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第7話:失われて気づく、無価値だったはずの温もり


ソルスティア王国の王宮。かつては「光の加護」に守られた美しい都と謳われたその場所で、今、陰鬱な空気が漂っていました。


「不味い! 何度言わせればわかるのだ! こんな泥のようなスープが飲めるか!」


王宮の食堂に、ジュリアン王子の怒声が響き渡ります。

彼の目の前に並んでいるのは、最高級の『聖水スズキ』のポワレと、かつて私が得意としていた琥珀色のコンソメスープ……のはずでした。

けれど、皿の上にあるのは、どす黒い灰色の液体と、脂が不気味に分離した魚の死骸のような塊です。


「も、申し訳ございません、ジュリアン様! しかし、これでも最高級の食材を使い、以前と同じ手順で作っているのです!」


料理長が震えながら平伏しました。

ジュリアン様は苛立ちを隠さず、スプーンを床に投げ捨てます。

その瞳の下には深い隈ができ、かつての輝かしい王子様の面影はどこにもありません。

肌は荒れ、自慢の金髪も心なしかパサついているように見えました。


「嘘をつけ! クロエがいた頃は、同じ食材でもっと澄んだ味がしていた! なぜ彼女を追放してから、王宮の全ての食材が腐り始めたのだ!」


隣に座っていたレイラも、顔を青くして震えています。

彼女もまた、大好きだった甘いお菓子が最近では砂を噛むような味しかしないことに、焦燥を感じていました。


「ジュリアン様、きっと料理人たちが怠けているのですわ。私の【聖女の加護】で浄化しようとしても、なぜか弾かれてしまって……」


「レイラ、お前の加護は『癒やし』ではなかったのか? なぜこの不快な味を一つも変えられない!」


ジュリアン様の厳しい視線に、レイラは言葉を詰まらせました。

彼女の加護は【偽証】。他人の功績を自分のものに見せかけるだけの力です。

私が密かに厨房で行っていた【浄化】の成果を、自分の手柄だと偽っていたに過ぎません。

本当の「浄化」の力を持っていた私が消えたことで、王宮に運び込まれる食材たちは、蓄積された微量の瘴気や雑味をそのまま剥き出しにし始めたのです。


「……報告いたします」


そこへ、一人の隠密が姿を現しました。

先日、ナイトフォール帝国の夜の市で私たちを監視していた男です。


「帝国へ渡ったクロエ・フォン・アルメリアの足取りがつかめました。彼女は今……ナイトフォール帝国の皇帝、ゼノの寵愛を受け、宮廷料理人として迎えられています」


「何だと!? あの野蛮な魔族の国にか!」


ジュリアン様が身を乗り出しました。


「はい。それだけではありません。彼女が作る料理は、帝国の深刻な『魔力飢餓』を癒やし、魔王ゼノの病すら完治させたとの噂です。さらに……」


隠密はためらいながらも続けました。


「彼女自身、以前の面影がないほど美しく変わり、皇帝は彼女を正式な『婚約者』として発表する準備を進めているようです」


食堂に沈黙が流れました。

ジュリアン様の顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まっていきます。


「……私の捨てたゴミを、あの魔王が拾ったというのか? しかも、あんな不味い料理しか作れない無能な女を婚約者にだと?」


「いえ、ジュリアン様。帝国での彼女の評判は『聖美食家の再来』。食べた者を幸福にし、国中の瘴気を浄化する救世主として崇められています」


隠密の言葉は、ジュリアン様のプライドを完膚なきまでに叩き潰しました。

一方で、彼はある一つの結論に辿り着きました。

王宮の食事が不味くなった理由。騎士たちが次々と体調を崩している理由。

そして、自分自身の肌が荒れ、魔力が衰え始めている理由。


全ては、あのおっとりとして、いつも厨房の片隅で微笑んでいた私が、無自覚に振りまいていた「浄化」の恩恵だったのだと。


「……連れ戻せ」


「は?」


「クロエを連れ戻すのだ! 彼女は我が王国の所有物だ。不当に帝国に奪われたと言えばいい! あの女さえ戻れば、この不味い食事も、私の不調も全て元通りになる!」


ジュリアン様は狂ったように笑い始めました。

レイラはその横で、自分の居場所がなくなる恐怖に顔を引き攣らせていました。


一方、その頃の私は。

そんな王国の混乱など露知らず、ゼノ様と共に城のテラスで穏やかなティータイムを過ごしていました。


「クロエ、この『虹色バニラ』のシフォンケーキ、本当に素晴らしいな」


ゼノ様は、私が焼いたふわふわのケーキを愛おしそうに見つめていました。

以前よりもずっと表情が柔らかくなり、紅い瞳には穏やかな光が宿っています。


「ありがとうございます。帝国の『霧氷ベリー』を煮詰めたソースが、バニラの甘さを引き立ててくれるんです」


「ああ、最高だ。……だがクロエ、最近お前を狙う視線がいくつか紛れ込んでいる。バルガスにも警戒を強めさせているが、俺の側を離れるなよ」


ゼノ様が私の手をとり、指先にそっと唇を寄せました。

その熱い感触に、私の心臓は跳ね上がります。


「ゼノ様……。私、ここにいてもいいのでしょうか。ただの料理人の私が、皇帝である貴方のお側に」


「ただの料理人? 違うと言っただろう。お前は俺の命の恩人であり、この国の心を溶かした太陽だ」


ゼノ様は私の腰を引き寄せ、耳元で低く囁きました。


「もし王国が今更お前を返せと言ってきても、俺は世界を敵に回してでもお前を渡さない。……約束だ」


その力強い言葉に、私は深く頷きました。

かつて自分を捨てた場所から、不穏な影が伸びてきているとも知らずに。

私はゼノ様が淹れてくれた、香りの良い『常闇紅茶』の温かさに、ただ身を委ねていたのでした。


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