3.
泉の底で、私はただ流れる水に身を委ねていた。
時の流れがとても緩やかで、とても遠くなった気がしていた。
いつもの私なら、暖かい日差しを浴びながら小鳥の歌を聞いて、森の精霊と世間話をする。
もし落とし物があれば、女神の仕事をする。
でも今日は。…今日も、何もする気になれなかった。
「……君らしくないね、エルミア」
柔らかな水音と共に、知らないはずの気配が泉に満ちた。
目を開けて急いで浮上すると、そこには、見間違えようのない男の姿があった。
___セリオン様。
神界の西域を司る、水を司る神。
この泉を創ったお方であり、私を創造された方でもある。
人間でいうと『お父様』にあたるのだろうか。
長い銀青の髪を靡かせ水面に立つ彼の姿は、夜の泉に射す月明りのように、静かで冷たく、美しかった。
「精霊たちの間で噂になっているよ。『正直者の泉』の女神が、もう何日も水面に姿を現さないって。何かあったの?」
セリオン様の声は穏やかだった。私を慈しむような優しい声。
それなのに、どうしてか問いただされているようにも感じた。
「…何もありません。すこし、疲れているだけです」
私はそう答える。嘘ではない。けれど、本当でもない。
セリオン様は水の上を歩き、私の近くまで来ると優しく微笑んだ。
「そう。なにもないならいいんだよ。君のそんな顔は初めて見たから、もしかして人間に何かされたのではと心配していたんだ」
「……いえ、そのようなことは何も。ご心配をおかけし、申し訳ございません」
私が恭しく頭を下げると、セリオン様は頭を撫でた。
「…そういえば、君の元に通っていた少年がいたね。レオナルド、だったか。正直でよく笑う、馴れ馴れしい子が」
「…え?」
私は彼の言葉の端に棘が刺さったような小さな痛みと、違和感を感じた。
(馴れ馴れ、しい…?)
聞き間違いだろうか。
セリオン様はお優しい神だ。
気まぐれに水害を起こすようなこともなく、人間が雨乞いの儀式をすれば、笑って応えてくださるようなお方。
そんなお方が「馴れ馴れしい」なんて言葉…。
「…ねぇエルミア、これだけは覚えておいて。人間の心は変わる。その時は真実でも、翌日には嘘になってしまうこともある。悲しいよね。…君は人間が嘘をついているかどうか分かるから、余計に彼らを信じてしまうだろう。でも、彼らに心を明け渡してはいけない。彼らの囁く愛は『偽物』だ。…君は純粋な女神だ。きっと彼らの残酷な嘘に、傷ついてしまうだろう」
「……そう、なのでしょうか」
確かに、レオナルドは約束した春になっても泉に来なかった。
「春になったら来る」と言ったその言葉は、神の力で嘘ではないと分かった。
私を「好きだ」と言ってくれたのも、噓じゃなかった。
…でも、今は?
「エルミア。君は初めて愛を囁かれて混乱してしまっただけ。君が人間の行動に一喜一憂する必要はないんだよ」
セリオン様はすべてを見透かすような視線で私を見た。
「…いいかい、エルミア。神と人間では幸せになれない。嘘を見抜ける君では、特にね」
「…ッ、でも…もしかしたら、何か用事があって来られないかもしれません…」
セリオン様の前でそう口に出してから、やっと自覚した。
嘘をつかれたと思いたくない。
彼は他の人間とは違う。
私はレオナルドを、信じたいのだ。
「…エルミア。そんなに彼が大事なの?」
「…彼は、正直者でした。嘘をついたことなど、一度もなかったのです」
「……そう。……わたしの女神が、わたしよりも『いなくなった人間』に心を砕いているのは、あまり面白くないな」
「…え?」
「ふむ…よし、決めた」
セリオン様は妙案を思い付いたように微笑みながらこう言った。
「人間の代わりというのは癪だけど、出来る限りこの泉に足を運ぼう。君がわたしの神殿に来るのは大変だしね」
「ッそ、そんな!多忙なセリオン様にそんなことをしていただく理由がありません!」
セリオン様にとって、私はただの小さな泉の女神のはず。
偉大な神である彼に、自分のような弱い女神がそこまでして貰える理由が分からなかった。
「なぜ君がそんなに落ち込んでいるのか分からなかったけど、きっと君は寂しいんだよ」
「…さ、寂しい…ですか?私が?」
「うん。神にはそんな感情がないけど、君は神よりも人間と関わる時間の方が長かっただろう。…わたしはね、君にいつものエルミアに戻って欲しいんだ」
私の頭を撫でて、そっとこめかみに口付けを落とす。
そして、耳元で優しく囁いた。
「神は嘘をつかない。わたしは君に永遠を誓えるよ。あの少年がやってきても、君を守ってあげる。君と同じ神である私なら、君にそんな顔はさせないよ」
「…セリオン、さま…」
「…うん。そうして君がわたしの名前を呼ぶのは心地いいね」
セリオン様は子供をあやすように私に寄り添い、頭を撫で続けた。
「…もし、またあの少年がやって来ても、心を明け渡してはいけないよ。君は『女神』なのだから。……それが出来ないなら、この泉の調和を乱す存在は『排除』しないといけないからね」
ゾッ…!と背筋が凍るような気持だった。
「ッ、仰せの…ままに」
そう言った私の声は、まるで他人のもののように聞こえた。
セリオン様は、ただ微笑んでいた。
けれど、その沈黙の中に、鉛のような空気を感じた。
やがて、彼は静かに言った。
「…理解してくれて嬉しいよ。君は従順で美しい。わたしの自慢なんだ」
「ッ…」
優しい声だった。
子猫を甘やかすような、柔らかい声音。
「わたしは、君が『人間のせいで傷ついている』なんて、二度と聞きたくはないからね」
「…ッ、はい…」
私の頬に手を添えて、髪を耳にかけながら、彼は私に言い聞かせた。
セリオン様は私に寄り添い、慰めようと優しくしてくださっている。
でもそれが、少し恐いと思ってしまうのは、どうしてだろう。
私が頷くと、セリオン様は微笑んで、ゆらりと泉の底に立ち消えた。
私は、もうレオナルドのことは忘れ、女神としての仕事に集中しようと決めた。
___私は、セリオン様の…泉の女神なのだから。