目撃者
「言われっ放しで良かったんですか?」
不意に背後から声をかけられて、私はビクリッと体を揺らした。
先ほどのショックが残っていたこともあるのか何も言えないまま声の主を振り返る。
「聞くつもりはなかったんですけどね。あー……すみません」
そう言ったのは先日配属された新入社員だ。
彼はこちらからはちょうど見えないベンチ脇の観葉植物の影から出てきた。
「こんなところで話していた私たちがいけないのよ」
そうだ。
ここは社内の一角。
休憩場所を兼ねた自動販売機の前。
たとえ常日頃からあまり人がいないとはいえ、公共の場で極めて私的な話をしていた自分たちに非がある。
そう思ったから私は潔く謝った。
彼だって人の修羅場など見たくもなかっただろう。
「まぁでも驚かせてしまったみたいなので」
そして彼はスッとハンカチを差し出す。
「……?」
「気づいていないんですか?」
きちんとアイロンのかかったハンカチが彼の手で私の目元に当てられた。
そうされて初めて、私は自分が泣いていることを知る。
「まさか声一つ出さずに泣く人がいるとは思いませんでしたよ」
淡々と言って、彼は私の手にそのハンカチを握らせた。
すでに私の涙で汚されたハンカチを突き返すわけにもいかず、私は受け取ったそれで大人しく涙を拭く。
変に慰めるわけでもなくただ彼はそこにいた。
どうしても涙がすぐに止まらなくて、とうとう私はハンカチに顔を伏せた。
見えない視界越しに彼が動く気配がして、少し離れたところからピッ、ゴトンッという音が聞こえる。
「涙が出たなら水分補給、ってね」
今度彼が差し出してきたのは麦茶のペットボトル。
右手にハンカチ、そして左手にペットボトルを持った私の背にさりげなく、触れるか触れないかの距離で手を添えると、彼は自動販売機前のベンチに促してきた。
滅多に泣くことのない私は泣いたことで痛くなった頭を抱えて少しぼんやりしていたのかもしれない。
常ならば人に気を遣わせるような隙は見せないようにしているのに、今は考えることさえ拒否したかった。
「涙を出すのはデトックスですよ」
そんなことをあっさり言った彼は手に持った缶コーヒーのプルタブを開けると一口飲む。
何となく見つめる先で、彼の男らしい喉仏がゴクリと動いた。
そうやってぼんやりしている間も、私の目からは閉め忘れた蛇口のように涙がこぼれ落ちる。
あんなクズ男のために涙を流すなんてもったいない。
そうは思うけど、もはやコントロールを失った涙腺は反抗的だ。
「……今日はもう帰った方がいいかもしれませんよ」
押し付けがましくなく、ただの事実として彼は言った。
たしかに、泣き腫らした顔でオフィスに戻れば人の好奇心を呼ぶだろう。
同じ職場の元婚約者とあの女に泣いたことを知られるのも腹立たしい。
そう思うと今このタイミングで帰宅するのがいいのかもしれなかった。
たとえ相手に『ショックを受けて帰ったんじゃないか』と思われたとしても、泣き顔を見られるよりはマシだ。
「そうね。そうするわ」
押し出した声は鼻にかかった涙声だ。
自分自身の声でありながら気に入らないと思う。
もはやあの男からは何の影響も受けたくない。
「鞄とか、取ってこれますか?」
「このままロッカーに寄るわ」
「わかりました。では僕の方から上司に、先輩は体調不良で早退したと伝えます」
「それは……いえ、そうね。お願いしてもいいかしら」
私の職場は比較的個人の采配が認められていて、自分の仕事に影響がなければ有休も取りやすいし早退だって咎められることはない。
本来であれば早退も自分で上司に申告して許可を得なければならないことではあるけれど。
体調不良ならば伝言でも許されるだろう。
ましてや私は今まで必要以上に休むこともなかったし、勤務態度も真面目だと言われてきたから。
「あなたには迷惑をかけるわね」
「全然。何も迷惑なことなどありません」
そう言うと彼は私に向き直った。
「もし迷惑をかけられたとしたら、あの非常識な二人に、ですよ」
『非常識な二人』とは、元婚約者となったあの男と略奪女のことだろうか。
そうやって言うことによって私の気持ちの負担を軽くしてくれているのだと、わからないわけがない。
「ありがとう。助かったわ。今度お礼をさせてちょうだい」
「お礼なんていらないですよ……と格好良く言おうと思っていたんですが……じゃあ、今度食事を一緒してください」
一瞬思案げな顔をして彼が言った。
「なら都合の良い日を教えて。合わせるから」
「さすが。仕事が早いですね」
クッと小さく笑って彼が言う。
何がツボにハマったのかはわからなかったけど、職場ではまったく見ることのない笑顔に涙が止まった。
「ああ、良かった。涙、止まりましたね」
目ざとく私の変化に気づいた彼の言葉に自分でも驚く。
「ハンカチは洗って返すわ」
「いつでも構いませんよ」
そんな会話を最後に、私は彼と別れる。
クズ男と言いつつも元婚約者から相当なショックを与えられたにもかかわらず、何となく気持ちが軽くなっていることを不思議に思いながら私はロッカーに向かったのだった。
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