第30話『使用人流儀――ライナとクーペ』
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夜。ベルナデット様の夕食の給仕を終えた午後七時五十分。
私は階下のほうの夕食に備え、大部屋の長テーブルに食器を配置していた。
神経を研ぎ澄ませ、背筋を正し、軽く息を止め、細長い定規を使ってグラス、お皿、カトラリーを寸分の狂いなく正確に卓上へと並べていく。
食器でありながら机全体を輝かせる装飾品のように、映画のセットを作るように、瀟洒に、精緻に……そうしてカトラリーを並べ終えたら、最後に椅子だ。
再び定規を使い、机との距離を測りながら動かして、位置を調節して……と。
「――よし、できた。……はぁ……」
全八人分のセットが完了し、張り詰めていた感覚を緩めるように息を吐く。
それからまとめていた髪を下ろすと、未だ少し慣れないこのお屋敷のシャンプーの匂いに混じって、食欲を掻き立てる香りが鼻先をくすぐった。
厨房のほうもそろそろ佳境のようね。
今日の夕食ではガルビュールという、キャベツ、豆、ベーコンをメインに煮込んだ田舎風の野菜スープが出るらしい。楽しみだ。
ほかの方々は別の仕事があるのかまだ誰も揃っていないけれど、もうじきに来るだろうし、一足先に座って待ってようかな――と、整えたばかりの椅子……はなんだか勿体ないので、部屋の隅に置かれている安楽椅子に座ろうとした。
その間隙を縫うように、軽快な足音が聞こえた。
音の響き方から推測される足のサイズと歩幅するに、ライナさんが来たらしい。
「――おや。随分と綺麗にセッティングされてるね。君がやってくれたの?」
「ええ、やってやりました」
華やかな卓上を見回しながら私を見つけたライナさんに問われて、ついつい口元を綻ばせながら答える。
大体四十分ぐらいかけてじっくりと整えたのだ。
綺麗と評されて、芽生えたばかりの私の職人魂が達成感を覚えないはずがない。
「夕食の給仕の前にラフィーネさんに教えてもらったんです。それで、練習も兼ねてここでもやってみるようにと」
「可愛がられてるね」
「そうですか?」
ラフィーネさんからは『時間をかけることは誰にでもできます』と手厳しいことを言われそうだが……まあ厳しさも優しさというし、傍から見るとそうなのかもしれない。
「――うん。足りてない物もないしグラスも汚れてない。よくできてる」
ふと、テーブルを覗き込むようにしていたライナさんが顔を上げた。
どうやら単純な見栄えだけでなく、細かな部分も採点してくれていたみたいだ。
「ありがとうございます。……でもライナさん、そういうの分かるんですね」
庭師という役職上、それに少しだらしないところがあるという性格上、こういう給仕方面の仕事はノータッチだと思っていたから結構意外だ。
するとライナさんは、腰に手を当てて、いかにも不満そうな表情を作った。
「あのねぇ、これでもオレ、お客様が多いときはセッティングも給仕もするんだよ? ほどほどに背高いし、顔も声もイケてるし、結構評判良いんだから」
「それを自分から主張することで、むしろ評判を落としてません?」
「むっ……なーんか君もすっかり、あの井戸端姉妹の末っ子だよね」
年上なのに、姉に強く出られない弟のような幼い表情で嘆くライナさん。
それが素なのか、あるいは私に気を遣わせないように敢えてそう振舞っているのかは曖昧なところだけれど、その気安い雰囲気に釣られて自然と、私も砕けた反応をしてしまうのよね。
「ま、分からないことあったら遠慮せず聞いてよ。必要な人にしかお出ししないスプーンとか、フィンガーボールと一緒にお出しするものとかもあるからさ」
「おぉ、頼りになりますね……!」
「結構結構、そういう反応が欲しかった。新人のうちに新人らしさをやっとかないと損だよ。オレなんて最初から中途半端に色々できちゃったから、教育もほどほどに何でも押し付けられちゃってさー」
酷い話だよねぇ、と壁に背を預けて腕を組み、私の目……ではなく、額か頭頂部のあたりに視線を向けてしみじみと語るライナさん。
何を見ているのだろう、この人は。
というか当たり前だけれど、ライナさんにも新人時代ってあったのよね。
……なんだか想像できないな。
ラフィーネさんも若手であの貫禄だというのに、さらに若いライナさんにも、かなりのベテランさを感じる。
まあ、威厳や品格となると、また別の話にはなるけど。
「あの、ライナさんはいつから、どんな理由で使用人の道を歩み始めたんですか?」
「藪から棒になんだい?」
「今朝ジスティさんたちとそんな話になって。何となく気になったんです」
無論、不躾な質問であることは承知している。
断られるようなら素直に引き下がる。
それを念頭に置いて尋ねてみると、
「ふーん。まあ隠すほどのことでもないけど、大した話でもないよ?」
ライナさんはあっさりと承諾して、さらりと経歴を話してくれた。
「二、三年ぐらい前、オレの居た孤児院がお金に困って潰れそうになったんだけど、ベルナデット様が支援して助けてくれたんだ。その恩返しをしたいなって思ったから、オレはあの方の使用人になることを決めた。まあ単純に、当時十八だったオレが、いつまでもあそこに居続けるわけにもいかなかったってのもあるけどね」
さらりとしすぎてどう反応していいか分からないぐらいだ。
「なるほど……人に歴史ありですね」
「あははっ、それ反応として合ってる?」
「すみません。なんと言えばいいのか、言葉が浮かばなくて……」
「ま、孤児院とか言われてもね。オレだって、君にいきなり前世の死因とか語られても困るし」
「それは確かに」
苦笑いするライナさんに、私も同じく苦笑を返した。
「まあでも――いいところなんだよ、あそこは。人の心の温かさっていうか、優しさに満ちている場所でさ。だから本当に、あの方には感謝しているんだ」
人の心の温かさ、優しさに満ちている場所。
きっと、かつての思い出を想起しながら語っているのだろう、ライナさんの穏やかな眼差しに……デジャヴを感じる。
……なんだろう。
知っている。同じモノを私は既に一度見ている。
それは……そうだ、あの日。あの、お茶会の日だ。
「……もしかしてその孤児院、ミリエルというお名前ではありませんか?」
「え? そうだけど……驚いたな。どうして知ってるの」
「ベルナデット様が以前に、ミリエルという優しい雰囲気の場所と縁があると言っていたんです。だから何となく、そうなのかなと」
「へえ。君の直感、中々鋭いね。それとも共感力が高いのかな」
「……すみません。無遠慮が過ぎました」
「いやぁいいよ。言ったでしょ、隠すほどのことでもないって。……でも、そっか。まだそう思ってくれてたんだ」
「…………」
聞こえてしまった意味深な言葉。
それに多少の引っかかりを覚えざるを得ない私だったが、ずけずけと踏み込んだことを恥じたばかりなのだ。
その舌の根も乾かぬうちに、わざわざ尋ねることなんてしたくなくて。
けれどかといって、ほかの話題も思い浮かばなくて……。
酷く宙ぶらりんで、手持ち無沙汰な時間が流れようとした、束の間。
「――嬢ちゃん、セッティングできたか? プランがそろそろ来ちまうぜ」
シェフのクーペさんが大部屋に入ってきた。
「あ、はい。クーペさん。できてます」
「……みたいだな。んじゃ、あとはのんびりさせてもらいますかね……」
言いながら安楽椅子に座ろうとしたクーペさんは、そこでふとライナさんの姿を見つけて、ほんの僅かに眉をひそめた。
「なんだ居たのか。真面目にやってるやつにあんまちょっかいかけんなよ」
「やだなー。人聞き悪いこと言わないでくださいよぅ、クーペの旦那ぁ」
「俺からすりゃ、そういうノリがもう調子を崩されるんだが……」
「分かります」
「だよな」
「え、思わぬ追撃」
おそらく一種のコミュニケーションスキルとはいえ、ある程度の軽薄さを醸し出しているライナさんとは反対に、クーペさんは料理人なだけあって職人気質というか、ぶっきらぼうながら繊細かつ真面目という印象がある。
だから特別仲が悪いわけではなくとも、お二方には陰と陽のような性格の噛み合わなさがあるのだろうし、私も今はどちらかと言えばローテンション側の人だから、心情的が分かるという意味ではクーペさんのほうに軍配が上がる。
「でも、意外とタメになるお話をしてもらっていたんですよ」
「へえ? そりゃ確かに意外だ」
「ニヒルな笑みだなぁ……。そうだ、クーペさんも語ってあげたらどうです? どうしてここの使用人になったのかって話なんですけど」
「何の話かと思えば人生相談かよ? 生憎、語れるような大層な人生は歩んじゃいねえぞ」
「無理にとは言いませんが、もしよろしければ、私はお聞きしたいです」
「…………はぁ。……まー勿体付けるような話でもねえからな」
「さ、こちらにどうぞどうぞ」
クーペさんは軽くため息を吐き、促されるまま安楽椅子に座り込んだ。
声色から何となく断られそうだなと思ったが、どうやら話してくれるらしい。
一見、人を寄せ付けない雰囲気を纏っているが、そういう面倒見の良さを兼ね備えているからこそ、ライナさんはクーペさんにダル絡み――いえ、懐いているのだろうな。
悪態をついても最後はなんだかんだ折れてくれる、優しい兄貴分みたいなね。
「つっても、俺には使用人っていう感覚はねえんだよな。俺はただの料理人で、働き口を探してたら雇ってくれる人がいた。それだけのビジネスライクな関係さ」
ライナさんと同様に、なぜ使用人になったのかの部分を簡潔に話してくれるクーペさん。
「なら、今より待遇の良い職場があったら、転職することもあるのでしょうか?」
せっかく付き合ってもらったのだし、どうしてベルナデット様のもとで働いているのか、という方向に話を広げてみる。
するとクーペさんは顎を触りながら沈黙し、思案し。
そして自らを再確認するように、言葉にしてくれた。
「どうかね。確かにベルナデット様にゃもうちょい客を呼んだり、凝った料理を作らせてほしいと思うことはあるが――あの人は弁えてる。キッチンが料理人の領域だと理解してんだ」
「前に一人でパスタ作ろうとしてドーム状の物体生み出してるからね」
「え」
「言ってやんな。むしろあの失敗で全権を移譲してくれたのが潔くて立派なのさ。ほかは中々そうもいかねえぞ? 料理人にとってのキッチンってのは、なんだろうな。自分の美学を表現するモノ。画家にとってのキャンバスみたいなモンか?
だからお抱えとして生活を保障して、好きに作らせてくれるここは、居心地の良い場所だよ。助手にも恵まれたし。しばらくは……このままでいいな」
現状維持がいいなんていうと情けねえが、と自嘲するように笑うクーペさん。
だが――私がそれに乗っかることはなかった。
幼い頃に母を亡くし、どうしようもなく『それ以前』に戻れなくなった経験がある身としては、今がずっと続けばいいと願う気持ちが分からないとは、断じて言えなかったから。
同じく黙っていたライナさんも、きっとそうだ。
変化を避けられないこの人の世で、それでもミリエルという、変わってほしくなかった居場所を持つがゆえに、変わらない安心にも価値があるのだと理解しているから。
だから彼もまた、表情を変えず、何も言わなかった。
「それで、嬢ちゃんはどうするんだい?」
「はい?」
「なんだよ、このままここで働きたくなったみたいな話じゃねえの?」
「あ、ああ、いえ……そういうわけでは……」
「寂しいこと言うねぇ。オレたちのこと嫌い?」
「まさか。皆さん本当に良い方々です。もしこのままお屋敷で働くお許しをいただけるのでしたら、そうしたい気持ちはありますけど……」
目指すべき方向はともかく、現実的な生き方を掴み切れずにいる今の私に、明確な答えは出せそうもなかった。
まだ。……そう、今は、まだ。




