第5話:鏡の中の別人と、甘い癒やしのひととき
ナイトフォール帝国に来てから、数週間が経ちました。
今朝、洗面所の鏡の前に立った私は、思わず自分の頬に手を当てて驚きました。
「……これ、本当に私かしら?」
王国にいた頃の私は、過度なストレスからくる暴飲暴食のせいで、全体的にふっくらとしていました。
肌もどこかくすんでいて、異母妹のレイラからは「歩く肉団子」なんて影で笑われていたものです。
けれど、鏡に映っている少女は、透き通るような白い肌と、すっきりとしたフェイスラインを持っていました。
浄化の魔力がこもった自炊を続け、帝国の清浄な魔力に触れているうちに、体内の毒素が抜けて本来の姿に戻ったようです。
緩やかに波打つ栗色の髪も、今は真珠のような光沢を放っていました。
「クロエ様、おはようございます。……おや、また一段とお美しくなりましたね」
着替えを手伝いに来た侍女長のマリア様が、目を細めて微笑みました。
彼女は最初こそ厳しかったですが、今では私の良き理解者です。
「マリア様まで。そんな、からかわないでください」
「いいえ、事実ですわ。ゼノ様もきっと驚かれるでしょう。……あの方は最近、クロエ様の料理を食べるために、無理やり仕事を終わらせているようですから」
マリア様がクスクスと笑うのを聞いて、私は少し胸が熱くなりました。
あんなに不眠不休で働いていたゼノ様が、私のために時間を割いてくれている。
それなら、今日の朝食は少し趣向を凝らして、疲れが吹き飛ぶような甘いものにしましょう。
私は厨房へ向かい、銀のフライパンを準備しました。
今日使うのは、帝国の北の果てで採れる『月光小麦』の粉です。
本来は石のように硬い粒ですが、私の魔力で浄化しながら細かく挽くと、驚くほどきめ細やかな白い粉になります。
「クロエ様、今日はパンを焼くのですか?」
若手料理人のルカが興味津々で覗き込んでまいりました。
「いいえ、今日は『お月様のパンケーキ』を作ります。この『星屑蜂蜜』と、昨日摘んだ『青三日月ベリー』も使いましょう」
私はボウルに月光小麦の粉と、雲チャボの卵、そして濃厚なミルクを混ぜ合わせました。
熱したフライパンにバターを溶かし、生地を丸く流し込みます。
ぷつぷつと表面に小さな泡が浮いてきたら、思い切ってひっくり返しました。
「わあ、綺麗なきつね色!」
ルカが声を上げました。
甘く香ばしい、幸せを形にしたような匂いが厨房いっぱいに広がります。
食堂へ運ぶと、そこには既にゼノ様が座っていました。
私の姿を見た瞬間、彼は手に持っていた書類を机に置き、目を見開きました。
「……クロエか? 一瞬、天界の精霊が迷い込んだのかと思ったぞ」
「もう、ゼノ様まで。そんなことより、温かいうちにどうぞ。今日は甘い朝食です」
私が皿を並べると、そこには三段に重ねられたふわふわのパンケーキがありました。
上には青紫色のベリーソースがたっぷりとかかり、仕上げに星屑蜂蜜が黄金の糸のように垂らされています。
「これは……見た目からして毒だな。俺をこの場から動けなくさせるための、甘い毒だ」
ゼノ様は冗談めかして言うと、ナイフとフォークを手に取りました。
一口、大きく切り分けて口に運ぶと、彼は幸せそうに目を閉じました。
「……信じられんほど軽い。噛む必要がないほどふわふわだ。ベリーの爽やかな酸味と、蜂蜜の濃厚な甘さが、疲れきった脳に染み渡っていく……」
「本当ですね。この生地、小麦の香りがすごく強いのに、口当たりはまるで雲を食べているようですわ」
隣で毒見を兼ねて試食していたマリア様も、うっとりと頬を緩めています。
「おい、俺にも一口くれ!」
我慢できなくなった様子で、護衛のバルガス様も身を乗り出しました。
彼は自分に配られた一皿を、豪快に口に放り込みます。
「うおお! なんだこれ、甘いのに後味がスッキリしてて、いくらでも食える! 力が湧いてくるというか、心が洗われるような味だ!」
「ふふ、良かったです。月光小麦には精神を安定させる力がありますから。皆さんが今日一日、笑顔で過ごせるように魔法をかけたんですよ」
私が微笑むと、ゼノ様がふと食べる手を止め、私の手首を優しく掴みました。
「……クロエ。やはりお前を、誰にも見せたくない。こんなに美しく、こんなに心優しい女性を、王国はよくも捨てたものだ」
ゼノ様の紅い瞳が、熱を帯びて私を射抜きます。
その視線に、私は心臓が壊れそうなほど速く打つのを感じました。
「あ、あの、ゼノ様……皆さんが見ています」
「構わん。バルガス、マリア。俺は決めたぞ。次の収穫祭で、クロエを俺の婚約者として正式に発表する」
「「ええっ!?」」
私と家臣たちの声が重なりました。
ゼノ様は満足げにパンケーキの最後の一切れを口に放り込むと、いたずらっぽく微笑みました。
「反対する者はいないだろう? これほど美味い飯を食わせる妃を、誰が拒むというのだ」
バルガス様とマリア様は顔を見合わせ、深く頷きました。
「もちろんです。クロエ様以外に、ゼノ様のお隣が務まる方はいません」
「帝国中の国民が、喜んで歓迎することでしょう」
皆の温かな言葉に、私の視界が少しだけ潤みました。
王国では邪魔者扱いされ、誰にも必要とされなかった私が、ここではこんなにも愛されている。
その頃、ソルスティア王国の王宮では――。
「不味い! 不味すぎる! なぜ肉がこれほど生臭いのだ! 野菜も土の味しかしないではないか!」
ジュリアン王子が食卓を叩き、怒鳴り散らしていました。
彼の前にあるのは、かつては豪華だったはずの宮廷料理。
けれど、浄化の力を失った食材たちは、本来の毒性と雑味を剥き出しにし、王族の舌を無慈悲に責め立てていたのです。
「レイラ! お前の聖女の加護で何とかしろ!」
「そ、そんなことを言われましても……私、浄化なんてやり方知りませんわ!」
レイラが泣き叫びますが、失われた「日常の美食」は、二度と戻ってはきませんでした。
彼らが救いを求めて帝国へ目を向けるのは、もう少し先のお話です。




