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第4話:硬い魔獣をトロトロに。発酵と魔法の甘い罠


ナイトフォール帝国の朝は、窓の外に広がる紫がかった霧から始まります。

帝都の空気は相変わらず重たいですが、城の厨房に立つ私の心は、かつてないほど晴れやかでした。


「よし、今日も始めましょう」


私は使い慣れた銀のフライパンを火にかけます。

昨日、マリア様やバルガス様に料理を振る舞ってからというもの、厨房の料理人たちの私を見る目が一変しました。

以前のような「人間に何ができる」という冷ややかな視線ではなく、今は「今日は何を教えてくれるのか」という期待に満ちた熱を感じます。


そこへ、背後から低く心地よい声が響きました。


「朝から熱心だな、クロエ」


振り返ると、そこにはマントを脱ぎ、少しリラックスした格好のゼノ様が立っていました。

朝の光――と言っても雲に遮られた淡い光ですが――を浴びる彼は、彫刻のように整った顔立ちを一段と際立たせています。


「ゼノ様! 朝食にはまだ少し早いですよ?」


「いや、お前が厨房にいると聞いてな。……その、昨日から腹の調子が良すぎて、目覚めが良くなったんだ。お前の料理のおかげだろうな」


ゼノ様は少し照れくさそうに視線を逸らしました。

魔力飢餓が改善されつつある証拠です。

私は嬉しくなって、彼のために特別な朝の一杯を差し出しました。


「では、これを。昨日採取した『星霜の果実』を絞って、少しだけ私の魔力で浄化したジュースです」


ゼノ様はコップを受け取り、ゆっくりと口に含みました。


「……信じられん。星霜の果実は本来、氷のように冷たくて酸味が強すぎる代物だが、これは……身体の奥まで温かさが染み渡るようだ。まるで、お前の優しさを飲んでいる気分だ」


「まあ、大げさですよ」


私が笑うと、ゼノ様は真剣な眼差しで私を見つめ返しました。


「大げさではない。お前は、この国の絶望すら変えてしまうのかもしれないな」


そんな温かな時間の後、厨房に大きな衝撃が走りました。

運び込まれてきたのは、帝国の北方で狩られたばかりの『鋼毛牛こうもうぎゅう』の巨大な塊肉です。


「クロエ様、これは流石に無理ですよ。鋼毛牛の肉は、その名の通り鋼のように硬く、いくら煮込んでもゴムを噛んでいるようだと言われています」


厨房を預かる料理人の頭、ガルトが困り顔で言いました。

彼はこの道四十年のベテランですが、帝国の食材の「不味さ」には半ば諦めを感じていた一人です。


「確かに、そのままではそうかもしれませんね。でも、この『闇の秘薬』を使えば大丈夫です」


私が取り出したのは、帝国で安価に取引されている『紫影の麦酒』と、熟しすぎて捨てられる寸前の『密露玉葱』でした。


「そんな、ただの酒と、腐りかけの野菜でどうにかなるんですか?」


若手の料理人、ルカが不思議そうに覗き込みます。


「ええ。まず、お肉を浄化して、余分な魔力の棘を抜きます。その後に、この麦酒と玉葱に漬け込んで一晩寝かせるんです。麦酒の発酵成分と玉葱の酵素が、お肉の繊維を魔法よりも優しく解きほぐしてくれるんですよ」


私は魔法の袋から、昨日から仕込んでおいた肉を取り出しました。

見た目は、昨日の真っ黒で硬そうな肉とは別物です。

しっとりと水分を含み、赤ワインのような深い色味に変わっています。


これを厚切りにし、銀のフライパンで表面を香ばしく焼き上げます。

そして、昨夜の残りのスープをベースにした『特製デミグラス風ソース』でじっくりと煮込んでいきました。


夕食の時間。

食堂には、昨日よりも多くの家臣が集まっていました。

皆、噂の「人間の料理人」が作る、鋼毛牛の料理が気になって仕方ないようです。


運ばれてきたのは、深い茶色のソースに浸かった、大ぶりの肉塊。

付け合わせには、バターで炒めた『銀糸キノコ』が添えられています。


「……失礼。本当に、これが鋼毛牛なのですか?」


バルガス様がナイフを手に、疑わしげに尋ねました。

彼は騎士として、何度も戦場でこの肉を齧り、その硬さに歯を痛めてきた一人です。


「ぜひ、召し上がってみてください」


私が促すと、バルガス様はナイフを入れました。

その瞬間。


「なっ……!?」


ナイフが、まるで温かいバターの中を通るかのように、スッと肉に入っていきました。

抵抗が全くありません。


バルガス様は慌ててその肉を口に運びました。


「う、美味すぎる! 噛まなくても、舌の上で肉の繊維がほどけていくぞ! 濃厚なソースのコクと、肉の旨味が混ざり合って……これほど贅沢な味がこの世にあるのか!?」


「本当ですわ。このキノコも、独特の歯ごたえが楽しくて、ソースによく絡みます」


マリア様も、いつもより大きな一口を頬張り、幸せそうに頬を緩めています。


「信じられん……。俺たちが捨てていた麦酒や玉葱で、これほどの変化が起きるなんて」


ガルトが、自分の皿を見つめて呆然としています。

彼は一口食べると、震える手で私に頭を下げました。


「クロエ様。私は、料理を舐めていました。食材の声を聴くというのは、こういうことだったのですね……」


そして、中央に座るゼノ様。

彼は誰よりも愛おしそうに、肉を一切れ口に運び、ゆっくりと目を閉じました。


「……クロエ。お前は、俺に何をさせるつもりだ。こんな美味いものを知ってしまったら、もうお前のいない生活など耐えられない」


ゼノ様の言葉に、食堂中が静まり返りました。

彼は立ち上がり、私の前まで歩いてくると、家臣たちの前で堂々と私の腰を引き寄せました。


「バルガス、マリア、そして厨房の者たちよ。聞いた通りだ。クロエは帝国の至宝である。これより、彼女を害する者は、この俺が直々に裁く。……分かったな?」


「「はっ!!」」


家臣たちの力強い返声が響きます。

私は顔が真っ赤になるのを感じていました。

ただ美味しいものを作りたいだけなのに、いつの間にかこんなにも守られる存在になっていたなんて。


その頃、ナイトフォール帝国の熱気とは裏腹に。

私が捨てられたソルスティア王国の王宮では、異変が起きていました。


「……何だ、この食事は! 泥を煮出したような匂いがするぞ!」


ジュリアン王子の怒声が、静まり返った食堂に響き渡ります。

けれど、料理人たちは青ざめるばかりで、何も答えることができませんでした。


彼らはまだ気づいていないのです。

「加護なし」と蔑んで追い出した少女が、どれほど膨大な「浄化の魔力」を、無自覚に振りまいていたのかを。


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