第36話『ディナー後、セレナの励まし』
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それからのことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
怪我はないか――そう真っ先にお声をかけてくださったベルナデット様と、立ち上がるのに迅速に手を貸してくださったラフィーネさん。
そのお二方を始めとした全員のお気遣いによって、速やかに収拾される事態。
最後のお皿は盛り付けを直してベルナデット様が頂くことになり、先に配膳されていたものはハイネへ。
かくして――トラブルに見舞われたディナーは粛々と再開された。
ああそれと、ラフィーネさんが最後までやり切りなさいと、乱れた私の前髪を整えてくれたことも、忘れてはいけない。
あの優しく射し込んだ木漏れ日のような温かさは、確かにこの胸に刻まれているのだから。
けれどそれは同時に、その温もりの享受の是非を問う、冷たい罪悪感が私を抱擁することを意味していて……。
あとはもう、アンビバレント。
寄せては返す波のように。明滅を繰り返す光のように。
治まってはまた始まる動悸。確かに踏み締めたはずの一歩で、カーペットの床から滑落する幻覚を引き起こし。一秒は十分に、十分は一秒に感じられる……ひどく胡乱な時間が続いた。
そんな板挟みに眩み喘ぐ精神状態のまま、どこにも行けないような感覚の中――それでもどうにか私は、最後を飾るデザートまでの配膳をやり抜いた。
ディナーが終わりを迎える。
舞台はダイニングルームから応接間へと移ろう。
晩餐後は大抵このように場所を変えて、社交の名のもとに、紳士淑女はアルコールを片手に歓談したり、遊戯室で葉巻の煙を燻らせながらカードやビリヤードを嗜んだりするそうだ。
この美しい時間に少しでも長く耽るため、まるで夜を棚引かせるように。
とはいえプティエールの主人とその賓客は、全員が学生だ。
ゆえにこの舞台変更は、ただ雑談場所を移しただけだったけれど。
幸い、移動の際に大広間に満ちていた夜気に当たることができて、頭を冷やすことができた。
おかげで多少なりとも調子を取り戻した私は、ひとまずは静かになった頭で、応接間での給仕をすることができた。
そしてニ十分ほど雑談が繰り広げられた後――、
「――それでは、先輩方」
セレナ先輩がグラスをサイドテーブルのトレーに置いて、席を立った。
「お先に失礼させていただきます」
「ああ、付き合ってくれてありがとう。おかげで話が弾んだよ。今夜は寛いでいってくれ」
「お言葉に甘えさせていただきます」
礼儀としての形式的なやり取りと一礼を済ませて、部屋の外へ足を向けるセレナ先輩。
私はラフィーネさんに目線で合図し、先行して扉の前で待機する。
そして先輩にそっと声をかけた。
「お部屋にご案内いたします」
「助かるわ」
早過ぎず遅過ぎず、そんな歩幅を意識しながら先輩を二階の客間へと先導する。
「客室にはシャワールームがございますが、大浴場の準備も整っております。そちらをご利用になる際は、私共にお申しつけください」
「ええ、分かったわ」
……階段を上がる。
聞こえるのは二人分の足音と、先輩のドレスの衣擦れの音。
けれど不思議なことに、踊り場まで上がると音は一人分の……私の足音のみになった。
「ねえ……マリモちゃん」
「はい、ホーソン様」
呼び止めるような声に、その場で振り返る。
見れば、先輩は軽くリラックスした様子で、微かな月明かりが射し込む壁際に背を預けていた。
そして先輩は私の顔を、瞳を覗き込むように身を屈めて、言うのだ。
「今は二人だけだから、いつものあなたで聞いてもらえる?」
「はい……分かりました」
「実は、例の約束の件のことなんだけれど」
「……ケーキのことですね」
襟を正して、言葉を続ける。
「申し訳ありません。その件については、もうしばらくお待ちいただけると……できれば、今回の騒動が落ち着くまでは」
いつでも大丈夫という言葉を頂いていたとはいえ、この件はお茶会での騒動以降、有耶無耶になっていた節がある。……少なくとも私の中では。
心苦しいことに、今の私に一日の数時間を割いてケーキを買いに行く余裕は、存在していない。
だから約束を果たせるのは、おそらく騒動が収束した後になるだろうと、経過報告も兼ねてどこかで相談したかったのだが。
加害者という意味で渦中にある私とは反対に、先輩は被害者という意味で渦中の人物だ。
私が学院で気軽に接触していいか、怪しい状態にある。
ゆえに今回の来訪を乗っかる形で、機を見て相談できればと考えていた。
そして今、その機会を与えてくれたことも含めて、私は先輩に頭を下げた……の、だが。
「――うーん。もう忘れちゃっていいよ、って言おうとしたんだけど……」
「はい……?」
苦笑するような声が、降ってきた。
約束を、忘れちゃっていい――予想もしていなかった言葉に、私は思わず顔を上げてしまう。
すると先輩はやはり、微笑するように小さく口角を上げながらも、困ったように眉を潜めていて。
思案するように、目蓋が閉じられる。
……一秒、二秒。
ほどなくして先輩は、方針は決まったと頷いて、ぱっと目を見開いた。
「うん。あなたがそう決めているなら、待つことにするわ」
「……あ、ありがとうございます……?」
「でもね。わたし、そこまで約束の極道ってわけじゃないからね? 親しき仲にも礼儀あり、なんて言うけれど、それに囚われすぎるのもきっと不健全だわ。
だから今を精一杯頑張ってるマリモちゃんにとって、あの約束が重荷――は大げさだけど、こう、買った本をいつまでも読めていないような、ちょっとした後ろめたさを覚えさせているなら、全然無かったことにしていいから。今日はそれを伝えるために来たの」
「…………」
……目を伏せる。
約束の不履行の対比として出された積読の罪悪感。
それが適切な例なのかは、それはそれで議論の余地があるとは思うけれど……とにかく先輩の言いたいことや込められた想いは理解できる。
きちんと伝わっている。伝わった上で、目を伏せる。
私にとって、『それ』は、とても難しいことだから。
だけど、多少なりとも私が反応を見せたからだろう。
先輩は言葉を続けて紡いだ。
「マリモちゃんは今、生きている。それはあなたにとって、激しい戦いの中に身を置いているのを意味している。同じ転生者として、そう感じるの。
だからきっと、難しいことでしょうけど……いつかあなたが、あなたの忌避する軽薄さを身に付けられることを願っているわ。生きていくって時には愚かさが尊重されることもあるのよ」
それは、いつか花咲くことを願って種を植えるような――そんな祈りを宿した言葉だった。
……おかしな話だ。軽薄な人生を送ってきた私が、ゆえに荊の道を往くことを己に課した私が、今度はそれを願われるだなんて。
昨夜プランからも似たような指摘をされたけど、変化を望むあまりにそれまでとは真逆の道を進み続ける生き方も、極端で、ある種の思考停止なのだろう。
しかしそれでも、過去の自分を、その断片でも取り戻したいとは、思わない。
あの愚かさがなければ、きっと幼い私は生きていくことができなかったけれど。
あの愚かさがあったからこそ、最後の最後で私は、差し出された手を掴み返すことができなかったのだ。
なら正確には、取り戻したくても取り戻せないと言ったほうがいいのか。
だってあのとき、毬萌樹那は、文字通りに――死んでしまったのだから。
瞬間、いつかのルカの言葉が、脳内でリフレインした。
『クロちゃんが本当にそれでいいって決めちゃってるなら、もう何も言わない。でもね、もしまだ、そうじゃないなら――』
――ああ、そう、よね。
それでもクロヴィスはあの日、選んだのよね。
自らの生き方を問いただされて、前に進むために必要だと思ったモノを、また一から探し直すことを。
「――――」
そうだ。私は探すべきだ。探している最中だ。
たとえ取り戻せない過去だったとしても、それを肯定できずとも、せめて許容できる言葉というものを。
先輩と分かり合うための言葉。祈りと美学を、理想と流儀を結びつける建前を。
「…………」
でも、それはもどかしいことに。
まだもう少しだけピースが欠けていて。
……この場では組み立てられそうもなかった。




