第3話:絶望の晩餐を、至福の休息に変えてみせます
ガタゴトと揺れる馬車の窓から外を眺めると、景色は一変していました。
王国側の瑞々しい緑とは対照的に、ナイトフォール帝国の空は常に薄暗い雲に覆われています。
地面からは紫色の霞のような瘴気がゆらゆらと立ち上り、植物もどこか毒々しい色をしていました。
「……これが、帝国の日常なのですか?」
私が思わず呟くと、向かい合わせに座っていたゼノ様が静かに頷きました。
「そうだ。この土地は数千年前の戦いで深く傷ついた。瘴気のせいで、育つ作物も全て味が歪んでいる。生きるために食うが、そこに楽しみなど微塵もない」
ゼノ様の表情はどこか寂しげでした。
強大な魔力を持つ彼は、これまでこの不味い食事に耐えながら、国を支えてきたのでしょう。
馬車はやがて、黒い石造りの壮麗な城へと到着しました。
ナイトフォール帝国の王宮です。
そこでは、ゼノ様の帰還を待っていた家臣たちが勢揃いしていました。
「ゼノ様! ご無事で何よりです。……して、その隣の人間は?」
出迎えたのは、眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性でした。
彼女は侍女長のマリア。
鋭い眼差しで私を上から下まで検分します。
「彼女はクロエ。俺の命を救ってくれた恩人であり、今日からこの城の特別料理人として迎える」
「人間が、料理人に……? 失礼ながら、帝国の食材は人間の手に負えるほど甘いものではございませんが」
マリア様の言葉には、深い不信感がこもっていました。
それもそのはず。
この国で出される料理は、毒消しの魔法をかけながら調理しなければならず、技術よりも魔力の制御が優先されるからです。
ちょうど夕食の時間だったこともあり、私はまず、今の帝国で「最高」とされる食事を見せてもらうことにしました。
目の前に運ばれてきたのは、真っ黒なパンと、どろりと濁った紫色のスープ。
そして、ゴツゴツとした岩のような芋の煮転がしです。
「これが、本日の晩餐です」
マリア様が淡々と説明します。
私は一口、そのスープを口に含んで……絶句しました。
「……に、苦い。それに、金属のような嫌な味が鼻に抜けます」
「それが普通なのです。瘴気を抜くために特殊な塩を大量に使いますから。味など二の次、栄養を摂取できればそれでいいというのが、帝国の常識です」
バルガス様や他の騎士たちも、義務を果たすような無表情でその食事を口に運んでいました。
けれど、その瞳には何の輝きもありません。
「こんなの、あんまりです……。美味しいものを食べた時の幸せを知らずに生きるなんて。ゼノ様、厨房を貸してください!」
私は立ち上がりました。
胸の奥で、料理人としての誇りが燃え上がっています。
ゼノ様は私の剣幕に驚きつつも、どこか期待に満ちた瞳で頷いてくれました。
「好きにしろ、クロエ。お前のやりたいようにやってくれ」
私はマリア様に案内され、城の巨大な厨房へと向かいました。
そこには、見たこともない帝国の食材が並んでいます。
私はまず、先ほどの岩のような芋『黒岩芋』を手に取りました。
表面は硬く冷たいですが、私の指先から【浄化】の光を流し込むと、みるみるうちに汚れが落ち、内側からホクホクとした生命の鼓動が伝わってきます。
次に用意したのは、帝国の荒野で育つ『双頭鶏の腿肉』です。
筋肉質で硬い肉ですが、これに『魔力ぶどう』から作った発酵酒を揉み込みます。
「マリア様、そこに立っている料理人の皆さんも。少しだけお手伝いいただけますか?」
私が声をかけると、戸惑いながらも数人の料理人が集まってくれました。
私は彼らに、黒岩芋の皮を丁寧に剥き、蒸し上げるよう指示します。
そして私は、銀のフライパンで鶏肉を焼き始めました。
ジューッという、先ほどまでの「義務の調理」とは違う、力強い音が響きます。
香草の香りと、肉が焼ける香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がりました。
「な、なんてことだ……。この肉、焼いているだけでこんなに甘い香りがするなんて」
手伝っていた若い料理人が、信じられないといった様子で呟きます。
一時間後、食堂に再び料理が運ばれました。
一皿目は『黒岩芋のシルキーマッシュ』。
浄化した芋を丁寧に裏ごしし、雲チャボのミルクと塩で滑らかに仕上げたものです。
二皿目は『双頭鶏のハーブグリル』。
皮はパリッと、中は肉汁が溢れるほどジューシーに焼き上げました。
「さあ、召し上がってください!」
ゼノ様は待っていたと言わんばかりに、まずはマッシュポテトを口に運びました。
その瞬間、彼の端正な顔が劇的にとろけました。
「……っ、これは、本当にあの黒岩芋なのか? 雪のように口の中で溶けて、濃厚なバターのようなコクが広がる。苦味なんてどこにもない」
「本当だ……。こっちの肉もすごい。噛むたびに溢れる脂が、全くしつこくない。それどころか、体が熱くなって、力がみなぎってくるようだ!」
バルガス様も、大きな口で肉を頬張り、感動に震えています。
「信じられません……。今まで食べてきたものは、一体何だったのでしょうか」
疑い深かったマリア様までもが、一口食べた瞬間にフォークを持つ手を止め、そっと目元を拭いました。
その瞳には、ほんのりと涙が浮かんでいます。
「この料理には、慈しみを感じます。ただお腹を満たすだけではなく、私たちの体と心を労わってくれている……そんな味がいたしますわ」
マリア様の言葉に、周りの騎士や料理人たちからも「美味い、美味い」という声が次々と上がりました。
「クロエ、お前はやはり凄いな」
ゼノ様が私の手をそっと握りました。
大勢の前で少し恥ずかしかったですが、彼の紅い瞳には、これまでになかった深い信頼と熱い色が宿っていました。
「帝国中の魔族が、お前の味方になるだろう。……だが、あまり他の奴らにその笑顔を見せすぎるなよ。俺だけの専属にしたくなると言ったはずだ」
耳元で囁かれた低く甘い声に、私の心臓が跳ね上がります。
王宮では「無能」と蔑まれていた私の料理が、この国の人々を救い始めていました。
けれど、この時の私はまだ知らなかったのです。
私がいなくなった王国の食卓が、どれほど悲惨な事態に陥っているのかを。




