4.
セリオン様が訪ねてきた日から、人間の月日では、5年が経過していた。その5年間は人間が訪れることもなく、ただ静かに時間が過ぎていった。
セリオン様は、仰った通りに頻繁に泉に通ってくれた。
最初はどうしても緊張してしまっていたが、次第に『兄』のようにセリオン様を慕うようになった。
ある夜のこと。
今日も、セリオン様が様子を見にこの泉を訪れた。
私は、セリオン様自らがお創りになられた泉で生まれた神とはいえ、過分に可愛がっていただいている自覚があった。
だから別にこれは、なんてことない些細な疑問だった。
「セリオン様は、どうしてこんなに私に優しくしてくださるのですか?」
セリオン様は一瞬だけ驚いて、ふっと柔らかく微笑んで私を見た。
「……君は、特別だから」
「特別、ですか?」
セリオン様が創造した精霊や女神は数多くいる。
私もその中の1人であり『特別の理由』は思いつかなかった。
もう少し聞いてみようと思った次の瞬間、そっと顎をすくい上げられ、視線が絡め取られた。
「え…ッ、セリオン様…?」
私の声はかすかに震えていた。
セリオン様は微笑む。
けれどその微笑みには、柔らかさと、熱を秘めた影があった。
「…知りたいかい?」
「えッ…そ、その…」
彼の手が、頬をなぞるように滑る。
「……わたしはね。求められることに、ずっと疲れていたんだ」
月の光に照らされた泉で、セリオン様はぽつりと言った。
「他の神も、人間も、わたしに『力』を求める。気候を操れ。地脈を整えろ。恵みの雨を降らせ、って。まるで、それが当然かのように。神とは、与えるものだと」
その横顔には、神とは思えないほど深い疲労が滲んでみえた。
「彼らはね、わたしに『愛』も求めたんだ。水神の子を残したい、セリオンの祝福が欲しいって。…でも、君は」
セリオン様のどこか熱を帯びた視線が、私を見た。
「……君だけは、わたしに何も望まなかった。水の加護が欲しいと願ったこともない。神の名を借りて、力を欲したこともない。子を望んだことも、欲望を押し付けることもなかった。…君は、泉の女神として与えられた役目を全うし、わたしが来れば優しく微笑んでくれた。…それがどれほど救いだったか。君にわかる?」
セリオン様の指が、私の髪を撫でる。
「皆が、神としての『セリオン』を欲した。でも君はただの『セリオン』として、わたしを見てくれた。それだけで、君はわたしの特別なんだ」
その声音には、限りなく深い甘さと、ほんの僅かな狂気が混じっていた。
「…君には、ずっとそのままでいて欲しい。君になら、わたしの全てをあげたっていい。…だからずっと、わたしの女神でいてくれ」
「セリオン様…」
***
寒い冬が終わり、雪が解けて、暖かい春がやってきた。
そんなある日。
森の奥に差す光は穏やかで、泉の水面は凪いでいた。
私は光に手を伸ばすように、泉の中で揺蕩っていた。
その時、微かに地面を踏み締める音がして、泉に何かが投げ込まれた。
水中に落ちてきたのは、『指輪』だった。
古そうだが、大きな青い宝石が嵌っており、なにやら古語で文字が刻まれている。
私は指輪を手のひらで救い上げ、ゆっくりと水面へ浮上した。
久しぶりに『仕事の日』が巡ってきたのだ。
泉のほとりにいたのは、一人の青年だった。
すらりと伸びた背丈。整った身なり。金色の髪に碧眼。
絵本の中から抜け出してきたような、人間の世界では王子と呼ばれるような人。
そんな、この森とは不釣り合いに見える青年を、私はどこか懐かしく感じた。
私は彼に向き直り、泉の女神として自らの役目を果たす。
金と、銀の指輪を生成し、まずは金の指輪を手に取る。
「ーーあなたが落としたのは、この金の指輪ですか?」
私は金に輝く指輪を掲げる。
試すように、でも、穏やかに。
「……いいえ、それは違います」
青年の目が少し揺れた気がしたが、答えは変わらなかった。
「では、この銀の指輪ですか?」
「それも違います」
「……では、こちらの古い指輪が、あなたの落としたものですか?」
青年は、静かにうなずいた。
「はい。それが、僕の指輪です」
私は少しだけ目を細める。
嘘偽りのないその瞳に、かつての少年の影を見た気がした。
けれど私はまだ、確信を持てなかった。
「…正直者であるあなたには、三つの指輪すべてを贈りましょう」
手のひらに指輪をのせ、差し出す。
それはこの泉の女神に課せられた『女神の仕事』の重要な儀式。
拒まれたことなど、今まで一度もなかった。…1人の例外を除いては。
なのに、青年は、そっと首を振った。
「……いえ。それは受け取れません」
「……どうして、ですか?」
問いかけた私の声は、少しの不安と期待をはらんでいた。
彼は、まっすぐに私を見て、ゆっくりと口を開いた。
「その指輪は『あなたへの落し物』です。だから、あなたから返されるのは嫌です」
その瞬間、心の奥がざわりと揺れた。
白い花束、甘い果物、木彫り。泉の底の宝箱で眠る返せなかった落し物が頭をよぎる。
(まさか、そんな…!)
あの声。あの目。あの、真っすぐすぎる言葉の癖。
「……レオナルド…?」
彼は、少しだけ泣きそうな顔をしてから、すぐに笑顔を作った。
「はい。…5年も来られずにごめんなさい。…ずっと、あなたに会いたかった」
レオナルドは指輪ごと私の両手を握りしめ、強く引いた。そのまま私を強く抱き寄せる。
私は、言葉を無くしていた。
「エルミア様…会いたかった…本当に…」
強く、強く私を抱きしめる彼の瞳は、あの日と同じ熱をはらんでいた。