第6話:夜の市と、黄金色に輝く魅惑の揚げ肉
ゼノ様からの突然の婚約者宣言に、私の心臓はいまだに騒がしい音を立てたままでした。
けれど、当のゼノ様はどこ吹く風で、今日は私を城下町へ連れ出してくれました。
「ずっと城に籠もっていては、気分も塞がるだろう。今日は帝都の夜の市が開かれる日だ。クロエ、俺と一緒に歩いてくれ」
ゼノ様は、目立ちすぎる黒髪を魔法のヴェールで少しだけ茶色に変え、動きやすい街着に着替えていました。
私もマリア様に用意していただいた、深い紺色のシンプルなドレスに身を包みます。
護衛のバルガス様は、少し離れたところで一般人を装いながら、鋭い視線を周囲に走らせていました。
帝都の夜の市は、紫の瘴気が薄く漂う不思議な光景でした。
軒を連ねる屋台からは、何とも言えない独特の匂いが漂ってきます。
「……ゼノ様、あちらの屋台は何を売っているのですか?」
「あれか。あれは『沼大蜥蜴の串焼き』だ。栄養はあるが、泥臭さが強くてな。皆、生きるために鼻を摘まんで食べているようなものだ」
確かに、通りを歩く人々はどこか元気がないように見えました。
せっかくの市なのに、誰もが義務的に食事を済ませ、楽しんでいる様子がありません。
その時、一軒の古びた屋台が目に止まりました。
店主のおじいさんが、売れ残った『雷翼鳥の肉』を前に、溜息をついています。
「どうしたのですか?」
私が声をかけると、店主は力なく首を振りました。
「お嬢さん。この肉は魔力が強すぎて、焼くとゴムみたいに硬くなっちまうんだ。かと言って捨てちまうのも勿体なくてねえ……」
雷翼鳥の肉。
王国ではその痺れるような刺激が敬遠されますが、正しく調理すればこれほど旨味の強い肉はありません。
「店主さん。もしよろしければ、私がこのお肉を魔法のように美味しくしてみせましょうか?」
「はあ? 人間に何ができるってんだ。……まあ、どうせ捨てるもんだ。好きにしてみな」
私はゼノ様に目配せをして、屋台の隅を借りることにしました。
バルガス様も「またクロエ様の料理が食べられるのか!」と、いつの間にか目の前で待機しています。
まず、雷翼鳥の肉を一口大に切り分けました。
指先から【浄化】の魔力を流すと、肉の中に残っていたパチパチとした刺激が、心地よい痺れへと変わっていきます。
そこに、私がカバンから取り出した『魔力ぶどうの絞りかす』と、帝国の『深淵の岩塩』、そしてすりおろした『密露玉葱』を揉み込みます。
「クロエ、それは何をしているのだ?」
ゼノ様が興味深そうに手元を覗き込みました。
「下味をつけているんです。これでお肉が柔らかくなり、旨味が閉じ込められます。そして、この『マグマ芋の粉』を表面に薄くまぶします」
私は屋台にあった大量の油を、魔導コンロで一気に熱しました。
油の温度が最高潮に達した瞬間、粉を纏わせた肉を投入します。
シュワアアアッ!
と、今まで聞いたこともないような小気味よい音が響きました。
同時に、肉の脂が弾ける香ばしい香りが、夜の市の一角に爆発するように広がります。
「な、なんだこの匂いは! 鼻を突く嫌な臭いが一切しないぞ!」
店主のおじいさんが驚きに目を見開きました。
数分後、きつね色に輝く『黄金の揚げ肉』が山盛りに出来上がりました。
「さあ、皆さん召し上がってください。揚げたてが一番ですよ!」
私はまず、ゼノ様の口元に一切れ運びました。
ゼノ様は熱さに注意しながら、それをハフハフと頬張ります。
「……っ、熱い! だが、なんだこれは! 外側は驚くほどサクサクしているのに、中からは雷翼鳥の熱い肉汁が溢れ出してくる。噛むたびに旨みが弾けて、酒が欲しくなる味だ!」
「次は俺だ! ……うおおっ、美味すぎる! この衣のカリカリ感がたまらない。それに、この独特の痺れが、逆に食欲を加速させるぞ!」
バルガス様も、大きな塊を三つも一度に頬張り、目を輝かせています。
「ほ、本当かい……。どれ、俺も……。……うわっ、なんだこれ! 俺は五十年この街で商売してるが、こんなに美味い肉は初めてだ! 雷翼鳥がこんなに柔らかくなるなんて!」
店主のおじいさんも、震える手で揚げ肉を口にし、その旨味に感動して涙を浮かべていました。
その匂いに誘われて、元気のなかった街の人々が次々と集まってきます。
「おじさん、俺にもその黄金の肉をくれ!」
「私にも! なんていい匂いなの!」
あっという間に、屋台の前には長蛇の列ができました。
人々は揚げたての肉を口にし、そのあまりの美味しさに、沈んでいた顔がパッと明るくなっていきます。
市全体が、今までにない活気に包まれていきました。
「クロエ、見てみろ。皆が笑っている」
ゼノ様が私の肩に手を置き、優しく囁きました。
「お前の料理は、腹を満たすだけではない。この国の民に、明日を生きる活力を与えているんだ。俺は、お前を連れてきて本当に良かった」
「ゼノ様……。私は、ただ皆さんに美味しいものを食べてほしかっただけです」
「その無欲さが、お前の最大の魔法だな」
ゼノ様は、並んでいる人々にバレないよう、そっと私の頬に触れました。
夜の市の喧騒の中で、二人の距離が今までよりもずっと近くなったような気がしました。
しかし、この幸せな光景の裏で。
帝国に忍び寄る影がありました。
「……あれが、王国から追放されたという『加護なし』の令嬢か。ふん、ただの料理人ではないな」
市の雑踏に紛れた怪しい男が、私たちの様子をじっと見つめていました。
その腕には、ソルスティア王国の紋章が刻まれたブレスレットが光っていました。




