれば、それは巡って私の幸いにもなる。そういうことですよ」


「――私がどうかしたか?」


 突如として響いたベルナデット様の声。

 私とラフィーネさんは反射的に席を立った。

 一瞬、珍しく不意を突かれたように目を見張ったラフィーネさんに、今日は初めて見る表情ばかりだ……なんて思いながら、声が聞こえた方向に意識を向ける。


「ふふ、密談を妨げて申し訳ないが、ドレスの染み抜きを頼もうと思ってな」


 ダイニングルームの扉の前。そこには先ほどまで身に纏っていたドレスを抱えた、私服姿のベルナデット様が佇んでいた。

 すぐにいつもの冷静を取り戻して、あるいは上手く取り繕って、ラフィーネさんは答える。


「かしこまりました。すぐに取り掛かります」


「そう急がなくていい。ジスティが嘆いていたぞ。二人が揃わないから夕食が始まらないとさ。今日はいつにも増して疲れているだろう。存分に労ってやってくれ。……ではな」


 ドレスをラフィーネさんに引き渡し、去り行くベルナデット様。

 その背中にお辞儀をしながら、思う。


 ――ノブレス・オブリージュ。

 無私の体現とさえ言われる気高さを宿す、宝石令嬢(レディ・ジュエル)


 あの方はその矜持をどう解釈して、納得しているのだろうか。

 博愛、とは少しが違う気がするそれを……。


 そもそもそれは、解釈の余地がないほど強固で、もはや利己や利他といった概念の外側にあるのだろうか。


 そんなことを考えながら、私はラフィーネさんと共に階下へ戻るのだった。


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