第11話『仕組まれた悪意』
☆
「は」
理屈は分からない。手段は分からない。
だが現実の出来事として確かに、カップの中の紅茶は、ベルナデット先輩めがけて勢いよく跳ね上がった。
それはまるで、雨の日の水溜まり。
スピードを出した車が、そのタイヤが巻き起こした、あの大きな水飛沫のような光景。
「先ぱ――――」
間に合わないと知ってなお、声が出る。
百歩譲って雨水ならまだしも、淹れ立ての紅茶なんて浴びたら、被害は髪や服を汚すだけには留まらない。
先輩の白く滑らかな頬が、痛々しい赤に燃える最悪が、脳裏をよぎる。
――瞬間、目に映るすべてがスローモーションになった。
それは最悪を否定したいと高ぶった感情が生み出した、しかしもはや打つ手がないことを突きつけるだけの、意地の悪い錯覚。
だが、そんな虚しいばかりの永遠の世界で――何よりも早く広がる光がある。
「――――――」
時の隙間を縫うようにして、ベルナデット先輩の左目に魔術式が展開された。
五芒星とひし形を組み合わせた淡い赤の閃光。
魔力が呼び起こした――魔的法則の発動。
すべては一秒未満の出来事。そして訪れる数瞬後の未来。
空中で静止した雨粒が一斉に動き出す。
爆ぜた紅茶は扇状に広がりながら、柱や床を巻き込んで――ベルナデット先輩に着弾した。
時を同じくして、ぱりんと、持っていたティーカップが嫌な音を立てて割れる。
それは決して大きな音ではなかった。
けれど、日常生活であまり聴く事のないノイズだったせいだろう。
和やかな談笑に水を差す音階に反応して。
別席の参加者が、一声にこちらを向いて。
そして目にするのだ。
この予測された不測の事態を。私の未熟が招いた失態を。
「なに? 何かあったの?」
「お茶をこぼしたの? ロードナイト先輩に?」
「かけたように見えたわよ。腕が動いていたし」
「嘘……じゃああの子、ロードナイト先輩に……わざとっ?」
疑問が、困惑が、些細な勘違いが、大きな誤解となって広がっていく。
無理もない。紅茶が爆ぜる直前、私は即座に半身を引いた。引けてしまった。
それが逆によくなかったのだ。
きっとあの現象は常人の反応速度を超えたモノだった。
だというのに偶然、私は追い付いてしまった。
無論、何もせずぼうっと見過ごしていれば違う未来が待っていた……とは決して思わない。
それでも、結果として私は。
爆ぜる紅茶を食い止めることも、方向転換させることもできないまま。
よりにもよって先輩に紅茶をぶちまけたように見える体勢で、固まっていた。
「……また飲み損ねたな」
左目の魔術式が消えるのと同時に、先輩は涼しげに言った。
怪我をした様子はない。どうやら先輩は襲い来る熱湯を、即座に展開した半透明の防壁で防いだらしい。それこそ傘でも差したように。
不変の美しき立ち姿に安堵を覚えた一瞬の後、私はすぐに頭を下げる。
「すみません、ベルナデット先輩……っ! どうお詫びすればいいか……!」
怪我をしなくて良かった、で済まされるものか。
ベルナデット先輩への無礼だけではない。
セレナ先輩に用意してもらったカップを割り、心して飲もうと決めた紅茶を無駄にし、和やかなお茶会の空気まで台無しにしてしまったのだ……私は……!
「あの子、初めての参加者ですよね……?」
「そもそも今日編入したばかりじゃない? 白い髪の生徒なんてそうそう見ないもの……」
「派閥は? 例の一年ならキリエ様と仲がいいんでしょ? ……ってことはこれ、委員会が協会に喧嘩を売ったと取られる可能性も……」
「最初からレディ・ジュエルを貶めるつもりだったんだわ。謝っているみたいだけど、やることやってから頭下げられても、よね」
声が聞こえる。
私を飲み込まんとする大きなうねりの気配が、背中に刺さって止まない。
「マリモ、私を見ろ。私を見るんだ」
「………、……」
合わせる顔がない。そう躊躇いながらも、私はゆっくりと顔を上げた。
「セレナ・ホーソンは事情を知っているのか」
「いいえ、何も……」
「なら巻き込めないな。利用された上にお茶会そのものまで失っては気の毒だ。……さて」
先輩は私の後ろに広がる景色を、決壊寸前のダムを見るような緊張感を持って睨んだ。
そして張り詰めた糸を緩めるような、短いため息を吐いた、直後。
「――――この無礼者ッ‼」
「…………っ」
私を怒鳴りつける声がガゼボに、お茶会の会場全体に響き渡る。
その声も、その表情も、先ほどまでのベルナデット先輩とは明らかに違った。
己が積み上げてきた矜持を以て他者を捻じ伏せる……生徒を叱る教師のような、犯罪者を糾弾する検事のような、民衆を扇動する政治家のような、そんな厳格さを纏っていた。
先輩が私を真っすぐに見つめて、一歩踏み出す。
私は先輩が踏み出した分だけ、追い立てられるように後退する。
「君は善意で開かれているこの場の尊きを損ねた。それは許されざる行いだ!」
それを。
「だが思い上がるなよ。この程度のことで、積み重ねた誇りや願いの価値が損なわれることは断じてない」
何度も。
「軽薄な行動なぞ、より深き心延えの礎となるだけだ!」
繰り返して。
「よくよく覚えておくといい!」
……膝裏が、椅子に触れた。
もう、これ以上の後退はない。できない。
呼吸が乱れていた。口内が酷く乾いていた。眩暈がして。手足が爪先から冷めて、痺れて。過去がフラッシュバックして。きっと青白い顔を晒している。
――でも、これでいい。
糾弾を受けることは、覚悟を決めたところで耐え難い痛みを伴うけれど。
それでも己の過ちを見逃され、無かったことになるよりは。
……この痛みのほうが、ずっと。
「――そのまま、気圧された様子で座り込め」
不意に、先輩の囁き声が耳元を掠めた。
「……え……?」
言葉の意図を理解する前に、私は躓いたように椅子に座り込む。
すると先輩はすかさず私の後ろに回り込んで、こちらの様子を窺う生徒たちに背を向けた。
「悪いがマリモ、これは抗いようのない波だ。ならば立ち向かうよりも、舵を取って乗りこなすしか道はない」
「……ろ、ロードナイト先輩! どうなさいましたか……っ!」
駆け寄ってくる声。セレナ先輩だ。
多分、先ほどまで新しいお湯の準備でもしていたのだろう。
彼女は近くの席にポットを置いてから、急いでこちらに近付いてきている。
「現場の保全は望めない。が、猶予を作る。その間に痕跡を調べろ。遠隔起動の魔術なら魔術式が残るはずだ。それ以外の些細な違和感でも何でも、とにかく手掛かりを見つけてくれ」
矢継ぎ早に告げたベルナデット先輩は、最後に目だけで、柱の陰になる位置に移動していたティートローリーを示した。
その上には割れたカップも置かれている。
こっちに回り込むときに、さりげなく回収したのか。
「――――、」
つまり……先ほどの糾弾は演技だった、ということなのだろう。
だが、私がミスを犯したこと自体は紛れもない事実。
そこを割り切ってしまうことに思うところはある……けれど今は。
与えられた役目がある今だけは、ひとりで罪悪感に浸っている場合じゃない。
――現実は、時として問答無用。
それは私の短い人生の中で得た、数少ない教訓の一つだから。
ゆえに私は――長いミルキーブロンドのカーテンの裏側で、割れたカップに手を伸ばした。




