中 編
宮殿を出て、待たせていた馬車に乗りこんだところで、エルフリーデが俯いて肩を震わせ始めた。馬車に同乗していた侍女のパウラはそれに気づき、低い声で囁く。
「もう少しだけ我慢なさってください、お嬢様」
「ええ……」
エルフリーデは頷いたものの、肩の震えは止まらない。たとえ馬車の内部にいるとはいえ、城内ではどこで誰がどのタイミングで見ているともしれないのだ。警備の都合で、城門を出るまでの馬車はとかく注視される。淑女としての仮面は、まだ被っている必要があった。
やがて、馬車が大通りに出て、宮殿から十分に離れたことを確認したところで、パウラが言う。
「もうよろしいですよ、エルフリーデ様」
その言葉を待ちに待っていたエルフリーデは、抑え込んでいた感情を一気に解き放った。
「やったーっ!」
子供のように両手をあげて万歳すると、馬車の中に響き渡る大声で歓喜を上げた。その顔は、先ほどまでの儚げな侯爵令嬢のそれではなく、心底嬉しそうな、悪戯っぽい少女の顔だった。
パウラは軽いため息をついた。はしたないとエルフリーデを諫める。
「いくら嬉しくても、淑女のなさることではございませんよ」
その声に、エルフリーデはぴたりと動きを止め、パウラの方を向いた。そして、満面の笑みで言い放った。
「だって、あの不良債権とやっとオサラバできたのよ!? これほど嬉しいことある!?」
「……それについては、大いに賛同いたしますが……」
「ね、そうでしょう?」
パウラとて反対意見はない。それほどに、あの婚約者はこれまで心労の種でしかなかった。
二人は顔を見合わせて笑いだした。一度堰を切ると、もう止まらない。エルフリーデとパウラは、ひとしきり元婚約者に関して、遠慮のない愚痴を言い合う。
女好きで軽薄。考えが浅く迂闊。身分が下の者への態度が傲慢。そしてなにより、自身の兄と張り合うことしか頭にない子供っぽさ。悪口は、際限なく溢れ出る。
しばらくして、悪口の応酬が一段落したところで、二人はふと我に返る。他者の耳目がない場所とはいえ、高位の貴族令嬢とその専属侍女らしからぬ数々の発言を後悔した。ほんの少しだけ。
もっとも、そのささやかな後悔も、すぐに別の感情に打ち消された。エルフリーデは、うっとりとした表情で呟く。
「ああ、それにしても、今日のアルノルト様もとても素敵だったわ……」
パウラは、また始まった、とばかりに少々遠い目になる。
「お嬢様は、イケメンがお好きなんでしょうか。お小さい頃は、テオバルト様とディートリヒ様にもキャーキャー言ってらっしゃいましたし」
「それはまあ、イケメンは好きよ」
エルフリーデはあっさりと認めたが、すぐに首を傾げた。
「……あら? でも、やっぱりちょっと違うわね。だって、あのバカだって、世間じゃイケメンに分類されてるじゃない?」
パウラが冷静に分析する。
「確かに顔立ちは整ってらっしゃいますね。現王妃様譲りの金髪碧眼ですし、見た目だけなら極上だと思います。派手で分かりやすい美しさという点では、アルノルト殿下より好む方もいらっしゃるでしょう」
「でも、ちっとも私の好みじゃないもの!」
エルフリーデはきっぱりと言い切った。
「私にとってイケメンの最高峰は、アルノルト様のご尊顔だわ。イケメンであれば、どの方でもいいというわけではないのよ。それに、アルノルト様はお顔だけじゃないもの! 頭も良くていらして、学院時代は常に主席でしたわ。王太子としてのお仕事でも有能さを遺憾なく発揮されてらして、配下の方々皆に慕われていらっしゃるわ。今日のモーリッツ様の、殿下を庇う必死な様子を見ても、その信頼関係がよくわかるでしょう? ああ、完璧!」
エルフリーデのアルノルト賛美は止まらない。パウラは、いつものことだと諦め顔だ。
「お嬢様、家の諜報部をそのような情報を集めるために使うのは、いかがなものかと思いますが……」
パウラがやんわりと指摘する。エルフリーデがシュトライヒ家の諜報網を、もっぱらアルノルト殿下に関する情報収集のために活用しているのは侯爵家の内々では有名だ。自分のお小遣いから特別報酬を出しているため、両親も兄弟も家令もなにも言わないでいるが。
「あら、あのクズの情報も、ちゃんと集めていたわよ? だから今回、カミラとの浮気だって早々と証拠を押さえて、それとなくテオバルト様にリークできたんじゃない。おかげで私はアレと婚約解消できたし、アルノルト様がカミラなんかと結婚するのも阻止できたし! 結果オーライじゃないの!」
エルフリーデは得意げに胸を張った。その開き直りに、パウラはもはや何も言えない。
「……呼び捨てはよろしくありませんよ、お嬢様」
かろうじて、言葉遣いを注意するのが精一杯だった。
「あら、いけない。あの女と言えばよかったわね」
「それもどうかと思いますが……」
パウラは再び溜息をついた。しかしエルフリーデは気にする様子もなく、ご機嫌だった。
「はあああ、アルノルト殿下と二人きりでお茶だなんて! どれほどのご褒美? 最後にこんなにいい想い出ができて嬉しすぎるわ! まさか、あの不良債権の婚約者をやっていた3年が、こんな形で報われるなんてね!」
エルフリーデは、恍惚とした表情で天井を見上げる。
「もっとも、アルノルト様に頭を下げさせてしまったのは、とても申し訳なかったわ。今日は最初から様子がおかしいと思ったのよ。あのゴミのことで相当気に病んでらしたのね……。本当に、あんなのが弟だなんて、なんともお気の毒よね。面倒なことは全部アルノルト様に押しつけて、今日だって自分は顔一つ出さなかったじゃない? 本当にクズ・オブ・クズだわ!」
元婚約者への罵倒が止まらない。
「それにあの女、やっぱりおバカさんだったのね。せっかくアルノルト様の婚約者に納まってたというのに、よりにもよってアレと浮気だなんて、ねぇ、つくづく趣味悪いったらないわ!」
次いでエルフリーデの口から、王太子の元婚約者への辛辣な評価も飛び出す。普段の淑女からは想像もつかないような言葉が次々と溢れ出す。
「わかりましたから、お嬢様、一息つきましょう。なんだかどんどん言葉遣いが悪くなってらっしゃいますよ。せっかくそのように儚げで庇護欲をかき立てるようなお姿なのですから、殿方の夢を壊さないように常にご注意なさってください」
エルフリーデは、蜂蜜色の髪と宝石のような緑の目が美しく、小柄で華奢なためか、線の細いか弱げな印象を与える容姿をしている。その利点を最大限に活かせるよう、幼い頃から徹底的に教育された。目元口元には常に優しい微笑を湛え、所作は淑やかに。見た目だけであれば非の打ち所のない、まさに深窓の令嬢そのものだった。
「普段はちゃんと猫を被っているんだから、こんなときくらい本当の私でいたっていいじゃない」
エルフリーデは、水の入ったグラスをパウラから受け取りながら、あっけらかんと言い放った。
「お嬢様は、アルノルト様のことになると、我を忘れて饒舌になりすぎます。くれぐれもお気を付けくださいね」
「だって、昔からファンだったんだもの!」
エルフリーデは、グラスの水を一口飲み、「んふふ」と楽しそうに笑った。
「アルノルト様はね、なによりお優しいところがいいのよね。学院時代には、困ったときに何度も助けていただいたわ。そうそう、あのクズと婚約させられる少し前に、王家主催のお茶会に行ったでしょう? あのとき、あの女の嫌がらせで倉庫に閉じ込められた私を助けてくださったのも、アルノルト様だったわ」
それはエルフリーデにとって、アルノルト推しを決定づける出来事だった。ちなみにパウラは、この話もすでに10回は聞かされている。
「そういえば一度、アルノルト様が騎士団で剣術の稽古をつけていただく様子を、こっそり覗いてたことがあるのだけど、とても凛々しかったのよ! 剣を構えるお姿とか、汗を拭う仕草とか、もう絵になるの! 剣技は得意ではないだなんておっしゃってたけど、あれは謙遜してらしたのね。それからね、それからね……」
王太子アルノルトを褒め称える、もはや「推し語り」と化した話は、その後も馬車が侯爵邸に到着するまで延々と続いた。
ヴィルヘルム第二王子との婚約解消について、エルフリーデを慰める必要は、全然まったくこれっぽっちもなさそうだ。パウラはそう思った。