第14話『墜ちないために必要なものは』
☆
放課後になった。
空は昼間の快晴から一転。今にも雨が降り出しそうな曇天になっていた。
暗くなる空に反して、照明の付いた教室はまだ明るい。
肌に張り付く重苦しい空気。湿気を含んだ机の匂い。
遠くから聞こえる、生徒たちの喧騒――。
まるでここだけが水の底に沈んだような。
アクアリウムとして展示されているかのような。
そんな、非日常の雰囲気が漂っている。
時計を見る。
本当ならこの時間は、寮長から寮の案内を受けているはずだった。
「伝言は無事届いたかしら……クロヴィス」
誰もいない教室でぽつりと、心配事を呟く。
何も彼を疑っているわけではない。
ベルナデット先輩の件があり、思うように身動きが取れずにいた私を見かねて、代わりに断りを入れると申し出てくれたのだ。
感謝こそすれ、疑う余地などあるはずがない。
ゆえに私が心配しているのは、彼にまでこの悪意の波が及ばないかということで……。
「…………はぁ」
ちりちりと胸が焼けているような落ち着かない気分のまま、用もなく階段を上り下りする。
それから黒板横のミニ掲示板に貼られた用紙でも見ようかと立ち止まった。
そのときだ。
「君がマリモちゃん?」
「ひッ――」
突如背後から聞こえた男性の声。
私はびくっと肩を震わせながら振り向いた。
「ど、どちら様ですか?」
見れば、一体いつからだろう。
教室の入り口に寄りかかるようにして、私服姿の男性が立っていた。
百七十後半はある高い背丈と、明るさと落ち着いた雰囲気を兼ね備えたジンジャー色の髪が特徴的な人だ。
「ごめん、びっくりさせる気はなかったんだ。猫みたいな驚き方でちょっと面白かったけど」
「……二度と披露する機会が訪れないことを祈ります」
「祈るって何に?」
男性は笑顔を崩さないまま小首を傾げた。
「それは――あなたに……?」
「ははっ、オレは君の神様じゃないよ。オレはライナ。ベルナデット様のサーヴァントだ」
「サーヴァント? 魔術用語の、でしょうか?」
契約を結んだ使い魔をそう呼ぶのだと、教科書に書いてあった気がする。
「違う違う。使い魔じゃなくてもっと言葉通りに捉えて」
軽く両手を挙げておどけてみせるライナさん。
「――ベルナデット様の使用人ってことさ。雇用主であるあのお方の命を受けて、君を迎えに大学からすっ飛んできたんだよ。あぁそうそう、合言葉はアネモネ、でしょ?」
「え、ええ。なるほど……そういうことでしたか」
「本業は別だけど、こういうのも仕事のうちなんだ。さ、荷物を持ってきて」
「はい、すぐに」
爽やかに言うライナさんに背を向けて、私は自分の席に戻る。
それにしても……先輩に使いを出すと言われて、正直誰が来るのだろうと思っていたけど、使用人の方が来てくれるとは。
妙な納得感があるのと同時に、やっぱり驚きだ。
ルカはあまり好きな言葉ではないと言っていたし、私も口にすることはないけれど……お手伝いさんでさえ馴染みのない家庭で育った身からすれば、『実質貴族』と称されるベルナデット先輩はやはり別格の世界を生きているのだと、改めて実感する。
というか冷静に考えて、使用人って何だろう。
執事みたいなものと受け取ってるけれど、実際のところ執事では、ないわよね。
大学生が学業の傍らにできる仕事ではない気がするし、こう言っては何だけど、肩書きに見合った雰囲気は持ち合わせていないようだし。
それとも案外、家庭教師のアルバイトみたいな感じで募集されているのかな?
などと考えつつ鞄を取り、教壇に戻ると。
「――じゃあ行こうか。雨も降りそうだし、急ごう」
なぜか教室の入り口とは反対の、窓側のほうから声が掛かる。
「…………」
そちらに視線を向ける。
急ごうというわりには一秒、二秒……ライナさんはその場を動こうとしない。
揺れるカーテン。肌を撫でる風。先ほどからぐいぐい湿度を増していく教室。
嫌な予感がした私は、意を決して尋ねてみることにした。
「……あの、なぜ窓を開けて?」
「こっちのほうが早いし、尾行もされない」
「尾行?」
「……ま、念には念を入れて、だね。やっといて損はないっていうか」
「念には念を入れて……そこから飛び降りる……?」
「そうだよ。二階から飛び降りて、ちょっと森の中を走って、それからどこかの三階とか四階にも上っちゃうかも」
「……め、眩暈がしてきた……あの、ひとまず外で合流するわけにはいきませんか? 飛び降りにはいい思い出がおぁぁああ……ちょっ、あの……ちょっと⁉」
窓辺を捉えていた視界がぐるりと回り、気付けば教室の天井を映していた。
というのも、変わらず笑顔のまま近づいてきたライナさんに身体をひょいと持ち上げられ、そのまま横抱き――つまり、お姫様抱っこをされたのだ。
「うわ君、見た目に違わずちゃんと軽いね。悪いけど、今回は時間優先。しっかり掴まってて。ああ、その長い髪はまとめて前で持ってたほうがいい。どこかに引っかかったら危ないよ」
「て、手慣れているんですね……?」
「慣れるぐらいやったんだ、昔。……さて、と。行こうか!」
瞬間、ライナさんの足元に魔術式が展開された。
「ひぃぃぃ……、――――っ」
恥も外聞も捨てた、注射を待つ半泣きの幼子のような声が漏れ出る。
空に怯えて身体を震わせる私が、それでも覚悟を決めようとした最後の一瞬。
ライナさんは勢いに任せて強引に駆け出す――ことはせずに。
「大丈夫」
後ろから背中を押すわけでも、前から手を引くわけでもなく。
「――オレが君の翼になるよ」
隣で優しく寄りそうような、そんな優しい表情を浮かべた。
犬歯を見せつけるその笑みは今までで一番得意げで、挑戦的で、それでいて温かい誓いに満ちていて。
次の瞬間。私は高鳴る鼓動、甲高い耳鳴り、身体を縛る重力の鎖――そのすべてを忘れて、解き放たれて、窓の向こうへと飛び立った。




