第38話『ディナー後、ジュリエッタの目配せ』
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応接間での談笑の場もお開きとなった、午後九時半近く。
再び大広間と階段を往復してルキア寮長をお部屋に送り届けた私は、階下に戻り、大部屋で休憩していたジスティさん、トワルさんと話をした。
大浴場の準備やお客様の衣類の洗濯、靴の掃除など、当然ながらハウスメイドはハウスメイドで忙しない時間を送っており、それが今ようやく落ち着いてきたらしい。
そんな報告会を開きながら、昼間の残りだというパンをかじる二人。
言うまでもなく、ライナさんが摘まんでいいよと教えてくれたパンだ。
結局食べなかったな、と特に名残り惜しい気持ちもなくそう思う。
むしろ空腹でお腹が鳴ることを気にしていたことさえ、遠い昔のように感じる。
もうすぐ、遅れに遅れた階下の夕食が始まる。
けれど、どうにも食欲が湧かなかった私は、階下に満ちるスープの匂いから遠ざかるように、ダイニングルームへと向かった。
断じてサボりではない。
聞けば、まだ晩餐会で使われた食器が片付けられていないとのことだったので、それを運んでおこうと思ったのだ。
再び階段を使い、配膳室を通り、ダイニングルームに足を踏み入れる。
すると、先ほどより明かりの落ちた室内に、二つの影を目撃した。
「……?」
一人はラフィーネさんだ。私に背を向ける形で立っている。
そして、それに相対する形で佇むもう一人は……ジュリエッタ先輩。
「――――、」
先輩と、目が合う。
私はすぐにお辞儀をして、その場を立ち去ろうと踵を返した。
どうもお話し中のようだし、姉妹水入らずの時間を邪魔するわけにはいくまい。
そういうわけで、そそくさと壁際まで移動すると。
「……っ、……⁉」
――身体が、動かなくなった。
否――正確には、それ以上ダイニングルームから遠ざかることができなくなったというべきか。
まるでリードを握られた犬のように、飼い主のもとに戻ることは可能でも、一定以上の距離を離れることは許されていない。
それでも無理に離れようとすれば、結果は明白だ。
だってその光景は、つい先ほど実際に起きたばかりなのだから。
「………………」
また、どうしてこんなことに……と天を仰ぎながら立ち尽くし、私は仕方なくその場で二人の会話を聞くことにした。
というか耳を塞ごうとしたら、今度は腕まで動かなくなった。
「――なぜあのようなことを? お嬢様のお心を煩わせ、マリモに恥をかかせ、料理まで台無しに。料理人にとって料理とは毎日行われ、それでいて不合格を許されないテスト。それほど大切なものだと教わったではありませんか」
「昔ね。でも性に合わなかったから、私はそのレールから外れた」
くすり、とジュリエッタ先輩の控えめな笑い声が聞こえる。
「そんなに怖い顔しないでよ。あとでちゃんと埋め合わせはするって。……それとも、姉さんも私の謝罪を聞きたいの?」
「結構です」
「だよね。――なぜあんなことを、って言ったっけ。それはどうしても確かめたかったからだよ。姉さんがあのマリモって子に、私への未練を押し付けているのかどうか」
「未練? 何をどうして、そのような誤解が生まれたのですか」
「私だって、普段は厳格なスチュワード様が新人に優しく手解きをしていると聞いたときは、まあ珍しいけどそんなこともあるかなって思った。
だけど実際に二人で給仕しているところを観察して、あの子の制服に昔私が辞書を見て刺繍したイニシャルがあったのを確認して、そしてあの子を励ます姉さんの態度を分析して――疑惑を抱き確信したんだ」
イニシャルの、刺繍。
ああ、何となくそうだろうとは思っていた。
ラフィーネさんに用意していただいた制服、そのポケットの縁に刺繍されたJの文字は、ジュリエッタのJであると。
「……勘違いはそこまでにしてください。新人をフォローするのは当然ですし、あなたが昔使っていた物を流用したのは、彼女の制服を一晩で用意する必要があったに過ぎません」
……ご迷惑をおかけしてすみません、ラフィーネさん……。
「いや、まずなんで制服をずっと取っておいたのかって突っ込みたいんだけど」
「良い生地を使っています。処分するのを惜しみ、いつか雑巾にでもするつもりでしたが、後回しにしているうちに忘れていた。それだけです」
「……ふぅん。とてもそうとは思えないけどな。六年ぐらい前の物だし、あれ。わざわざあっちのお屋敷から持ってきたってことでしょ」
……一応、さっきから薄々勘付いていたけれど。
この制服って、推定十二歳ぐらいのジュリエッタ先輩が着ていたもので……さらにそこから裾合わせしたもので。
なんというか……複雑な気持ちになるコストパフォーマンスの良さね、私……。
「もし、あなたが再び使用人として戻ってくることを期待して保管していた、と言いたいのでしたら、こうも考えられるでしょう。それだけ大切にしていたら他人の制服に流用することはない、と」
「捨てたいけど捨てられずにいた。そこに丁度いい名目が転がり込んできた、とも言えるよね? ましてやそれが、昔の私を投影するのにぴったりな子だったら?
……はあ。そんなに私たちの道が分かたれたことに未練があるなら、今からでも私のところに来てもいいんだよ?」
「…………」
問答の果てに、ラフィーネさんは黙した。
ジュリエッタ先輩はその静寂を、自分の誘いに心が揺らいでいると解釈したのか、畳みかけるように言葉を続ける。
「姉さんが望むことを、望むままに貫き通せばいい。踏み出すのが怖いというなら、私が手を引いてあげる。時代だって後押ししてくれるよ。今どき家のしきたりに、奴隷のように従う必要なんてない、ってね」
――が。奴隷のように。ジュリエッタ先輩がそう口にした瞬間。
私はすべてを理解した。ラフィーネさんの沈黙の意味を。
そしてひとりの使用人が、ひとりの姉が、愛する妹へと、道を違えた家族へとこれから告げる、その問いの指し示すところを。
「もしも、私がもう一度、二人で使用人として働こうと言ったら――あなたはそれに応えるでしょうか?」
「何度言われても変わらない。私の歩む道は、使用人じゃない」
予定調和のように、ジュリエッタ先輩は答えた。
ならばラフィーネさんの内心に渦巻いている言葉もまた、わざわざ口にするまでもなく最初から決まりきっていた、予定調和だったのだろう。
「同じように、私の答えも変わりません」
「……そう。分かった。あくまでシラを切るなら、せいぜい露呈しないようにね」
一瞬だけ悔しそうな声を滲ませたジュリエッタ先輩は、しかし何事もなかったようにラフィーネさんに背を向けて、ダイニングルームを出ていく。
聞いちゃったね――と。
悪戯げな、それでいて切なげな、私への目配せを忘れずに。




