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前  編

 案内されたのは、王太子の執務室だった。重厚な調度品に囲まれた一室で、ソファに掛けるエルフリーデは居心地の悪さを感じていた。


 ローテーブルを挟んで向かい合うアルノルトの姿をさりげなく見やる。本来であれば、王太子の彼が侯爵令嬢である自分より下座に座るなど、あり得ないことだ。しかし、当の王太子自身に指定された位置を固辞するわけにもいかない。ソファは窓から差し込む光が柔らかく当たる、最も居心地の良さそうな場所だったが、その配慮がかえってエルフリーデを落ち着かなくさせた。


 宮殿の侍女が二人分のティーカップに丁寧に紅茶を注ぎ、音もなく部屋を辞した。アルノルトの背後には侍従のモーリッツが、エルフリーデの背後には侍女のパウラが控えている。それ以外の側付きは、部屋に通された際に「二人きりで話したい」というアルノルトの言葉で、全員が部屋から出て行ってしまった。その異例の状況もまた、エルフリーデの緊張感を高める要因となっていた。


 ティーカップを口元に寄せながら、エルフリーデは目の前の王太子をそっと観察する。黒髪黒目の端正な容貌は、彼の祖母である先代王妃によく似ていると聞く。普段のアルノルト殿下は、常に穏やかな笑みをたたえ、どんな相手にも理知的に対応する、絵に描いたような理想の青年だ。民からの人気も厚く、将来の国王として誰もが期待を寄せる存在として、エルフリーデ自身も幼い頃から彼に密かに憧れを抱いていた。


 だが今日の彼は、普段の落ち着き払った様子とは明らかに異なっていた。微かに強張った表情をしており、声にもいつもの柔らかな響きがない。まるで、初めて社交の場に出た子供のようにどこかぎこちなく見える。


 そもそも席に着いた瞬間、彼は突然、「本日はお日柄もよく」などと口にしたのだ。あまりに唐突で場の空気にそぐわない挨拶に、エルフリーデは咄嗟に返答できず、瞬きを繰り返すばかりだった。アルノルトの背後に控えていたモーリッツが、「殿下は本日はいい天気だとおっしゃりたかったのだと推察されます」と、さりげなくフォローを入れたのを思い返す。そのモーリッツですら、ほんの一瞬、困惑した様子を見せていたような気がした。


 絶対に何かがおかしい。エルフリーデは、冷めかけた紅茶を飲みながら、確信した。


 ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、いきなりアルノルトが深々と頭を下げた。その角度は、まるで臣下が主君に最敬礼をするかのようだった。彼の背後に立つモーリッツも、主君の突飛な行動に一瞬たじろいだ様子を見せたが、すぐに表情を引き締め、主と同様に頭を下げる。完璧に訓練された侍従とはいえ、この状況は彼にとっても予想外だったに違いない。


「いきなりどうなさったのですか? 殿下が私に頭をさげるなど……」


 エルフリーデは内心の動揺を隠し、淑女然とした口調で問いかけた。王太子が、一介の侯爵令嬢である自分にここまで敬意を示す必要など、本来であれば微塵もないはずだ。


「…………」


 アルノルトは頭を下げたまま、沈黙を保っている。その沈黙が、かえって彼の緊張の深さを物語っていた。


 エルフリーデは内心焦りながらも、呼びだされた場所がアルノルトの執務室だった理由に納得がいった。王太子がこのように謝罪する姿など、他者の目に触れさせてはならないのだろう。執務室であれば、立ち入る者は限られている。個室が望ましかったというより、この部屋以外ではあり得なかったのだ。


 なかなか本題に入ろうとしない彼の様子から、話の内容にもおおよその見当が付いた。おそらくは婚約に関することだろう。言い出しにくいのも仕方がなかろうと思って、エルフリーデは自分から先を促すことにした。慎重に言葉を選ぶ。


「殿下、何かお困りのことがおありでしょうか? 私にお手伝いできることでしたら、遠慮なくお話しくださいませ」


 アルノルトはようやく頭を上げ、しかし視線はやや伏せられたまま、重い口を開いた。


「実は……君に、頼みがある」

「はい、私にできる内容でしたら喜んで」


 深刻なアルノルトの物言いに、エルフリーデは温和な声で答えた。


「……婚約の解消をお願いしたい」


 やはりそうだった、とエルフリーデは心の中で呟いた。予測していたとはいえ、実際にその言葉を聞くと、わずかながら感慨を覚える。


「理由を教えていただけますか?」


 問いかけると、彼の目は完全に伏せられた。言いにくいのはわかるのだが、これは明確にさせておかなくてはならない。エルフリーデにも、シュトライヒ侯爵家の令嬢としての立場がある。曖昧なままでは、後々に問題が起こりかねない。


 アルノルトは一瞬の間を置いてから、意を決した様子で顔を上げ、ノイエンドルフ公爵家の令嬢であるカミラの名を上げた。そのカミラを妊娠させたこと。宮殿所属の医師が複数人で魔法を使って診断したため、子供の父親は確定されていること。国王陛下とノイエンドルフ公爵を交えて相談の上で、カミラとの結婚が決まったこと。そこまでを一気に話す。


「そのような訳なので、どうか婚約解消を承諾してもらえないだろうか」


 エルフリーデは、彼の説明を聞いても、まったく驚きを見せなかった。その冷静な様子に、アルノルトはわずかに戸惑ったようだった。


「カミラ様と非常に親しくしているという噂は、耳にしておりました。ですから、どうぞお気になさらないでください」


 エルフリーデは、穏やかな微笑みを浮かべて答えた。その態度は、貴族社会に生きる侯爵令嬢として当然の振る舞いだ。


 アルノルトは顔を伏せたまま沈黙した後、突然勢いよく立ち上がり、再び深く頭を下げた。


「たいへん申し訳ないことをした。君には筆舌に尽くしがたい侮辱を与えてしまった。すべて私の不徳の致すところだ。どうか、どうか、許してほしい」


 控えていたモーリッツが、主の過剰な謝罪に慌てたように一歩踏み出し、小さく「殿下、どうかもうお止めください」と囁いているのが聞こえた。王族が、まして王太子が、そうそう臣下に頭を下げるものではない。モーリッツの心中は察するに余りある。


 エルフリーデも慌てて立ち上がり、アルノルトに頭を上げるように言い募った。


「殿下がそこまでおっしゃる必要などありません。どうかお顔を上げてくださいませ。謝罪はもう十分です。あなたの誠意は十分に伝わっておりますから」


 アルノルトがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、未だ深い罪悪感が宿っているように見えた。


「いや、この程度ではまったくもって申し訳が立たない。……謝罪で許されるようなものではないのは重々承知している。なんなら、土下座をしよう」

「え、あの、土下座とは何でしょう?」

「極東の国における最高位の謝罪方法だ。跪き、掌と額を床に付ける体勢で、伏して詫びるのだと聞いている」


 聞き慣れない単語に、エルフリーデが思わず聞き返すと、アルノルトは真剣な顔で説明を続けた。さらに迷いなくその場で跪こうとする。


 モーリッツが悲鳴のような声を上げ、慌ててアルノルトの背後から羽交い締めにして、なんとか引き留めた。王太子が執務室で侯爵令嬢相手に土下座する、などという事態は、王太子の侍従として見逃せるはずもない。


 エルフリーデの背後に控えていた侍女のパウラも、普段の冷静さが嘘のようにあたふたしている。彼女は滅多なことでは動じないのだが、目の前の光景は彼女の許容範囲を超えていたらしい。


 エルフリーデは、土下座を敢行しようとする王太子、その王太子を抑えようとする侍従、その回りで手助けするべきかどうか迷いながら無意味に歩き回る侍女、というシュールな絵面に、現実感が薄れていくのを感じた。それでもなんとか片手で応接家具を示した。


「殿下のお祖母様は、確か極東のご出身でしたものね。……いえ、今はそのお話ではなくて、まずはお掛けくださいませ!」


 半ば強引にモーリッツに引き戻される形で、アルノルトは椅子に座り直した。エルフリーデもソファに腰を下ろす。二人の間にぎこちない沈黙が流れた。


 数秒、あるいは数十秒だったかもしれない沈黙の後、双方がようやく落ち着きを取り戻したところで、エルフリーデは再び口を開いた。今度は、先ほどよりも柔らかな、いくらか砕けた微笑みを浮かべてみせる。


「本当に殿下がそこまで謝罪なさる必要などありません。私とて噂を知っていたというのに、まったく何も対処しなかったのですから」


 実際、エルフリーデは何一つ行動しなかった。婚約者として当然すべきこと、たとえば殿下との関係を改善しようと努力したり、公爵家へ牽制を入れたりといった行動を、まったくしなかったのだ。そうアルノルトに説明する。


 それを聞いたアルノルトの目が、エルフリーデの顔をじっと見つめた。何かを探るような視線だった。


「ひょっとして、君は……」


 アルノルトの声が、わずかに上擦る。


「婚約解消を願っていたということなのだろうか」

「…………」

「……そうか」


 沈黙は肯定でしかない。アルノルトは明らかにホッとした様子を見せた。肩の力が抜け、表情が緩む。


「それでは婚約は解消してもらえるんだね?」


 アルノルトが前のめりになって強い口調で確認してくる。1秒でも早くこの件を確定したいとでも主張しているような熱心さだ。エルフリーデはアルノルトの勢いに気圧され、引き気味になってしまい、こくこくと首を縦に振った。


「ええ、承諾いたします」


 すかさずモーリッツが、数枚の書類をテーブル上に用意した。婚約解消に同意する旨が記された、正式な書類だった。


 促されて、エルフリーデはその書類に署名する。


 エルフリーデの署名を確認したアルノルトは、安堵するような表情を浮かべた。


「今後については、シュトライヒ侯爵を交えて話し合うことになる。君もその場への参加を希望するか?」

「いいえ。家同士の話し合いとなりますから、後のことはすべて父に任せようかと思います」


 エルフリーデはきっぱりと答えた。面倒な手続きに関わる気は毛頭なかった。


「そうか。それでは、後はすべてシュトライヒ侯爵と私とで決めていいのだな?」


 アルノルトが念を押すように尋ねる。やはり前のめりだ。その声には、どこか弾んだような響きすら感じられた。


「はい、それで結構です」


 エルフリーデが頷くと、アルノルトの表情がさらに明るくなった。


「決して君に悪いようにはしない。解決策はすでに考えているんだ。後ほど父に承認を得た上で、侯爵に提示するつもりでいる」

「そうなんですね。よろしくお願いいたします」

「ああ、突然呼び出して悪かったね。しかもこのような用件で」


 アルノルトの口調は軽やかだった。懸案事項が片付いたのであるから当然なのかもしれないが、一方で「これほど感情を表に出す方だったかしら」と不思議に思う。そんな内心の疑問は隠して、エルフリーデは丁寧に応じた。


「いいえ。お気になさらないでください。必要なことでしたから」


 エルフリーデは立ち上がった。


「それでは、私はこれで失礼いたします」

「手間を取らせたね。ありがとう。また改めてお茶でも……」


 アルノルトが言いかけた時、モーリッツが咳払いを一つした。


「あ、いや、それはまた機会があれば、ということで」


 アルノルトが口籠もる。その様子すら、先ほどの深刻な雰囲気とはまるで違い、どこか少年のような無邪気さすら感じさせた。


 その様子に、エルフリーデは物珍しさを覚えた。彼の瞳には達成感すら見て取れる。王太子自身には何一つとして落ち度がないというのになぜここまで、と訝しく思った。だが、王家と公爵家と侯爵家の関わる大きな問題が、円満に解決しそうだと安心したのかもしれない、そう自分を納得させる。


 あからさまに機嫌の良くなったアルノルトに見送られ、執務室を後にした。


 こうして、エルフリーデの婚約は正式に解消されたのだった。

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