恋を叶えてからの10年間〜妹姫を追いかけて、英雄は荒れた大地を再興します〜
この物語は「ルヴァイン王国・10日と10年の物語」第四弾です。
「失恋するまでの10日間〜妹姫が恋したのは、姉姫に剣を捧げた騎士でした」
「失恋してからの10日間〜姉姫が思いを寄せた騎士は、妹姫の手を取りました」
「恋を叶えるまでの10年間〜姉姫を手にいれるために、宰相補佐になりました」
上記の続編になります。前作を読まれていない場合、意味がわかりづらい構成となっています。
ルヴァイン王国連作短編第四弾
◆◆◆◆
ルヴァイン王国の英雄カーク・ダンフィルは、己の恋を叶えてから十年目に、これ以上ないであろうという幸福を差し出された。
「カーク、赤ちゃんが出来たみたい! ようやく、ようやくよ……っ」
涙するエステルにつられて己の頬にも流れる熱いものが、二人が心血注いできた南部の地に滴り落ちて、吸収されていく。
「エステル、ありがとう……本当にありがとうっ」
閉じられた目の奥に蘇るのは、この十年の始まりの記憶だった。国を救った英雄と王家の姫君の成婚として王都で盛大に祝福されたことが、昨日のことのように思い出される。
宿ったばかりのお腹の子の負担にならぬよう、細心の注意を払って妻を抱きしめながら、決して平坦ではなかったここまでの道筋に思いを馳せた。
◆◆◆◆
魔獣暴走から半年後、王都でカークとエステルの結婚式が盛大に行われた。その日から三日続けて祝賀行事も開かれ、国中がこの慶事に沸いた。二人に届けられた祝いの言葉や品物は数え切れず。それらを受け取りながらカークはこの幸せな時間に酔っていた。
隣には彼が長年思い続けた少女が花嫁として寄り添ってくれている。彼女の目標は姉姫の剣となることだった。そんな彼女を微笑ましく思いながら、自分もまた彼女を追いかけて騎士団に出入りしていた子どもの頃。
見守っているだけでは駄目なのだと気付かされたのは、姉姫ソフィアが街中で暴漢に襲われたときだ。咄嗟に身体が動いてソフィアを庇うことは出来たものの、未熟な自分は軽い怪我を負い、そのショックで気を失った。
目が覚めて、ソフィア王女が無事だったと知らされた直後、カークを襲ったのは——恐怖だった。傷を負った己の姿にエステルが重なってしまったのだ。彼女が姉姫のために剣を持ち戦うなら、こんなふうに切りつけられ怪我をし、倒れてしまうこともあるということ。死に致る可能性まで過れば、今までのように微笑ましく見ていることができなくなった。
だがこうと決めたら梃子でも動かないエステルを諦めさせることはできそうもない。だったらどうするか——自分もまた騎士になればいい。姉姫を剣で守るというエステルを守る剣に、自分がなればいい。いやならねばならない。
十歳のときの決意のままにカークは騎士を目指し、順調に准騎士にまで昇格した。
だがその頃にはエステルへの思いが、ただ守りたいという騎士道に基づいた気持ちだけでは説明づけられなくなっていた。三年の騎士学校での時間の間に消えてくれたらと願った淡い思い。卒業後彼女と再会した途端、ごまかしようがないほどにはっきりと育ってしまったと気づくことになった。
相手は王女だ。自分は爵位すら持てない下級貴族出の騎士。よほどの武功を上げない限り、彼女と結ばれることは難しい。この育った思いはなんとしても隠し通さなくてはならない。
なるべくエステルと顔を合わせぬようにしたいと思っても、カークを見つけた彼女はいつだってまばゆい笑顔で走り寄ってきた。無碍に追い返すことなどできるはずもない。カークだって彼女に会えたことがこんなに嬉しいのだ。
だから己の気持ちを隠すために、エステルの頭を撫でることにした。ぽんぽん、と軽く、気持ちだけは深く。そうやって彼女のことを、頭を撫でてやる関係のかわいい妹だと思い込もうとした。
だから魔獣暴走が発生し、聖剣が自分を選んだとき——彼は笑ったのだ。諦めなければならないと思っていた、妹のような存在と思い込もうとしていた彼女に、手が届くかもしれないと思って。
聖剣を携えて訪れた南部の領地は、想像を絶する地獄だった。生まれて初めて本気の剣を振るう、その相手は人ではなく魔獣だ。理性のかけらも持ち合わせいない獣は、人を襲い、喰らい、強靭な体躯で街を破壊した。人ならざる者との戦いの心得がある騎士などひとりもいない。討伐隊が体制を整えようとする間に、数を増やして森から出てきた奴らは、領土の多くを破壊し尽くした。
戦い方を学習し一斉反撃の狼煙を上げるまでに一年以上の時間を費やすことになった。他の騎士が斬った魔獣は、放置すればまた再生してしまう。カークの持つ聖剣だけが魔獣を完全に駆逐できるものとあって、彼はいつでも最前線にいた。油断したところを魔獣に噛みつかれたことなど数えきれない。斬っても斬っても終わりが見えぬ戦いを乗り越えられたのは、この先にエステルが待っていると信じられたからだ。
自分が死ねば、魔獣は足を王都まで伸ばすだろう。そこでソフィア王女を襲えば、姉姫を庇う盾となり、エステルも倒れることになる。それだけは絶対にさせぬと、十歳のときに抱いた決意を胸に最前線に立ち続けた。
魔獣の王にとどめを刺し、すべてが終わったと実感したとき。南部の暗い森の奥で、木々の隙間から覗く空の色がやけに綺麗だと感じた。魔獣を追っている間は鬱屈した嫌な場所だとばかり感じていた森の色が一変して、穏やかな深い緑を湛えていた。
あぁ、エステルの髪の色だと、カークは思った。清々しい空気を吸い込めば、日向のような彼女の匂いまでした。
(エステル、君に届いたよ——)
役目を終え光を失った聖剣を胸に抱きしめ、カークは希望を噛み締めた。
◆◆◆◆
何台もの豪奢な馬車で構成された花嫁行列は、一路、南部のロータス領を目指していた。
本来王都からロータス領に向かうには水路を利用した船の方が早い。だが南部の水路の復旧が間に合っておらず、時間はかかっても馬車で行くよりほかなかった。三週間以上の旅程となってしまったのは、王家の姫の輿入れ道具を引き連れた一大キャラバンのような形態となったからでもある。十七歳のかわいい妹姫のためにと両親が熱を入れた結果だ。王都から南部に至るまでの間も、至る所で花嫁行列は国民たちの熱狂的な出迎えを受けた。
その華やかな空気も楽しみながら、二人はひたすら南部を目指す。魔獣暴走で後継を失った南部のロータス伯爵家の養子になることを打診されたカークは、エステルや国王両陛下にも相談した上で引き受けることにした。英雄として侯爵位も授かり、正騎士として約束された未来もあったが、王家の姫君を貰い受ける以上、領地はないよりもあった方がいい。壊滅状態の南部地域をこの目で見ていることもあり、このまま何もせずにいるのもどうかという純粋な思いもあった。
とはいえ領地経営にはカークもエステルも不慣れだ。義父となるロータス伯爵の存在はあるが、彼は高齢ですべての舵取りが難しい。そのため王都から領地経営に長けた知識を持つ執政官と税務管理官が二人に先立って現地入りしていた。
順調に旅を続けていた一行だったが、ロータス領に入って少しばかり進んだところで、馬車の乗り換えを求められた。王家が用意した豪奢な馬車でなく、ロータス伯爵家から遣わされた小ぶりの馬車だった。
「乗り換えは構わないが、なぜだ?」
エステルは一般的な女性よりは鍛えてはいるが、王都を出るのは初めてだし、長旅の疲れもある。負担を考えたカークがそう問えば、道が整っておらず、王家の馬車が通れないのだと使者が説明した。その話を車内のエステルに伝えれたところ、「なら馬に乗り換えればいいんじゃない? ずっと座りっぱなしでお尻が痛かったのよね」とあっけらかんとしたものだった。エステルの乗馬の腕はそう悪いものではないが、慣れぬ街では警護にも限界があるし、道中のエステルは簡素とはいえドレス姿だったので却下せざるを得なかった。エステルと侍女一名を伯爵家の馬車に乗せ、カークは馬で向かうことになった。花嫁道具の方は小分けにして運べるものから運ぶことで話がまとまった。
この判断は正解だったと、すぐに思い知ることになる。
主要な街道を少し進んだだけで、魔獣暴走の爪痕がより深く残っている様を見せつけられることになった。崩れ落ちた建物の脇や前方に、雨露をなんとかしのげるだけの家屋が再建され、それが道幅を狭くしていた。元の場所に建てようにも瓦礫が邪魔でできないのだ。人の気配はちらほらあったが、これまでの街で味わったような熱狂的な歓迎ぶりはまったくない。全体的に街の様子が静かで、エステルを守るように歩みを進めていた騎士たちも、だんだんと言葉少なになっていった。
「酷ぇな。半年前とほとんど変わってないじゃないか」
魔獣暴走に共に対応した騎士のひとりが思わず呟いた言に、カークも唇を噛み締めた。自分たちはぎりぎりまでここに止まっていたので現地の様子は見知っている。特にこの辺りは森が近いこともあり、被害が大きかったところだ。半年前の記憶の中よりは良くはなっているが、まるで時が止まってしまっているかのようだった。
先ほどまで馬車の中から隣を行くカークに積極的に話しかけていたエステルが、いつの間にか無言になっていた。心配になって外から覗き込めば、青白い顔をした彼女がそこにはいた。
「エステル、大丈夫か」
「……」
返ってきたのは沈黙。無理もない話だ。王都以外の場所を見たことのないエステルにとって、この瓦礫の様子がひとつの街の光景だとは信じられないことだろう。そもそも彼女に見せていい風景ではない。そこに思い至らなかった自分に歯噛みすると同時に、馬に乗せていなくてよかったと先ほどの選択を肯定する。
同乗している侍女に窓とカーテンを閉めるよう指示を出せば「待って!」とエステルが声を震わせた。
「このままにして」
「しかし……」
「カーク、お願い。ちゃんと……見せてほしいの」
意志の強い琥珀色の瞳にそう懇願されれば、それ以上止めることなどできなかった。
「危険があったらすぐ閉めさせるぞ」
「……わかったわ」
そしてエステルは伯爵邸に到着するまで、その瞳を逸らすことなく街を見続けてた。幸い邸がある領都の中心部は復興が進んでいて、人々の往来もあり、少し鄙びた街という風情を整えていた。だが同行していた南部出身の騎士からすれば、この景色すら信じられないと言う。
「南部地域といえば王国の食糧庫とも例えられる豊かな穀倉地帯です。例年今ごろは目が醒めるほどの鮮やかな麦秋が至る所に広がっているはずなのに……」
見渡す限りあるのは手を入れられることなく荒れたままの畑。今年の麦の作付けは間に合わなかったのだろう。故郷での任務に張り切っていた若い騎士は涙ぐみながら馬を進めていた。
やがて到着した邸で、ポール・ロータス伯爵が出迎えてくれた。
「ルヴァインの宝石、エステル王女殿下のお越しを心より感謝申し上げます。英雄殿も、このような荒れ果てた土地に戻ってきてくださり、歓喜に堪えません」
齢七十を超える彼は、魔獣暴走の戦いで一人息子を亡くしていた。息子には妻がいたが、二人の間に子はなく、いずれ他家から養子を迎える手筈を整えるはずだったと言う。だが魔獣暴走以前ならともかく、ここまで荒れ果てた領地を引き受けてくれる者も、また安心して任せられる者も見つけることができなかった。夫を亡くし体調を崩した息子の嫁は他領にある実家で静養中で、おそらく戻ってくることはないだろうと、事前に知らされていた。
「ですのでカーク様とエステル様が名乗りを上げてくださったと聞いて、神に感謝したほどです」
「名乗りを上げた、ですか? 待ってください、伯爵の方から依頼されたのでは……」
カークがそう質問を挟もうとしたが、老伯爵は感極まったように目を潤ませ、唇を震わせていた。
「王家は我が領地を見捨てたりなどされなかった……! 英雄殿と王女殿下を遣わせてくださったことがその証拠でしょう。国王両陛下と王太女殿下にも心から感謝申し上げます」
そのままとうとう泣き崩れてしまった伯爵は、感激が過ぎて朦朧としてしまい、執事にベッドへと運ばれていった。
とんだ挨拶となってしまったが、それよりもカークが優先しなければならないことがあった。
「エステル、大丈夫か? 疲れただろう。メイドたちに湯浴みの準備をさせるから、今日はゆっくり休むといい」
「カーク、私は元気だから大丈夫よ。そんなことより……」
何か問いたげなエステルだったが、城から連れてきた侍女が使用人を従えて部屋に入ってきたことで一旦押し黙った。
「失礼いたします、エステル様。馬車が足止めされてしまったことで、荷物が全部届いておりません。急ぎこちらの物だけ運ばせましたが、残りは明日以降になるそうです」
運び込まれたものはトランクや長持だった。男たちが担いできたものをメイドたちが受け取っている。
「それは何」
「ドレスがほとんどですわ。トランクの方には宝石とお化粧道具……あぁ湯浴みに必要なお道具も入っていますね。エステル様のお世話には全然足りませんが、仕方ありません。明日になればもう少しマシになるかと」
「ドレスって言った? ちょっと見せて」
「え……、あ、エステル様!」
ずんずんと長持に近づいた彼女は蓋を開け、中から衣装を取り出した。最初に出てきたのは青い豪奢なドレスだった。次は白の昼間用のドレスだ。取り出したドレスに目を走らせたエステルは——乱暴にそれらを投げ捨てた。
「エステル様! 何をなさるのです!」
侍女が止めに入ろうとした手を払いのけ、彼女はさらに長持の奥深くを引っ掻き回した。
「ねぇ、いつもの服は?」
「いつもの服、でございますか? それはいったい……」
「騎士団で訓練していたときの服のことよ。シャツとベストとトラウザーズ! 私、ちゃんと入れてって伝えたはずよ」
「まさか……! ここであんなものをお召になるのですか? エステル様はもう既婚者でいらっしゃいます。いつまでも男の子のような格好をして遊んでいる場合では……」
「遊んだりなんてしてない! 私はいつだって真剣だったわ。それに、ここでこんなドレス着れるわけないでしょう! あなたはここに来るまでの馬車の窓からいったい何を見ていたの!?」
最後に掴んだ紺色のドレスを床に投げつけて、エステルは叫んだ。
「街中が破壊されて、瓦礫や仮小屋で道も塞がれて……いつもの年なら収穫が近い麦の穂は一本も実っていないって。この状態で領民たちはどうやって冬を越すの? それより今このときにも食べる物がなくて困っているかもしれないのよ。そんなときにドレス? 笑わせないで」
「しかし、王家の姫としての威厳というものが……」
「私はもう姫じゃないわ。カークと結婚したもの。今日から私はエステル・ロータス。ロータス領の領主令息の夫人よ。おいでじゃない領主夫人の代理として、領民が崩れ落ちそうな仮小屋で暮らしているのを知りながら、湯浴みをしてドレスに着替えて優雅にお茶をしている場合じゃないわ」
散らばったドレスに忌々しそうな視線を向け、エステルは侍女に迫った。
「もう一度言うわ。私の訓練服を持ってきて。今すぐにとは言わないけれど、最優先で届けて。それ以外の服はいらないわ。……ううん、どうせなら王都に送り返して換金してもらいましょう。その無駄な宝石と一緒に」
エステルがトランクに視線を移せば、侍女は自分の物ではないにも関わらずそれらを必死に抱えた。
「わ、わかりました。必ず持ってまいりますから! ですがこれらはすべて国王両陛下と姉姫様がエステル様のためにと選ばれた物です。すべてを送り返すわけには……」
「大丈夫よ。お父様もお母様もお姉様も、ちゃんとわかってくださるわ。ドレス一枚で麦が何袋買えるかしらね」
「エステル様!!」
顔面蒼白になった侍女は、せめてここにあるだけの物は死守せんと、メイドたちに急ぎ回収させて部屋を出ていった。
「カーク、どういうことなの!」
侍女が下がった途端、カークはエステルに詰め寄られた。
「南部はすべて……こんな状態なの?」
「ごめん、俺の確認不足だった。ここまで復興が追いついていないとは思っていなかったんだ。エステルには酷いものを見せてしまったと反省して……」
「酷いものだなんて言い方しないで。確かに、最初の街の状態は悲惨だから酷いのはそうなんだけど、でも私に見せるべきものじゃなかったなんて言わないで。その言葉の方がよっぽど酷いわ」
「エステル……」
彼女がなぜ憤りを感じているのか、カークにも理解できた。華やかな王宮や王都とは違う、荒れ果てた領地とそこに住む人々を目にして、憐憫の情が湧いたのだろうと。王家は南部に最優先で予算を割いているわけで、それをもってしてもこの状況というなら、王家の威信にも関わる話だ。
ただ、心のどこかで不思議に感じる部分もあった。憐れむのはわかるし、復興が追いついていないことを詰りたくなるのもその通りだろう。だが、それにしては彼女の怒りの方向がどうにも奇妙だ。
自分は困惑した表情をとっていたのかもしれない。エステルは珍しく琥珀色の瞳を鋭くした。
「カークはロータス伯爵家に養子に入るのよね」
「あ、あぁ」
養子縁組の手続きを取るのはこれからだが、間違いない事情に頷けば、エステルがさらに迫った。
「だったらカークが最優先すべきはロータス領の復興よ。私にドレスを着せることじゃないわ」
「エステル、君が訓練着を着たいというなら、俺は止めはしないから大丈夫だよ」
「そういうことじゃないの。あなたが私に言うべきことは、ほかにあるでしょう? ロータス領が以前のような土地に戻れるよう、自分に力を貸して欲しいって、そう命じるのが領主代理の役割よ」
「エステル、なんてことを言うんだ。君に命じるなんて、そんなことできるわけないだろう」
自分と結婚したことで王族籍を抜けることになったエステルは、確かに名実共にカークの妻である。この後カークの養子縁組手続きがすめば、ダンフィル侯爵夫人にロータス伯爵令息夫人の肩書きも加わることになる。
だが肩書きが変わったとして、彼女が元王女だったことまでがなくなるわけではない。半年後に結婚が決まっているソフィア王女に子どもが生まれるまでは、エステルが王位継承権二位のままだ。そんな身分のある妻に命令などできるわけがない。身分がなかったとしても、カークはエステルに何かを命じるような、そんな関係を結びたいとは思っていなかった。
「君が望むことはなんでも叶えたいと思っている。でも、命じることだけは絶対にできない」
「じゃあお願いでもなんでもこの際いいわ。外面がどうでも中身が整っていればいいもの。カーク、教えてほしいの。私はいったいここで何をすればいいの? ソフィアお姉様にみたいに帝王学を学んでいたわけじゃないから、私には何も知識がないのよ」
「もしかして伯爵夫人としての仕事のことを言ってるのか? だったら後々執事に頼んで教えてもらえるよう手配するよ。ロータス伯爵の奥方は亡くなっているし、ご子息の妻も実家に戻っているそうだから、彼女たちから直接教わることはできないだろうが……」
「それも大事なことだけど、そうじゃなくて! 私もロータス領の復興のために何かしたいの。とりあえず今すぐ思いつくのは、あの無駄に長くて大量の花嫁行列道具を王都で売り捌いてお金を稼ぐことなんだけど」
「待て、ちょっと待ってくれ。あれは両陛下とソフィア様からの贈り物だ。売り捌くなんてそんな恐れ多いこと、頼むから言わないでくれ、絶対に」
先ほど震えながら部屋を出ていった侍女の気持ちが今になってわかり顔を青くすれば、エステルは何やら思案顔になった。
「ドレスだけじゃなくて家具とか本もいっぱいあったでしょ? 少しぐらい減ってもバレないと思うのよね。でも、さすがに王都の質屋に出回ったら足がついちゃうかしら。だったら道中にあった他の大きな都市なら……」
「エステル、頼むから、本当にお願いだから、運び込むだけはさせてほしい!」
足がつくなんていったいどこで憶えたのだ。しかも王都でなく別の都市ならという発想も的を得過ぎていて恐ろしい。
このまま放置すれば、自分は妻に嫁入り道具を売らせた不甲斐ない男というレッテルが貼られてしまう。さっきの侍女に言って早急に荷物を運ばせよう、きっと全力で協力してくれるはずだと、心の中で算段をつける。
「エステル、復興予算は十分確保されているはずだ。だから君が花嫁道具を売り払う必要はない」
「でも、それならなんでさっき通ってきた街にはまだ家屋が再建されていないの? 麦の作付けだって、本当なら間に合っていたはずよね」
「それは……」
エステルの言う通り、昨年の夏には魔獣たちを駆逐し終えていた。秋に行うはずの種蒔きがされていなかったことはおかしいと言えばおかしい。
「王城から執政官がすでに派遣されているはずだから、事情を聞いてみるよ。わかったら報告するから、エステルは休憩しててほしい」
「だから、私は休まなくても大丈夫だから。事情を聞きに行くなら一緒について行くわ」
「いや、しかし……」
口では大丈夫と言いながらも、彼女は生まれて初めての数週間に渡る馬車の旅をこなしてきたばかりだ。疲れていないはずがない。だが言い出したら絶対に曲げないエステルの性格もこれ以上ないほど知っていた。
「わかった。ただ、ひとまずお互い旅装くらいは解こう。この格好で挨拶するのはさすがに失礼に当たるよ」
そう説得して、なんとか湯浴みと着替えを納得させた。
◆◆◆◆
南部復興の任を託されたメンデル執政官に面会したカークとエステルは、想像していなかった事態に息を呑むことになった。
「人が足りていない、ですか?」
「はい。魔獣暴走が激化している間、戦えない一般人を他領に避難させたのですが、彼らの帰郷がほぼ叶っていないのです。従って働き手が圧倒的に足りず、復興工事が遅々として進みません」
「麦の作付けが間に合わなかったのも、もしかしてそのせいですか?」
「おっしゃる通りです。今年は麦よりもより早く育つ芋類を優先して植えさせました。麦ほどの手入れがいらず、開墾が間に合わない土地でもそれなりに育ち、今いる者たちを食べさせることはできるだろうと判断してのことです」
執政官は王城の官僚たちと密に連絡を取り、復興計画の報告をしながら指示を仰いできたそうだ。そのため出来うる最良の施策が実行されている。だが、復興は金さえあれば成るというものでもない。実際に手足を動かしてくれる労働人が不可欠だ。
「避難した者たちに帰郷を促してはいないのですか?」
カークが問えば、メンデル執政官は疲れたような溜息を吐いた。
「麦すら植えられぬ荒れ果てた土地に、帰ってきたいと思いますか? いえ、本音は帰りたいと思っているでしょう。ですがまともな衣食住や仕事が保証されない場所に戻ってくることは、なかなかできる選択ではありません。皆、生活があるのですから」
ぐうの音も出ない正論にカークは押し黙るよりほかなかった。メンデル執政官はさらに話を進めた。
「とはいえこの半年、何もできなかったわけではないのです。領都の中心部はある程度片付いていたでしょう? 以前ほどではないにしても家屋が建ち、物資の供給も増えて、商人たちが店を構える姿も見られるようになりました。国が手配してくれた労働者を都に集中させて、この半年間は夜間も交代制で工事を進めさせましたからね」
「だから中心部はこれだけ整っていたんですね。その労働者たちは今はどうしているのですか」
「彼らは全員引き上げました」
「引き上げた? なぜです。都の工事が終わったのなら次は畑の準備を頼むとか、他の街に派遣するとか、そうした方法があるでしょう」
復興予算は潤沢にあると聞いたばかりだ。足りないのは人手。その労働者たちを引き上げさせたのはなぜかと問えば、執政官はちらりとエステルを見た後、「いや、まぁ、いろいろ事情がありまして」と言葉を濁した。
そのわずかな視線を見逃すエステルではなかった。彼女もまた剣を持ち敵と戦う術を学んでいる者だ。
「メンデル執政官、私が何か?」
「いえ、滅相もありません、王女殿下」
「私はもう王女ではありません。エステルとお呼びください。それで、労働者たちが引き上げた理由はなんなんです?」
「いえ、その……」
怯むことなく執政官を直視するエステルに根負けした執政官は、とうとう口を開いた。
「彼らはただの労働者ではなく、強制労働者だったんです。過去に罪を犯し強制労働の刑に処された、つまりは罪人の集団です。国は彼らを労働者としてここに派遣してくれたんです」
ルヴァイン王国には強制労働施設での労働刑があり、罪人たちが国の施設で労働奉仕をしながら罪を償う方法が一般的だ。鉱山や工事現場、工場などが主な労働先で、行動も含めて厳しく管理される。
強制労働の刑に服役している労働者たちに復興現場での工事を担わせる方法は、確かに理にかなってはいる話だった。その点はカークもエステルも納得できる。
問題はなぜ彼らが半年という短い任期で引き上げてしまったのかということだ。
「中心部の様子を見るに、彼らの働きは役に立つものだったのですよね? それとも何か問題があったとか?」
「いえ、彼らはよく働いてくれました。工事現場にも慣れていましたし、こちらが思っていた以上の速度で土木工事を進めてくれて、感謝しているほどです。いざこざもなかったわけではありませんが、駐屯している兵士や役人たちの手で収められるほどのもので、できることならまだまだ使わせてもらいたい労働力でした」
「だったらなぜ……」
「初めから半年という計画だったのです。半年後には、その、エステル様のお輿入れが決まっておりましたので」
言いにくそうに言葉を切った執政官の態度に、カークは状況を悟ったが、エステルはまだピンときていないようだった。
「え? 私がここに来るのが何か問題だったっていうこと?」
「いえ、そういうわけでは……」
「メンデル執政官、わかりました。エステルも疲れていると思うので、これ以上は大丈夫です」
この話をエステルの耳に入れてはならない。入れてしまえば彼女は自分のことを責めてしまう。
その一心で遮ったカークだったが、エステルが納得するはずもなかった。
「待ってカーク。メンデル執政官も、まだ話は終わってないわ」
「エステル、後は俺が聞いておくよ。そうだ、夕食前にもう一度ロータス伯爵に挨拶に行こう。先ほどは体調を崩してしまわれたから、きちんとお話しできなかっただろう? 養子縁組の手続きもなるべく早い方がいいし、エステル付きのメイドの紹介もまだしてもらっていないから……」
「カーク! ちょっと黙って!」
眉を釣り上げたエステルに怒鳴られ、カークは口を閉じた。
「メンデル執政官、もう一度聞きます。私が来ることと、強制労働者たちが半年で引き上げたことと、どういう関係があるんですか」
執政官は助けを求めるようにカークを見た。だがカーク自身、これ以上ごまかす術を持たなかった。
力なく頷いて見せれば、執政官はおずおずと口を開いた。
「王家の姫君がおいでの目と鼻の先に、罪人を置いておくことはできません」
その理由で、領都の中心部のみならず、ロータス領すべてから引き上げさせたのだと、彼は語った。強制労働者の管理はなされているとはいえ絶対ではない。何かあってからでは遅いのだ。
話を聞いたエステルは、呆然と呟いた。
「私の、せい……」
「エステル、違う。君のせいじゃない」
「でも……!」
「エステル、よく聞いてほしい。絶対に君のせいではないんだ」
カークが強く言い切れば、メンデル執政官も追随した。
「カーク様のおっしゃる通り、エステル様のせいではありません。ロータス領はあなた方の到着を心からお待ちしていました。ここに英雄と王女殿下が腰を落ち着けられることは、長い目で見れば最善策なのです。悪いのは半年でここまでしか準備できなかった我々です。王家からの花嫁道具すら満足に運び込めぬような、そんな嫁入りをさせてしまったこと、私の不徳の致すところでございます」
「あんなものはどうでもいいのよ! やっぱり王都に返してお金に変えてしまいましょう。それで労働者を雇えばいいわ。王都よりも高給な条件にすればきっと集まるはずよ」
広大なルヴァイン王国の、南端となるロータス領は、一般人からすれば果てしなく遠い。行商人でもなければ移動しようなどと思わぬほどの途方も無い距離だ。
それができるのならとっくにやっているはずなのだ。給金だけで、そう困ってもいない王都の民が動くはずはないと、カークにもわかっていた。
「エステル様、お気持ちだけ頂いておきましょう。予算は確保されておりますから、ご心配には及びません。食糧も、麦の作付けこそ間に合いませんでしたが、こちらも国からの支援が整っていますから、何もロータス領すべてが飢えているというわけではありません。王宮とまったく同じようにとまでは参りませんが、領主家の女主人としての生活は保証いたします」
頭を下げる執政官を前に、エステルは「わかりました」と返事した。肯定の返事のはずなのに不満が滲んでいることは明白で、執政官が戦々恐々と肩を振るわせた。
エステルの「わかりました」という返事の意味と、彼女の憤りの向いている先が知れるのは翌日のことだ。
◆◆◆◆
旅の疲れもあるだろうと別々に休んだ翌日。朝食の席に降りてきたエステルの格好を見たロータス老伯爵は目を剥いた。
「エステル様、その格好はいったい……」
「おはようございます、お義父様。私の服装が何か? カークとそう大差はないと思いますが」
前日に無事養子縁組の手続きを終えたカークと、その様子を隣で見ていたエステルは、ロータス伯爵のことを義父と呼ばせてもらう同意を得ていた。「英雄様と王女殿下に、ち、ち、義父などと、恐れ多い!」と感極まって心臓を押さえられたときにはどうしようかと思ったが、それ以上の騒動にはならず安堵した。
それはさておいて、エステルの格好である。昨晩はこちらに到着して初めての夕食の席であったため、伯爵もカークたちも礼装で出席した。その席で伯爵から足を痛めていることや、そのせいで正装が難しいことを説明された。自分たち夫婦に対してあまりに失礼だから、今後は別々に食事をらせてもらいたいと提案があったのを、エステルが「それなら我が家の食事は略装で可ということにしましょう。自分もドレスは着ません」と宣言したのだ。エステルに対してまだ遠慮がある伯爵は、ぎくしゃくと同意せざるを得なかったようだ。カークとしても、来て早々伯爵を追い出してしまうようで決まりが悪く、またいちいち着替えなくていいのは騎士生活が染み付いた自分にとっても楽であるため、素直に従った。
その、昨日の今日である。カークはシャツとベストにトラウザーズ、首元にはゆるくクラバットを巻いた。略式とはいえエステルはデイドレスだろうしと、彼女に合わせたつもりだった。
だがこちらの予想を激しく裏切って、エステルは男装姿で現れた。つまりカークとほぼ差がない。むしろクラバットがない分エステルの方が簡素だ。カークにはある意味見慣れた姿だが、ガウン姿の伯爵の顎が落ちているのは仕方ないことだろう。老齢の執事はかろうじて表情に出さず状況を見守っている。
「お義父様、どうかお許しください。これが私の普段着なんです。ね、そうでしょ、カーク」
「え、えぇ。エステルは城にいるときもこのような姿でいることが多くありました」
「お義父様もルヴァイン王国のお転婆姫の噂は聞かれたことがあるのではありません? 私は剣だって使えます。だからこの格好の方が落ち着くのです。お義父様が楽な格好で構わないとおっしゃってくださったから、とても助かりました」
笑顔でそう畳み掛けたエステルは、満面の笑みのまま席に着いた。
「さぁ、朝食を頂きましょう。今日はやることが盛りだくさんですもの」
昨日届いた荷物にはドレスしか入っていなかったのに、なぜエステルが男装できたのかという謎は、食後すぐに解けることになる。
「あ、エイダン! さっきはありがとう!」
「えぇぇ! お、奥様、本当にお召しになったんですか!?」
廊下でエステルが呼び止めたのは、十代くらいの細身の少年だった。程よく品があるところを見るに、ロータス家に仕える小姓と思われた。カークは知らない顔だが、エステルは親しげに呼びかけている。いつ知り合ったのだろうかと訝しく思っている先で、彼女は気安く会話を始めた。
「せっかくエイダンが用意してくれたのに、着ないでどうするのよ。それにしてもよかったわ。偶然あなたを見つけることができて。背格好が私とほぼ一緒なんだもの。助かっちゃった。あ、心配しなくてもちゃんと新しい物を返すわよ。今から荷物を取りにいってくるから、ちょっと待っててね」
「い、いえ、それは奥様に差し上げたものですので……あの、使用人の私服なんて本当に失礼なものを申し訳ありません。処分していただいてかまいませんので」
「どうして? わざわざ新品を下ろしてくれたんでしょう。着心地もいいし動きやすいわ。城から持ってきた私の服じゃ、逆に窮屈に感じちゃうかも。だったら洗濯して返した方がいいかしら」
「と、とんでもないことでございます」
しきりに恐縮しながら距離を取ろうとする少年と妻の会話から推察するに、彼女がこのエイダン少年から服を巻き上げたらしいと察した。
「エステル? 君はロータス家の使用人に対していったい何をしているんだ?」
「だって私の服が届いていないのはカークだって知っているでしょう。だからちょっと借りたのよ。ちゃんと後で洗濯して返すか、私が持ってきた新しいのをあげるつもりよ。エイダンも了承してくれたわ」
無言で顔を引き攣らせているエイダン少年を見るに、どうあっても承諾したとは言えないようだとカークは眉間を揉んだ。
「事情はわからないでもないが、エステル。そういうことは二度としてはいけないよ。主人に言われれば彼らは逆らえないんだ。今更、そんなことがわからない年齢じゃないだろう」
「わかってるわ。切羽詰まっていたから許してよ。これが最初で最後だから」
「それから、服を無闇に与えるのも駄目だ。袖を通したものももちろん」
高貴な者が着用した衣服は、使用人たちにとっては価値がある褒賞になりうるため、簡単に与えていいものではない。さすがのエステルもそのくらいはわかっているはずなので、これは本当に機会的なことだろうと、カークもそれ以上の苦言を避けた。
「君、エイダンといったか。エステルがすまなかった。君の服は新しいものを早急に用意するから、許してほしい」
「いえ、旦那様にそんなことをして頂くわけには……」
「この復興の最中で、綺麗な衣服を手にいれるのも大変だろう。お詫びだと思って受け取ってくれ」
そう告げればエステルの表情が少しばかりこわばった。
「ごめんなさい、私……」
「いや、元はと言えば君の荷物を全部運び込めなかったのが悪いんだ。俺の手配不足でもある」
「カークが悪いわけじゃないよ」
「とにかく、この話は終わりだ。俺はこの後メンデル執政官と打ち合わせがあるんだ。昨日のうちに城から彼に宛てた資料を渡しておいたから、その話があるんだと思う。エステルはどうする? 執事に頼んで邸の案内をしてもらうか?」
過去に滞在経験のあるカークには見知った家だが、エステルは初めてだ。女主人の仕事初めとしても適当な内容だろう。おとなしく部屋にこもっていてはくれない性格だから、何か出来ることを提案しておく方が安全だ。
「そのことなんだけど、私、荷物を取りにいってくるわ」
「荷物って、嫁入り道具のことか?」
王家から共に旅立った馬車は立ち往生となってしまい、昨日のうちにすべてを運び込むことができなかった。今日も小ぶりの馬車で何往復かして運ぶ予定にしてある。荷物とともに急遽の野営となった騎士たちも、全員が今日中には邸の宿舎に入れるはずだ。
「まさかあの場所まで君が自分で行くっていうのか? それは駄目だ」
慌てて止めればエステルは真剣な表情になった。
「お願いカーク、行かせてほしいの。だからわざわざこんな格好したのよ。もちろん、ひとりでは行かないわ。どうせ誰かが行くんだから私が混ざってもいいじゃない」
「駄目だ。荷物が心配なのはわかるが、こればかりは許可できない」
ここは安全に守られた城ではないのだ。一番大切とされるべき彼女を邸の外に出すわけにはいかない。
とのかく駄目の一点張りで反対すれば、エステルは強い視線でカークを睨みつけた。
「カークは全然わかってない! ねぇ、私はいったい誰?」
「いったい何を言い出すんだ。エステルはエステルだろう」
カークがずっと追いかけ、追い求めて、妻にと願った大切な女性だ。それ以外の何者でもない。
だがエステルが求めているのはそんな答えではなかった。
「私はもうエステル王女じゃない。ロータス伯爵令息夫人でしょう? 前夫人がおいでじゃない今は女主人の代わりよ。私の立場で領地や領民のために働くことは当たり前のことだわ。だってソフィアお姉様はいつだって国のために民のために働いているもの」
「それはそうだが、でも君は来たばかりで」
「じゃあいつからなら働いていいの? 来週? 来月? 一年後? いつかは働くことになるなら今から動いたっていいじゃない。南部の復興は国の一番の重要案件なんでしょう? 王家の姫のせいで復興が遅れるなんて本末転倒だわ。私だってちゃんと協力したいの」
琥珀色の瞳に熱を込めて、エステルが訴えた。
「ねぇカーク。私はあなたの妻になったのよね。そしてあなたの仕事はロータス家の跡取りとして、この地を復興させること。夫婦はいつだって助け合うものでしょう? お母様だって直接政治には関わっていなかったけど、いつもお父様の手助けをしていたわ。私はカークと、そんな関係になりたいの。ただお邸で守られるだけの存在じゃなくて、あなたの隣に堂々と立ちたいのよ」
見上げる琥珀色の熱意に、カークは思わず息を呑んだ。幼い頃から何度も見てきた、彼が追いかけてきた表情。王女のくせに剣など振り回してという揶揄が王城内にまったくないわけではなかった。それでも彼女はいつだって真剣に訓練に取り組んできた。それこそ、後追いのカークよりもよほど真面目に。
遠い記憶を辿りながら、彼女が昨日からなぜ声を荒げ憤っていたのか、その理由がわかって腑に落ちた。
「……君はいつだって俺の予想のはるか先を行くんだな」
王籍から離脱し貴族の妻となっても、王女から未来の領主夫人となっても、彼女の本質は変わらない。いつだって自分にできる最善を見つけて、それに向けて全力で走り出すのが、カークが恋したエステルの姿だった。
訓練する騎士の姿を見て、姉姫の剣になると決めた女性だ。貧しい領民と崩れ落ちた街を見て、彼らを救うために立ちあがろうとしないわけがない。昨日から花嫁道具を売り払うだの、なぜ教えてくれなかったのかだの言いだしたことをよくよく突き詰めれば、答えは見えていたはずなのに。
カークは己の不甲斐なさに半ば憤りながら、深い息を吐いた。
「馬は駄目だ。絶対に。だけど馬車に乗るなら……」
「わかった! ありがとう、カーク、大好き!」
言い終わらぬうちにエステルに抱きつかれ、思わずその身体を抱きとめれば。
近くなったエステルがさらに首を伸ばし、カークの唇にさらりとキスをした。
「本当にありがとう! じゃ、さっそく行ってくるね、カークも頑張ってね!」
抱きしめたぬくもりは余韻すら残さずに離れていき、あっという間にカークの視界から消えていく。
「……エステル! やり逃げは卑怯だろうっ」
真っ赤になって顔を押さえる未来の領主の姿が、多くの使用人に目撃されることになった。
◆◆◆◆
エステルが邸を発った後、カークはメンデル執政官と面会し、今後の復興計画のあらましを確認した。
「城からの指示書を届けてくださり、ありがとうございました。いやぁ、これで次の一手が明確になりましたよ」
朗らかな表情でそう告げる彼の手にあるのは、昨日のうちにカークが渡しておいた書類だ。
「そこにはどんな指示があったんですか。俺も何も知らされていなくて」
カークとて南部のことを何も知らないまま移住してきたわけではない。だが、魔獣暴走が収束して以降、英雄であるカークは様々な場に引っ張りだこだった。その上結婚式まで半年しかないという驚異の時間のなさ。身体がいくつあっても足りない状況で、後回しになってしまったのは否めない。
こうなっては現地で実地で覚えていくよりほかないと、ここまで先延ばしにしてしまった。エステルや老伯爵を不安にさせないためにも、自分がしっかりしなければならない。
「まずは水路が元通りに使えるよう、河川の船着場の復旧を行うようにと指示がありました。現状陸路による物流は途絶えてはいませんが、地方の道の悪さはご覧になった通りです。水路での輸送が可能となれば、利便性が跳ね上がります。今までは中心部の市街地の復興に力を入れてきましたので、次はそちらですね」
「それは理に叶った話と思いますが、そもそも工事に携われる人員の確保の問題は解決してないですよね」
「え? そのために今回、エステル様とともに騎士団が派遣されたのではないのですか?」
「は……?」
寝耳に水の情報に、カークが驚けば、執政官は資料を指差した。
「ほら、ここに記載があります。“エステル元王女とともに遣わした騎士は復興工事に携わる労働力として使ってかまわない。彼らの駐在は最短で半年、その後も復旧した水路を利用して入れ替え用の人員を都度派遣する”と」
南部に嫁入りするエステルとともに、騎士団の一個小隊が派兵されていた。当然護衛のためとばかり思っていたカークだ。エステルが落ち着けばすぐに引き上げるものと考えていた。
だが彼らはこのまま駐屯するらしい。それも貴重な工事の労働力として。
自分はそんな指示は聞いていないと思ったが、そもそもカークはエステルとの結婚を機に騎士団の名誉団員となっていたのだった。今回同行した小隊は別の隊長が率いている。警護計画の説明は受けていたが、到着後の行動までは把握していない。確認をしようと隊長を任されたデュカスという男を呼び出したが、彼はエステルに着いて荷物の引き取りに向かっており、代わりに副隊長がやってきた。
「執政官殿のおっしゃる通りですよ。我々はここに半年ほど残って、復興のためのあらゆる助力をするべしという命令を団長から受けています」
そもそも今回の南部行きはその目的で人員が確保されたということだった。小隊は若手の単身者の割合が多いようだったが、てっきり年若いカークに配慮して構成されたのだとばかり思っていた。
副隊長の返事を聞いて、メンデル執政官は安堵の声を上げた。
「こちらとしては願ってもないことです。騎士の皆さんに滞在頂く宿舎は魔獣暴走対応のときのものが残っていますし、中心部の復興は対応済みですから、食事やその他の雑事も前回ほどのご不便はおかけしません。以前よりは快適にお過ごし頂けると思います」
「お気遣いありがとうございます。そもそも今回の随行騎士は南部出身者や元討伐隊のメンバーが多く混ざっています。皆、ロータス領のために何かしたいと手を上げた者ばかりです。ですので騎士としての仕事以外も、もちろん工事だってやる気ですよ」
そう胸を叩く副隊長の顔には一片の嘘もなかった。
「魔獣暴走のときは、自分は後方支援のみで前線に立つことができませんでした。英雄カーク・ダンフィル殿の戦う姿をただ応援することしかできなかったのです。今こうしてあなたの元で働けることを誇りに思います。どうぞなんでも命じてください」
その言葉に、カークは胸の奥が熱くなるのを感じた。彼の英雄としての役目はすでに終わっている。その褒賞としても十分すぎるほどの物を貰った。だがこうしてさらに返ってくるものがあり、それがかつての仲間たちからもたらされるというのは格別なことだった。
副団長に礼を伝えた後、今後の具体的な工事についてメンデル執政官と詰めることになった。広大なロータス領を渡る河川の船着場は大小合わせるとかなりの数に登る。まずは主要なものから手をつけようということで話がまとまった。具体的な割り振りについてはデュカス隊長が戻ってきてからだ。
水路のいいところは陸路よりも物資や人の輸送が楽ということだ。時間の短縮も大きい。
「これでひとまずの道筋が整いました。私が赴任した当初、まずは領都の中心街の機能を急ぎ整えよとの指示に、道や農地を優先させるべきではと思いもしましたが、今となってはこれで正解でしたな。ここまで見越しておられたのだとしたら、さすがはランバート宰相補佐官ということですかな」
「ランバート宰相補佐? 彼が指示を出していたのですか?」
「えぇ。ランバート補佐官は魔獣暴走発生時から対策本部の係でいらした方ですからね。南部のこともよくご存知ですよ。今は復興対策の長でいらっしゃいますので、私が逐次報告や相談を申し上げるのは彼なのです」
ソフィア王女の婚約者でもあるからよく知っているだろうと付け加える。確かに自分たちの結婚の前に、ソフィア王女の婚約が電撃的に発表されたことは記憶に新しい。カークも目の回る忙しさの中で、一度だけ顔を合わせたことがあった。一騎士にすぎなかった自分は、宰相のことは知っていても、補佐官のことまでは知らなかった。そのため顔を見ても、何度か騎士団の建物に来ていたところを見かけたことがあるなという、その程度の記憶しかなかった。
「初めまして、英雄殿。ユリウス・ランバートです」
握手を求められたので返せば、身体の細さから想像する以上の力で返されたことを憶えている。エステルの夫となる自分とソフィア王女の夫となる彼は義兄弟ということになるわけだが、相手から漂ってくる空気はどこかひんやりとしたものだった。敵愾心というほどではないが、友好を温めたいという気持ちはあまり感じられない。なんとなく距離感を掴めないまま、日々の忙しさに忙殺され、そのままになってしまった。
南部の復興について一手に引き受けているということは、向こうも相当に忙しくしていたのだろう。疲労もあったからこそのあの微妙な反応だったかもしれないと思い直す。彼がロータス領に深く関わっていると知っていたら、もう少し話を聞いておくのだったと反省するが今更だ。
だがこれから先、彼とは密にやりとりすることになるのだろう。いくらでも関わる機会はあると、カークは指示書を置いた。
その後は税務管理官やロータス家の家令と面談したり、居残っていた騎士たちに話を聞いて回ったりしているうちに、あっという間に夕方になった。
季節は夏。日はまだ高く、七時を回っても辺りは明るい。だが荷物を回収に行ったはずのエステルがまだ戻ってきていなかった。隊長を初めとする精鋭がついている。何かあるとは考えにくいが、カークはいてもたってもいられず、自分の馬を引いた。
「何名か着いてきてくれ。エステルを迎えにいく」
そのまま数騎で駆け出せば、道を半分ほど進んだところで王家の馬車隊を見つけた。纏った空気から何事もなく、ただ戻りが遅くなっただけと察した。
「エステル! 遅いから何事かと思ったぞ」
馬を馬車に寄せれば、朝別れた妻が窓からぬっと顔を出した。
「ごめんなさい、ちょっといろいろやってたらすっかり遅くなっちゃった。でも見て、王家の馬車も連れてこられたんだよ」
エステルが指差す後方を見れば、伯爵家から差し向けた小ぶりの馬車の後ろに、王家の紋章が入った立派な馬車が続いていた。
「よく道が通せたな」
瓦礫や仮小屋のせいで道が塞がれ、立ち往生したのはつい昨日のことだ。馬車を守るために一晩中残った騎士たちが、急ぎ整えたのだろうか。
「あのね、カーク。ランバート宰相補佐官ってすごく気がきく人なんだね」
「は?」
思いもかけぬ名前がエステルの口から飛び出して、つい間抜けな声が漏れた。
「お城からの嫁入り道具って、全部ドレスとか家具とかだとばかり思ってたけど、最後の二台だけ違っててね。食べ物がぎっしり詰まってたの。それもちょっと珍しい保存食とか甘いおやつとか、そういうの! あ、お酒も入ってたんだった」
「なんだって?」
「私の荷物だから、優先的に運ぶものを決めてほしいってデュカス隊長に言われて確認してみたら、そうなってたの。それでね、目録と一緒にランバート補佐官からの手紙が入ってたんだ」
彼女が差し出した手紙を受け取ってみれば、内容は、未来の義妹となるエステルへ彼からの個人的な贈り物、ということだった。
——食糧は最優先で手配しましたので、概ね充足しているはずです。足りないのはこうした物だと思われます。エステル様の良きようにお使いください——。
最後に記されているのは間違いなくユリウス・ランバート補佐官の署名だ。
「カーク、あのね、私、勘違いしてたみたい。道や建物があまりにも酷かったから、みんな食べる物も困ってるんじゃないかって思ったんだけど、毎日の食事は大丈夫だって、住民の方たちが言ってたんだ」
「エステル、まさか、領民に近づいたのか!?」
嫁したとはいえ彼女は元王女だ。城の中で大切に育てられた彼女が、王都の民と口を聞く機会は滅多になかった。咄嗟にソフィアが襲われたときのことを思い出したカークは思わず同行していた小隊長を振り返った。
「申し訳ありません! お叱りは如何様にも受けます!」
デュカス隊長以下の騎士たちも急ぎ下馬して頭を下げる。呆気に取られれば、馬車の中からエステルが身を乗り出さんばかりに声を上げた。
「カーク、彼らを叱らないであげて。みんな私の命令に従っただけなの。私に命じられたら嫌とは言えないでしょう? みんな道路のお片付けと仮小屋の移築を手伝ってくれたんだ」
「なんだって!?」
先ほどから同じ台詞しか叫べぬ自分はピエロにでもなったかの気分だった。だが今はそんなことを気にしている場合ではない。
「あのね、ランバート補佐官が好きに使っていいって書いてくれてたから……」
そうしてエステルが語り始めた今日半日の出来事に、カークは目を剥くはめになった。
◆◆◆◆
馬車にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた珍しい保存食や甘味、お酒を前に、エステルは考えた。
ここにあるのは南部では不足している物、つまりあげたら喜ばれる物だ。
昨日から街に入れず立ち往生していた馬車は騎士たちに守られ無事だ。そして馬車を守る騎士たちを遠巻きに眺める住民たちの姿がちらほら見える。中には子どももいた。
エステルは荷物の中からラムネの瓶を取り出し、子どもに近づいた。騎士が慌てて止めようとしたが、それを制して子どもの前にしゃがみこんだ。
「ねぇ、僕。これ、何か知ってる?」
瓶を軽く振りながら見せれば、十歳くらいの男の子の目が見開かれた。
「それって、ラムネ?」
「そうよ。食べたことあるかしら」
「ずっと前にあるよ。魔獣が来るよりも前。それ、口の中でしゅわしゅわ溶けて、すごく美味しいんだ」
「よく知ってるのね。ねぇ、ちょっとお姉さんのお手伝いしてくれないかしら。お駄賃にこのラムネを分けてあげるわ」
「うん、いいよ! ラムネくれるんだったら!」
「ありがとう。あのね、君が持っているその木桶。その中に瓦礫や廃材、ゴミなんかを集めて持ってきてくれない? 木桶いっぱいの瓦礫とラムネ一個を交換してあげるわ」
「え、瓦礫って、これとか?」
少年が指差した先の石の破片をエステルは拾い上げ、木桶に入れた。木桶は子どもが片手で持てるほどの大きさだ。それほど負担にはならないだろう。
「そうよ。こうやって拾い集めて私のところに持ってきてほしいの。そうね、ここから見える道路と、左右にある昔家が建っていた場所から集めてちょうだい。遠くの物はとりあえず今はいいわ」
「わかった! そんなのすぐに出来るよ!」
「あなたのお友達にも伝えて、みんなで集めてくれるかな。ラムネはたくさんあるし、飴やチョコもあるわ。あと、果物の缶詰とかお酒もあるから、あなたのお父さんとお母さんにも伝えてみて。拾った瓦礫と交換してくれるよって」
添えられていた目録の内容を思い出しながらエステルがそう頼めば、少年は「任せて!」と胸を叩いて一目散に走り出した。
「エステル様、いったい何をなさるんですか?」
デュカス隊長が恐々とそう聞いてきたので、彼女は新ためて指示を出した。
「デュカス隊長、みんなでこの馬車の中の食べ物を全部下ろしてほしいの。今日中に王家の馬車ごとロータス領に帰るためにね」
そう指示を出しつつ十分ほど待っていれば、先ほどの子が木桶を抱えてよたよたと戻ってきた。後ろには同じようにバケツに瓦礫を入れた子どもと、手ぶらの子どもたちがいる。
「お姉ちゃん、持ってきたけど……本当にラムネと交換してくれる? 騙されているんだってみんなが言うんだ」
なるほど、手ぶらで着いてきた子たちはエステルの提案が信じられなかったようだ。胡散臭そうな顔でこちらを睨みつけている。
「嘘なんかじゃないわ。瓦礫をありがとう。はい、約束通りラムネ一個ね。口を開けて」
子どもたちの汚れた素手に渡すのは衛生上よくなさそうだと、エステルは彼が開けた口にラムネを放り込んだ。口を閉じた彼が喜色満面になる。
「うわぁラムネだ! すっごく久しぶりに食べたよ」
「ねぇ、お姉ちゃん、これも交換してくれるの?」
バケツを差し出した別の子にも「もちろん」と頷いて、ラムネを与えた。背後で様子を伺っていた子どもたちに声をかけることも忘れない。
「ほら、あなたたちも、急がないとラムネも瓦礫もなくなっちゃうわよ?」
量の減ったラムネ瓶をカラカラと振ってみせれば、彼らは弾かれたように駆け出した。
「ねぇお姉ちゃん! まだ持ってきてもいい?」
「うちの近く、瓦礫だらけなんだ」
「もちろんよ! じゃんじゃん持ってきて!」
答えながら二人から木桶とバケツを受け取ると、食料を下ろして空になった馬車に乗り込み、そこに中身を捨てた。
「はい、これで空になったわ。続きをよろしくね」
駆け出していく彼らを見送り、背後でぽかんと立ち尽くす騎士たちを振り返った。
「ねぇ、デュカス隊長。集めた瓦礫をひとまず集積する場所を作ろうと思うの。どこか適当な場所がないか、住人たちに確認してきてくれない?」
「それは構いませんが、エステル様、いったい何をなさるおつもりで?」
「住民たちに働いてもらって、瓦礫を撤去するのよ。潰れた家屋の破片がなくなればそこに仮小屋を移築できるし、道路が広くなって馬車も通れるわ」
「確かにそうかもしれませんが……お荷物は小さな馬車に移してちゃんと運べます。王家の馬車を置いていくのがしのびないお気持ちはわかりますが……」
「馬車なんてどうでもいいわ。別にいらないもの。いえ、そんなこと言っては駄目ね。使い道はたくさんあるんだった。ひとまず集めた瓦礫の運搬用に使わせてもらいましょう」
「はい? この馬車で、瓦礫を運ぶと、そうおっしゃいました!?」
「そうよ。さすがはうちの馬車、大きくて頑丈でしょう? ありったけ瓦礫を積み込めるってものよ。馬もこんなに元気だしね」
「滅相もありません! 国王陛下から遣わされた馬車をそのように使うなど!」
「あら、街が綺麗になって、うちの馬車が通れるようになって、ついでに住民たちはなかなか手に入らない甘味やお酒が楽しめて、いいことづくしじゃない。それに、道路が復旧すれば真っ先に商人たちが出入りするようになるわ。だって日々の食糧は十分でも、衣料や嗜好品はまだまだ足りないのよ。彼らが商機を逃すはずないでしょう。人の往来が出てくれば仕事も増える。街って、こうやって復興していくものじゃないの?」
エステルは剣を持つことばかりに夢中で、勉学は疎かだった。だが一国の王女として将来は他国に嫁ぐような未来もあったため、最低限の学問は叩き込まれていた。基礎的な知識しかなくても、いや基礎的なものしか備えていないからこそ、シンプルに物事が見えていた。
言葉を失った隊長の後から、別の若い騎士が「あの……」と手を挙げた。
「どうせなら目分量じゃなくて重さで報酬を配分したらどうでしょう。瓦礫の撤去が進んでいない理由には、量もさることながら、重すぎて運べないというのもあると思うんです。けど、大人が協力して運べば、大きな瓦礫や丸太も運べます。酒類もあるっていうなら、男たちは動きそうです」
「それイイ! 採用!!」
エステルが即決すると同時に、別の騎士たちも声を上げ始めた。
「俺、手伝ってくれる人を探してきます!」
「自分も宣伝に行ってきます! ついでに撤去も!」
「重さで判断するなら秤がいるよな。おい、なんか棒といらない袋あるか? 俺作るよ」
「酒は絶対争奪戦になるから、特等扱いにすべきだな。おやつは子どもたちに回すとして……エステル様、目録を拝見してもいいですか?」
「おい、仮小屋の移築ってどれくらい手間がかかりそうだ? 移築するより、あまり崩れていない建物を整えて一旦避難してもらった方がいいんじゃないか? エステル様のお名前があれば、住民たちにも交渉しやすいと思うんだが」
「確か工具も積んでいたはずだよな。廃材はごろごろしてるし、簡単な大工作業なら出来そうだな」
次々と出てくる提案に、エステルは是の返事をどんどん出していく。気がつけば撤去作業の分担も出来て、子どもたちが次々と瓦礫を運びこんできた。エステルは彼らの口にラムネを放り込みながら「次はチョコだよ」と餌を振り撒くのも忘れない。
そんな彼女の姿を見ていたデュカス隊長が、突然涙を流し始めた。
「デュカス隊長!? どうしたの?」
「……自分は、ロータス領の出身なんです。この街ではないですが、街道を折れた先の、ちっぽけなところで。すぐ隣が森だったために魔獣の被害も大きくて……今はまだ誰も戻れていません。主要な街道が通っているところですら碌に復旧していない状況で、村を復興させるのは遠い道のりだろうとわかっていました。それでも何かしたくて、今回のエステル様の同行に志願したのです。ですが、想像していた以上に復興が遅れている様子を目の当たりにして……自分に出来ることなど何もないのではないかと、絶望しかけていました」
流れる涙を袖で乱暴に拭いつつ、それでも彼は顔を上げた。
「エステル様がご自身の財産まで使って一歩を進まれるなら、目の前の瓦礫を片付けることは我々の役目です。領民たちに先を取られるなど騎士の名折れ。すぐに取り掛かります!」
そして彼は声を張り上げ、部下を叱咤激励した。
「おまえら! 今日中に街道だけでも復旧させるぞ! 成し遂げるまで戻れないと思え!」
去っていく彼と入れ替わるように、今度は女性たちが近づいてきた。
「あの、子どもたちから瓦礫と珍しい食べ物を交換してくれるって聞いたんですけど……」
「えぇ、こちらで受け付けています。普段の食事はどうされているんですか?」
「領主様から保存食が配給されていて、なんとかなってはいます。でも、塩漬けの肉や野菜ばかりで、子どもたちも飽きちゃって、食べムラも多くて」
「ごめんなさい、新鮮なお肉やお野菜はないんです。でも果物のシロップ漬けならありますよ」
「果物ですか! 欲しいです。もうずっと口にしていなくて……。そういうのは後回しにされるから」
「日持ちがするお菓子もありますよ。ブランデー入りのケーキとか。あ、お酒もあるんでした。全部瓦礫と交換できます」
「お酒なんてずっと飲めていないから、主人が喜ぶと思います」
「お酒は激戦になりそうですから頑張ってとお伝えください」
走り回る子どもたちがいい宣伝役になってくれたのだろう。一時間もすれば大人たちも総出で瓦礫の回収を始めてくれた。果ては一番いいワインを賭けて力持ち選手権まで開催され、崩れかけた壁の一部が運び込まれるほど。集めた廃材を利用して崩れが比較的少なかった建物を修復すれば、仮小屋で寝泊まりしていた人たちがそちらに引っ越してくれ、道に迫り出していた建物も次々と撤去された。
住民たちも気付いてはいたのだ。助けを待つばかりでなく、自分たちが動いて瓦礫を撤去し、家を建て直して生活の基盤を整えなければならないということに。だが街に指導者はなく、それぞれが思うままに行動し、誰かのためにという気持ちが希薄になってしまった。なまじ食べていけるだけの配給があったために、その日暮らしのままここまで来てしまった。
だが今。自分たちの前に突如として現れた騎士の一行の正体を、彼らは知らずにいた。王家の紋章が刻まれた馬車があっても、そもそも紋章など知らない者たちばかりだ。なんとなく領主様が遣わせてくれた人たちだろうと思いながら、指示通りに街を綺麗にしていく。瓦礫を拾い集めながら、騎士たちの中心にいる緑の髪の少女のことが気になったものの、目先の珍しい食料や酒類に惹かれて、我先にと働くのみだ。
街の住民が彼女の正体を知るのは、ずいぶん先のことになる。
◆◆◆◆
ことの顛末を聞いたカークはただただ絶句した。どおりで新品だったシャツが薄汚れているはずだ。この汚れは洗濯しても落ちないだろう。エイダンの新しい衣服はやっぱり必要だった。
いや、そんなことより、だ。
「……それで、馬車二台を空にしてきたのか?」
「そう! おかげで瓦礫を積めるだけ詰め込んで、簡易の集積場に運び込めたの」
意気揚々と報告するエステルは、さらに特大の情報を提示した。
「あと、あの馬車すっごくお役立ちだったから、あの街に置いてきちゃった。馬も一緒に」
「は? 王家の馬車を馬ごと置いてきただって!?」
「だって瓦礫運びを何往復かさせてもびくともしないんだよ。さすがはうちの馬車だよね。住民たちもすっかりやる気になって、続きは自分たちで頑張るって言ってくれたんだ。瓦礫運びにはやっぱり馬車があった方が楽でしょう? だから使ってほしいって置いてきたの」
愕然としながらデュカス隊長を再度振り返れば、彼が申し訳なさそうにつけたした。
「住民たちの中から臨時のリーダーを選出してもらって、口約束にはなりますが、契約をしてきました。寄贈ではなくロータス伯爵家からの貸与ということで説明しています。伯爵家の財産を預けるのですから、くれぐれも盗難には気をつけるようにとも伝えてあります」
街ではついでに自警団を発足させ、夜間も含めて交代制で馬車を守ることにしたという。事後承諾という形で言い含められれば、カークに否やは言えない。元よりエステルには弱い自分だ。
「わかった。でも次からは先に相談してほし……」
「カーク、あのね! 私、今回のことでわかったの! 自分がすべきこと」
汗と埃にまみれた顔を輝かせて、エステルは満面の笑みでカークに迫った。
「私、自分の足でロータス領を見て回ることにする! そうすればどこで何が足りてないのか把握できるでしょ? 人手を融通することはできなくても、今回みたいに自分たちの力で立ちあがろうって思えるように支援することも必要だと思うの。それを私がやりたい!」
「エステル……」
「だってカークも忙しいじゃない。いちいち私に指示をしてる暇なんてないよね。だから自分から率先して仕事を探す方が早道だと思って。いつまでもカークに頼りっぱなしじゃ駄目だよね。だって私、ロータス伯爵令息の奥さんだもの!」
言い切ったエステルは満足とばかりにうんうんと頷いた。
「伯爵家に戻ったら、さっそくどの地方から回るのがいいか、計画を立ててみるね。あ、でも私ひとりじゃさすがに行かせてもらえないよね。誰か着いてきてくれるかなぁ」
「恐れながらエステル様! 私が参ります!」
割り込むように声を上げたのはデュカス隊長その人だった。
「あっ、隊長ひでぇ! 抜け駆けじゃん!」
「エステル様、俺も、俺も行きたいです!」
「あの! 自分は東地域の出身なので、そっちの方向は詳しいです! ぜひ連れて行ってください!」
「それなら俺は西だ!」
次から次へと自薦者が湧いて出る中、「いや、そこは俺を頼ろうよ……」と夫であるカークが項垂れたのは仕方のない話だろう。
騎士たちと一緒にロータス領を巡る旅計画を立て始めたエステルが、思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。目録と一緒にカーク宛のお手紙も入ってたんだった。はい」
エステルに渡された封筒には確かに自分の名前が宛先として書かれていた。これもランバート補佐官からの物らしい。
そもそもなぜ彼は馬車の荷物の中に手紙など残したのだろう。二人に宛てるのであれば領主館に送った方が確実だ。
不思議に思いながら開封してみれば、流麗な筆跡で次のことが書かれていた。
——無事エステル様と共にロータス家入りされましたこと、心よりお喜びいたします。いずれソフィア様が南部の視察をしたいとおっしゃることでしょう。平和ボケからさっさと切り替えて、王家のために南部のためにきりきり働いてくださいますようお願い申し上げます——。
慇懃無礼というか、むしろ無礼しかない手紙に唖然とした。南部の復興のために旅立つ義弟夫婦に宛てる内容として、適当であるとは言い難い。そもそも自分はかの補佐官とは一度しか面識がない。どう見ても好意的とは言えない手紙を貰うほどの関係ですらなかったはずだ。
エステルと王家の馬車を引き連れ、伯爵家へと戻る道中、ひたすらランバート補佐官のことを考えるが、やはり結婚前の挨拶のことくらいしか思い出せない。
(は! もしや彼はエステルに横恋慕していたんじゃないのか!?)
だとすれば恋した相手を褒賞としてかっさらっていった自分のことを恨むのも頷ける。慌てて愛する妻にそのことを確認してみれば、きょとんとした顔をされた。
「ランバート補佐官が私のことを好き? カークってば何言ってるの? 私、あの人がソフィアお姉様の婚約者になるまで、会話したこともなかったのよ。というより全然知らなかったし」
どうやらエステルのランバート補佐官に関する知識は自分と同じ程度のようだった。
「だが、彼がエステルに一目惚れして、気持ちをずっと秘めていた可能性もあるんじゃないか?」
「それは絶対ないよ。だってランバート補佐官、どう見てもソフィアお姉様のことが大好きだよね。ずっとお姉様のことを目で追ってるし、お姉様と話すときは嬉しそうだし」
「そう、だったか?」
自分と握手したときも彼は微笑んではいたようだが、それは心から笑っているのでなく一貴族として体面を保っているようにしか見えなかった。ソフィアに対してもそうなのかと思っていたが、違ったのだろうか。
「それにね、ソフィアお姉様も彼のこと気にしている様子だったの。補佐官が近くに来るとソワソワしてたし」
「ソワソワって……もしかして怖がってるとか、苦手だとか、そういうのでは?」
「カークだって乳兄弟なんだから、お姉様のことよく知ってるでしょう? お姉様は誰か特定の人を怖がったり嫌ったりなんて絶対にしないわ。仮に苦手だと思ったとしても、絶対に態度には見せないもの。でもランバート補佐官の前ではそういうのが見えちゃうくらいだから、きっと特別な人なのよ」
エステルの言う通り、カークが知っているソフィアは、特定の人相手にわかりやすく態度を変えたり表情に出したりする人ではない。
だが妻が言い切るのを見ても、首を傾げざるを得なかった。
「なぁに、ランバート補佐官が気になるの?」
「気になるというか……俺はもしかしたら彼に嫌われてるんじゃないかと思って」
「まさか。それはないわ。だってランバート補佐官、カークに感謝してるって言ってたもの」
「それは俺が英雄として魔獣の王を退治したからだろう」
「違う違う、そうじゃなくて、私、聞いたのよ。お姉様にお茶に誘われたとき、彼もそこにいてね。帰りに私を部屋まで送ってくれたんだけど、そのときにカークには昔、虫退治をしてもらったからとても感謝してるって言ってたの。私も魔獣暴走のことかって聞いたけど、そうじゃないって」
「虫退治?」
憶えのない単語に頭をひねる。彼のために虫を退治してやったことがあったかと記憶を遡るも、該当する事柄は思い至らない。となれば何かの要請で任務として対応したことかと考えるが、こちらも思い当たる節がない。
「まったく憶えがないんだが……」
「虫退治って言ってたと思うけど。あれ、虫除けだったかな? それで、最後の特大の虫は自分で追い払えてすっきりしたとか、そんな話をしていたような?」
二人してうんうん悩みながら記憶を辿るも、答えらしい答えには行き着けなかった。
◆◆◆◆
この日の有言実行とばかりに、支援が行き届いていない土地に復興の足掛かりを築くべく、エステルは広い南部の土地を縦横無尽に駆け巡ることになる。早々に家督を譲られたカークの名とともに、領主夫人エステルの姿は、南部の領民たちの目ににしっかりと焼きつけられ、二人が名実ともにロータス領主夫妻としてこの地に根付く象徴となるのだった。
エステルが輿入れとともに王家から引き連れてきた馬車は、その後も復興工事の足として大いに活躍した。老朽化のため取り壊されることになったときは、貸与先の各地域で引退式が行われ、取り外された王家の紋章は街の宝として受け継がれた。一緒に引退した馬たちも地域住民に大切にされ、亡くなった後も丁寧に埋葬されたという。
二人が南部入りして半年後、王家ではソフィア王太女の結婚式が盛大に開かれたが、その席にエステルの姿はなかった。南部にいたエステルが直前に流産してしまったためだ。本人も周囲も妊娠に気づいておらず、流れて初めてわかったことだった。
さすがのエステルもひどく落ち込み、王都までの長旅を見送らざるを得なかった。ソフィアの慶事に水をさすわけにもいかず、エステルの体調不良と理由を述べてひとりで結婚式に出席したカークは、国王夫妻にだけは事前に事情を伝えておいた。結婚式典後に事実を知らされたソフィアからは謝罪と労りの長い手紙が届き、エステルも多少前向きになった。
まだ十八になったばかりの若い花嫁だ。すぐに次があるだろうと皆が期待する中、先にソフィアの懐妊の報がもたらされた。結婚式からわずか三ヶ月後のことだ。
来年には甥か姪かが誕生するとわかったエステルの喜びようは相当なもので、次の社交シーズンこそは王都に行って姉に会うのだと張り切った。元気を取り戻し、領主夫人として精力的に活動する中、残念ながら翌年のシーズンは細々した事情が重なり、王都に戻ることができなかったが、代わりに次の王太子となる男児を産み落としたソフィアが南部の視察に出向く計画が持ち上がった。ロータス領の復興はかなり進んだとはいえ、王太女を迎えるとなれば警備体制や交通網の整備にも不安が残る。念には念を入れるためにもう一シーズン見送って準備を整えたのだが、直前にソフィアの第二子の妊娠がわかり、視察は取りやめになった。
未来の国王となる第一子に続く、王家の新たな家族の誕生だ。非常に喜ばしいことだが、エステルが少しだけ残念に思ったことは誰も責められないだろう。ソフィアは無事男児を産み、その知らせだけが届いた。
その後もロータス元伯爵が危篤状態となったり、農作物の不作や街同士の諍いがあったりと、王都に上がる時期に何かとトラブルが重なってしまい、エステルもカークも王都に向かうことができず、あっという間に十年の月日が流れた。その間にソフィアの南部視察の計画が何度か立てられたものの、その都度他国からの王族の訪問が重なったり、重要な国際会議が入ったりして悉く取りやめになった。
次こそは必ずと願ったソフィアの南部入りが、彼女の第四子の懐妊で再び流れたとき、カークはこれが彼の策略だと確信した。そう、今やソフィアの夫として公爵位を持ち、ソフィアと並んで殿下と称されるユリウス・ランバートその人だ。
この十年の間、王城で南部の復興の旗を振っていた彼と、カークは何度も手紙を通じてやり取りすることになった。やり手の元宰相補佐と、領主としてはひよっこの自分では力量の差があるのは当前のこと。初めこそ彼を敬い素直に意見を聞いていたが、彼から返ってくるのはあまりに厳しい内容ばかりで、ずいぶん疲弊させられた。
たとえば魔獣暴走の渦中に、ロータス領では魔獣を駆逐するため森を切り開く施策を取り入れていた。そのとき切り倒された木材が大量に余っていたため、カークはこの木材を利用して、倒壊した家屋の再建をする計画を立てた。執政官を通じてその案を王都に提出し、予算を組んで取り掛かろうとしたところ、ユリウスから返ってきたのは「木材で家を建てるなど狂気の沙汰。火事が起きればすべて燃え尽くして大災害になると少し考えればわかるだろう。木材は木材として家具や冬場の薪として有効に使え」とばっさり突き返された。
また来年こそは麦の作付けをと、耕作人を募集しようとすれば、「どうせなら耕す前に区画整理でもしてまともな道をつけろ。もともと飛地の農地が多い南部なのだから、壊滅状態の今を利用して将来性の高い再建をするのが賢さというものだろう。先を見据えた復興案を上げてこい」と、やるべきことを倍にして返される始末。さすがのカークも腹に据えかねることが何度もあったが、向こうの方が立場は上。加えて指示が的確なだけに反論のしようもない。この頃には彼が自分に感謝しているなどというエステルの話も何かの間違いだろうと記憶から抹消し、ひたすら領地改革に勤しんだ。
そうして揉まれながら、あっという間に十年。
エステルは最初の年に身籠った子どもを流産して以降、懐妊の兆しがなかった。ソフィアに三人目の男の子が誕生したとき、「お姉様の子どもを養子にもらうっていう手もあるわよね」と、出産を知らせる手紙を読みながら呟いた。十七で花嫁となったエステルは二十七歳。子どもを諦める年齢ではないが、こればかりは授かり物であり、カークも励ましようがなかった。
そんなエステルの十年越しの懐妊の知らせである。泣きながら愛しい妻を抱きしめたカークだったが、突如として我に返った。
「エステル! 大変だ、今すぐベッドで休まなきゃ!」
「カークってば落ち着いて。別に病気じゃないから、普通にしてても平気だってお医者様も言ってるし」
「何かあってからは遅いんだ! 君は今日から外出禁止だし、部屋からも出ないで。食事も全部運ばせるから!」
「大袈裟よ。そりゃ、馬に乗るのとか外出とかはしばらく控えなくちゃだけど」
「馬も外出も絶対駄目だ! あ、歩くのだって禁止だ。俺が運ぶから!」
足を地に着けさせることさえもってのほかとエステルを抱えれば、彼女が首に腕を回して彼の名を呼んだ。
そのまま額をこつんと合わせてお腹に手を当てる。
「ねぇ、きっとこの子は待ってたんだと思う。私たちがちゃんとこの地を復興させるのを。それが出来たから、満を持して生まれてきてくれるのよ」
エステルが瞳を上げた先に広がるのは、カークが三年かけて区画整理をした麦畑だ。エステルが各地を回っている間に、カークは執政官と共に王都と協力しながらロータス領全体の改革に取り組んだ。バラバラな造りだった船着場の設計を統一したことで、修理にかかる人員と手間を削減し、貿易業は前よりも収益を上げるまでになった。ユリウスの言を受けて、飛地となっていた畑をまとめ、農道を通し、主要街道沿いに備蓄庫をまとめて建設して出荷の利便性を向上させた。広くなった街道と利便性が高まった水路を使って、復興から五年目には以前のように麦を他領に出荷できるまでに回復させた。流通を促進するために商人に許可証を発行し、関税の優遇措置と引き換えに物資の優先的な買い付けの約束を取り付けた。これにより必要な資材が多く手配できるようになり、復興の速度は格段に上がった。
魔獣暴走の爪痕が完全に消え去ったとは言えない。犠牲になった領民や騎士たちの追悼式が毎年開かれるたび、誰もがあの脅威を思い出す。
だが人々は流した涙を拭ったその手で、その足で、翌日にはまた動き出す。かつてラムネに胸躍らせた子どもたちが大きくなり、結婚して、子を産み育てている。
失った命の代わりはない。それでも新たな命が芽生えることはかけがえのない喜びであり、すべての者たちにとっての希望だ。今また宿った新たな希望を前に、カークは瞳を震わせた。まだ目立たないお腹を大事にさすりながら微笑む妻に、自分はいつだって頭が上がらない。
いつか彼女の隣に並び立てることを夢見ていた。そのためだけに剣を振るい、夢中で駆け上がってきた。
だが、彼女はいつでも自分の先を行く。届いたと思った手をすり抜けて、さらに遠くへと駆けていく。
彼女を追いかけて、自分はずいぶん遠くまで来てしまったなと思う。豊かになった領地を前に、この黄金色の風景も、澄み切った空も、遠く広がる深い森も、すっかり嗅ぎ慣れた初夏の風も、エステルがいたからこそ知ったものだと丁寧に噛み締める。
———君を一生追いかけられることが、こんなにも嬉しい。
ダンフィル侯爵の肩書きも持つカークだが、この十年間、その名を名乗ることはなかった。エステルと作り上げたこの土地こそが彼のすべてであり、ロータスの名前こそが守り育てるものだと実感していた。
まだ明るい夕方の景色を眺めながら、生きとし生けるものすべてに感謝する。愛する妻の額にキスをしながら、腕の中でくすぐったそうに身じろぎする彼女を、大切に、この上なく大切に思うのだった。
安定期に入ったエステルの懐妊の知らせは、王国中を駆け巡る。
老いて病床にあったロータス元伯爵が「孫の顔を見るまでは死ねん」と歩く練習を始め、先走った国王両陛下から大量の贈り物が届き、ロータス領のあちこちでお祝いの祭りが開かれる中。
「カーク、カーク! ソフィアお姉様がロータス領に視察にくるんだって! この子が生まれる頃よ!」
王都から届いた知らせを振り回すエステルのお腹は、すでにふっくらとしていた。胎動も感じ始め、カークが触るたびに元気よく蹴りつけてくるところを見るに、活発な子のようだ。
「良かったな、と言いたいところだが、油断は禁物だぞ、エステル」
何せ計画が持ち上がるたびに、何度もご破産になった過去がある。主にソフィアの懐妊という慶事のために、だ。もちろんソフィア本人のせいではない。背後で糸を引いているのはあの腹黒元宰相補佐に違いないとカークは睨んでいた。この十年の間にソフィアは四人の子の母となっていた。王族が増えるのは喜ばしいことだが、さすがに矢継ぎ早が過ぎるのではないか。自分がなぜユリウスにこれほどまで悪意を持たれなければならないのか、未だ判明もしていない。
義理の兄となる相手に、会いたいか会いたくないかと言えば、会いたくない一択だ。この十年の間に幾度となく感じたことだが、絶対に気が合いそうにない。
思わず顔を顰めて見せれば、エステルが口元に手を当てて含み笑いをした。
「今度は大丈夫じゃないかしら。お姉様ったら、“自分の南部行きが実現するまで夫を寝室から締め出す”って書いているのよ」
呆気にとられたカークを見てさらに大笑いする。どうやら妻もまたソフィアの来訪が悉く潰された事情について、思うところがあったらしい。
「あのお姉様がこんな冗談を言うだなんてね。幸せそうで嬉しいわ」
きっと冗談ではないはずと心で反論しながら、後半の言葉だけは同意できた。カークがよく知るソフィアは、こんな明け透けな物言いをする人ではなかった。十年という月日と、夫や子どもたちと築く新しい関係が、彼女を変えたのだろうかと考える。
だがその変化は悪いものではないのだろう。過去のソフィアとの十九年の関係の中で、自分では引き出せなかった彼女の新たな魅力だ。
かつて乳兄弟として共に過ごした敬愛する女性のことを思い出しながら、おそらくその彼女にベタ惚れで、なのに寝室から閉め出されてしまう嫌味な男のことを想像して、ざまぁみろと溜飲を下げるのだった。
月満ちて、エステルは女の子を出産する。
父から空色の瞳を、母から深緑の髪色を受け継いだ赤子はゾーイと名付けられた。
命を意味する名とともに、南部の自然に囲まれてすくすくと育った彼女は、長じた後、ソフィアの第一子であり、父ユリウスに最も似ていると称される王太子セオドアから熱烈な求婚を受けるも、「南部から離れるつもりはありません」とプロポーズを一蹴。父であるカーク・ロータス伯爵がざまぁみろと大いに喜ぶことになるのだが、それはまた別の話だ。
ルヴァイン王国の物語はこれで完結です。
最後に★評価やリアクションをいただけるととてもとても嬉しいです。
4作通して嫌われ率が高いユリウスが、さらに敵を増やしそうな勢いですが。
愛する女性を追いかけて、追いついて、腕の中に閉じ込めるユリウス。
追いついてもまだ先を走られ、さらに追い続けることになるカーク。
全力で走った後の、止まり木となる場所に幸せを感じるようになったソフィア。
走ってもまだ尽きぬ体力で、愛する人を新たな世界へ導き続けるエステル。
この対比でもありました。
全知全能に近いソフィアにとって、エステルが図鑑でしか見たことのなかった藤の花を初めて見せてくれた人であるように、ユリウスが今まで知らぬ感情を初めて教えてくれた人ということで、自分の心を動かしてくれる数少ない存在に強く惹かれることになります。
エステルの場合は理屈など抜きに、ただただ素直にすくすくと育てた感情だけでカークを求めました。
身軽だからこそ軽やかに、彼女の恋はどこまでも飛んで、壮大な種まきをすることになったのでしょう。
ソフィアでは南部をまとめられず、エステルでは国をまとめられなかったものと考えます。
二人して小さい頃から己の領分をわかって、お互いを大切に思う心を育み、やがては運命の恋に出会えたのだと思います。
短編と言いながら、1話が2万から3万文字ですので、4作合わせて小説一冊分の分量がありました。一種の詐欺ですね。ごめんなさい。
最後までお付き合いくださり感謝です。