第2話:氷の魔王様と、黄金色のとろける魔法
目の前で倒れている男性の肌は、驚くほど透き通るように白く、冷たそうでした。
けれど、彼から放たれている魔力は、まるで嵐の前の海のように荒れ狂っています。
「……く、何だ、この、感覚は……」
彼は苦しげに胸元を押さえ、紅い瞳をゆらゆらと彷徨わせました。
この症状には、心当たりがあります。
王立図書館の古い文献で読んだことがある『魔力飢餓』。
あまりにも強大な魔力を持つ者が、その魔力を維持するためのエネルギーを十分に摂取できず、内側から自分自身を焼き尽くしてしまう病です。
本来なら栄養価の高い魔導食が必要ですが、今の私にはそんなものはありません。
けれど、私の手元には、この森で手に入れたばかりの最高の食材があります。
「待っていてください。今、体が受け付けるものを作りますから」
私は急いで、魔法の保温袋から取り出した『太陽の粒』という穀物を取り出しました。
これは王国では家畜の餌にされることもありますが、実は丁寧に浄化して炊き上げれば、どんな高級食材よりも芳醇な甘みを持つ主食になるのです。
私はまず、付近の清らかな湧き水を銀のフライパンに汲み、太陽の粒を浸しました。
そして、指先から浄化の魔力を流し込みます。
「……っ!? お前、何をしている……。その、光……」
男性が驚いたようにこちらを見ています。
私は答えず、次にカバンから『雲チャボの卵』を取り出しました。
雲のようにふわふわとした羽を持つ鳥の卵で、殻は虹色に輝いています。
これに、森の奥で採取しておいた『炎陽トマト』の果汁を煮詰めた特製のソースを合わせます。
手早く薪に火をつけ、銀のフライパンを熱しました。
まずは刻んだ『森イノシシの燻製肉』を炒めます。
ジュー、という小気味よい音と共に、燻製の香ばしい香りが立ち込めました。
「……く、この、匂い……。腹が、鳴るなど……数年ぶりだ」
男性が信じられないといった様子で、喉を鳴らしました。
炒めた肉に、炊き立ての太陽の粒を合わせ、炎陽トマトのソースで全体をまとめます。
これだけでも十分美味しそうですが、ここからが本番です。
別の小さなフライパンに、よく溶いた雲チャボの卵を流し入れます。
表面が固まり始めた瞬間、箸を使って素早く形を整え、太陽の粒の山の上に、ぽてり、と乗せました。
「お待たせしました。『黄金卵の太陽包み』です。冷めないうちに召し上がってください」
私は木のフォークを添えて、彼に皿を差し出しました。
彼は震える手でそれを受け取ると、まずは黄金色に輝く卵の塊を不思議そうに見つめました。
「これを……食べるのか? これほど美しいものを……」
「ええ。真ん中を、少し割ってみてください」
彼が言われた通り、フォークで卵の表面に薄く筋を入れると。
ぷるん、と震えた卵の中から、半熟のトロトロとした中身が溢れ出し、下の太陽の粒を包み込みました。
「……っ!」
彼はたまらず、一口分をフォークですくい、口へと運びました。
その瞬間、彼の表情が劇的に変わりました。
「……柔らかい。口の中で、卵が溶けて消えていく……。それに、この穀物の甘みはどういうことだ? 今まで食してきたどんな宮廷料理よりも、雑味が一切ない。それどころか、喉を通った瞬間に、荒れていた魔力が凪いでいくのがわかる……」
「お口に合って良かったです。その卵は、食べる方の魔力を安定させる性質があるんですよ」
彼は二口目、三口目と、今までの飢えを埋めるように夢中で食べ進めました。
一口食べるごとに、彼の青白かった頬に朱が差し、瞳に力が戻っていくのがわかります。
「美味い。……本当に、美味いぞ。この赤いソースの酸味も、食欲をそそる。これなら、いくらでも食べられそうだ」
彼はあっという間に一皿を平らげてしまいました。
最後の一粒まで大切そうに掬い取ると、彼は満足げにふぅ、と長い息を吐き出しました。
「……救われた。腹が満たされるというのが、これほどまでに幸福なことだったとはな」
彼は立ち上がると、先ほどまでの死にそうな様子が嘘のように、背筋をピンと伸ばしました。
改めて彼を直視して、私はその美しさに息を呑みました。
夜の帳をそのまま溶かしたような漆黒の髪。
知性と力強さを感じさせる、深い紅の瞳。
その立ち居振る舞いには、隠しきれない高貴さが漂っています。
「俺はゼノ。隣国ナイトフォール帝国の皇帝だ。……娘よ、お前の名前を教えてくれ」
皇帝。
つまり、この方は魔族を束ねる魔王様だということでしょうか。
私は慌ててその場に跪こうとしましたが、彼はそれを手で制しました。
「礼は不要だ。命を救われたのは俺の方だからな。……お前、なぜこのような危険な森で、一人で料理などしていた?」
「私はクロエ・フォン・アルメリアと申します。……恥ずかしながら、婚約者だった王子に追放され、この森へ辿り着いたのです」
私が経緯を話すと、ゼノ様の瞳に鋭い光が宿りました。
「……あのアホ王子の国か。奴らは、お前のような逸材を追い出したというのか? この『聖なる浄化』を込めた料理を作れる者を?」
「私の力は、王国の測定では『加護なし』と判定されました。ただの料理好きだと思われていたのでしょう」
ゼノ様は鼻で笑うと、私の手を取りました。
その手は先ほどとは違い、とても温かくなっていました。
「『加護なし』だと? 笑わせるな。帝国では、お前のような者は神の再来として崇められる。クロエ、俺と一緒に来い。お前の力は、俺たちの国を救う唯一の希望だ」
「帝国の……希望、ですか?」
「ああ。俺の国は、土地が呪われていて、まともな味のする食い物がない。強大な力を持つ魔族ほど、俺と同じように魔力飢餓に苦しんでいる。……お前さえ良ければ、帝国の宮廷料理人として、いや……」
ゼノ様はそこで言葉を切り、少しだけ耳の先を赤くしました。
「とにかく、俺はお前を放さない。お前の料理を一口食べたその時から、俺の胃袋もお前の虜だ」
その時、遠くから多数の足音が聞こえてきました。
「ゼノ様! ゼノ様、どちらにいらっしゃいますか!」
「お、迎えが来たようだな」
現れたのは、重厚な鎧を纏った数人の騎士たちでした。
彼らはゼノ様の無事を確認すると、安堵の表情を浮かべましたが、すぐに私の存在に気づき、警戒の目を向けました。
「ゼノ様、その女は……? 人間ではありませんか」
「控えろ。この方は、俺の恩人だ。バルガス、お前も一口食べてみればわかる。……あ、もう残っていなかったな」
ゼノ様は少し残念そうに空になった皿を見つめました。
騎士の一人、バルガスと呼ばれた大柄な男性が、不思議そうに鼻を動かしました。
「……何です、この匂いは。ここ数百年、嗅いだこともないような、心が落ち着く良い匂いがします」
「だろう? クロエ、紹介しよう。こいつらは俺の部下だ。こいつらにも、いつか美味いものを食わせてやってくれ。今は何より、お前の安全を確保したい。……俺の国へ、来てくれるか?」
私は振り返り、自分が捨てられた王国の方向を見つめました。
そこにはもう、未練はありません。
私を必要としてくれる場所が、この料理を「美味しい」と言ってくれる人がいるのなら。
「はい、ゼノ様。喜んでお供いたします」
私が微笑むと、ゼノ様は嬉しそうに私の肩を抱き寄せました。
そのまま、私たちは魔法で呼び出された黒塗りの馬車へと乗り込みました。
これまでの不遇な日々が、まるで嘘のように。
私は異国の魔王様と共に、新しい「美味しい」を求める旅へと踏み出したのです。




