11.
神殿の中、庭園。
あたたかい日差しに照らされながら、私はセリオン様と共にいた。
セリオン様は私の髪を撫で、耳元で優しく囁く。
その声音は甘いのに、どこか無機質だった。
私はじっと黙ったまま、目を強く閉じて、セリオン様に身を預けていた。
その時だった。
慌ただしく地面を駆ける音がして、庭園に人影が現れた。
「……エルミア様!!」
うそだ。…ありえない。
こんなところに来られるはずがない。
だって彼は人間で…
「…レオ、ナルド……?」
でも、私の口は、意図せずとも言葉を紡いでしまった。
愛しいその名を口にした瞬間、私を抱く腕が痛いくらいに強くなる。
セリオン様の瞳が鋭く細まった。
「……もの好きだね。わざわざわたしに殺されにくるなんて」
セリオン様が私を離し、ゆるやかに立ち上がると、刹那、天気が一変する。
空は雨雲に包まれ、激しく雨が降る。
まるで、セリオン様の心を反映しているようだ。
「…殺されに?いいえ、違います。僕はエルミア様を取り戻しにきただけです」
レオナルドは、濡れた足元に踏ん張りながら、まっすぐセリオン様を見つめた。
「取り戻す?…まるで彼女がお前のモノのように聞こえるね」
「…彼女はモノではありません。でも、僕の隣にいて欲しい。だから僕は、それを叶えにきただけです」
レオナルドが剣を抜き、セリオン様を見つめる。
その言葉に、セリオンの表情がかすかに歪んだ。
「……そうか。では教えてあげよう。人間の『愛』とやらが、どれほど無力でちっぽけかということを!」
セリオン様が、静かに片手を上げた。
その瞬間、空気が凍る。
私にはわかった。
この気配、神ですら穿つほどの力が込められている。
レオナルドを、殺すつもりだ。
「エルミアを奪おうとする愚かな人間よ。お前さえいなければ、彼女は…きっとわたしに微笑んでくれる」
セリオン様の頭上で、大量の水が唸りを上げて渦を巻く。そこから放たれた幾筋もの水槍が、レオナルドに向かって飛んでいく。
レオナルドは剣で槍を弾き返すが、何本かは体をかすり、どんどん衣服が赤く染まっていく。
「人間ごときが!この程度で死ぬ弱い生きものが!…わたしのエルミアに言い寄るなど…!恥を知れ!」
「…ッ!それでも!エルミア様を愛してしまったのだから、黙って去ることなど出来ません!」
レオナルドは必死に争い、水槍を受けながらも前進する。
「………はぁ…面倒だ。これで終わりにしよう」
そう呟いたセリオン様の背後で、大きな水柱が立ち昇る。水柱は高速で回転し続け、次第に先端を尖らせていく。
「セリオン様!?おやめください…!彼が死んでしまいます!」
「……死んでしまえば!君はわたしを見てくれる!」
「セリオン様!!」
あんなものが当たったら、人間は…レオナルドはひとたまりも無い。
(ッ間に合って…!)
私は、思考より先に身体を動かしていた。
「レオナルド…!!」
彼の名を呼んだ瞬間、私はその胸に飛び込むようにして立ちはだかった。
水の柱が、私の腹を裂いた。
「ッ……あッ…」
脇腹に、冷たい痛みが走る。
神の力によって強大なエネルギーとなった水が、容赦なく私の身体を貫いていく。
それでも…
(これでいい……あなたを、死なせるくらいなら…)
私はそのまま、レオナルドの腕の中に崩れ落ちた。
「エルミア様ッ!!」
「エルミア!?」
レオナルドの叫びが遠くで響いた。
私は彼に抱かれながら、意識が遠ざかっているのを感じていた。
…熱い。痛い。でも、私は同時に安堵していた。
(やっと、レオナルドに会えた…)
彼の頬に手を伸ばす。
彼の瞳は驚愕と涙で濡れていた。
その時、セリオン様が、目を見開いたままゆっくりと膝をついた。
「……どうして、どうしてなんだ…?何故、そこまで…」
その言葉は、まるで自分で自分を傷付けたようだった。
私は、レオナルドの腕の中で顔を上げた。
セリオン様の瞳に浮かんだ涙が、まるで水の雫のように静かに流れ落ちていく。
「わたしは…そこの人間と何が違う…?君に寄り添い、彼と同じように愛を囁いた…そうだろう?」
かすれたその声が、叫びが、私の胸を貫いた。
「どうしてわたしでは……だめなんだ……!」
まるで、泣きじゃくる子どものように、彼は呟いた。
「君はわたしが創った……わたしの女神なのに…どうして…?」
セリオン様は、私の創造主だ。
私が泉の女神として在るのは、彼の加護と愛があったからこそ。
誰よりも近くで私を見ていてくれたのは、きっとセリオン様だった。
「……どうして?……どうして、彼なんだ……彼は人間なのに……」
その問いかけに、私はすぐに答えることができなかった。
けれど。私を抱く優しいひとが、微かに、震える声で言った。
「…理由なんて、きっとないのだと思います」
セリオン様の肩が、ぴくりと揺れた。
「僕は、神ではありません。力もなければ、不死でもない。それでもエルミア様を思う気持ちだけは、神であるあなたにすら負けないと自負しています。…僕は、神に喧嘩を売ってでも、エルミア様と共にありたかった。彼女が好きなんです。愛しているんです。…その気持ちに、神も人間も関係ないのです」
「……わたしが彼女を思う気持ちが、人間に負けたといいたいのか?」
「…いいえ、ッそうでは…ありません」
私の声はかすれていたけれど、ゆっくりと身体を起こし、セリオン様を見て微笑んだ。
「エルミア…」
「…レオナルドが弱い人間だから、彼を助けたわけではありません。セリオン様が強い神だから、あなたを選ばなかったわけでもありません。…違うのです。ただ…」
私はレオナルドを見つめた。
その瞳の奥には、何度見ても変わらない誠実さがあった。
私が泉の底で忘れようとして、忘れられなかった、たったひとつの光。
「ただ…私はただ、レオナルドが好きだから。だから彼を、助けたいと思いました。彼に死んで欲しくなかった。…レオナルドを、愛しているから」
レオナルドは、ただ静かに、私を見つめていた。
涙を浮かべているわけでも、声を上げるわけでもない。
それでも、その瞳の奥に灯った光はたしかに嬉しそうで、幸せの色をしていた。
彼の唇がそっとこめかみに降ってくる。
言葉にならない想いが、額からじんわりと伝わってきた。
「……ありがとうございます、エルミア様」
その一言が、胸の奥に染みた。
セリオン様は、まるで夢から醒めたように呆然と立ち尽くしていた。
水の神であるはずの彼の髪も衣も、しっとりと濡れて肩に垂れ下がっている。
頬を伝う水滴が、涙なのか、ただの水なのか、それすら分からなかった。
「……君は、いつもそうだ」
掠れた声が、静かに落ちる。
「泉で君と話していると、時折わたしではなく、わたしを通して別の誰かを見ている。あの頃から…お前が居なくなった時から…ずっと、そうだった…」
彼の目は、私ではなく、私の向こうにいるレオナルドを見ていた。
それでも、彼の声は私に向けられていた。
「……わたしは、君にわたしのことを見てほしかった。…ただ、それだけだったのに」
「……セリオン様」
私はよろめきながら立ち上がり、一歩、彼に近づいた。
レオナルドに支えられながら、もう一歩、セリオン様に近付く。
「…セリオン様、私はあなたが創造した女神です。あなたの優しさに、愛に、私は育てられました。セリオン様、あなたに思っていただけて、私は幸せです」
その声に、セリオン様の肩がわずかに震えた。
「セリオン様。私にとって、あなたはかけがえのない存在です。『特別』なのです」
私はそっと、彼の手を取る。
一瞬、彼は拒むようにその手を引こうとした。けれど、それを私が包み込むように、離さなかった。
「……私は、レオナルドを愛しています。でも、セリオン様。あなたのことも敬愛しております。心より、感謝しています。…どうか、どうかそれだけは、信じてください」
セリオン様は、ゆっくりと目を閉じた。
そして小さく息をつき、微笑んだ。
それは、とても弱々しくて、痛々しい。
それでも、子どもが泣き終えた後のような、穏やかな顔だった。
「……そうか。なら、もう…君を、閉じ込める理由はないね」
セリオン様が手を離すと、神殿を包んでいた結界が、静かに消えていった。
雨雲が流れ、柔らかい日差しが差し込む。
静かに、静かに世界が澄み渡っていく。
セリオン様が私の方へ手をかざすと、お腹の穴はゆっくりと塞がっていった。傷が、癒えていく。
レオナルドが私たちの元に歩み寄り、セリオン様に頭を下げた。
「……あなたがエルミア様を守ってくださったから、いまの彼女がいるのだと思います。心より、感謝いたします」
セリオン様は、目を伏せて頷いた。
「……行きなさい。君たちの場所へ」
その声は、もう怒りでも、嫉妬でもなかった。
そして私たちは、静かに、神の神殿をあとにした。
背後で、微かに水音が響いた気がした。
それは、誰にも届かない、静かな神の涙のようだった。