邂逅(side:小豆)
「犬飼さん、ここの仕様書って××ってなってるんですけど、前回の打ち合わせで●●って言っていた記憶があって……。これって合ってるか確認させて貰っても良いですか……?」
不意に隣から声がかかる。
「あぁ、それはそのままで問題ないよ。あの後先方からメールで指示があったからね」
「わ、本当ですか!?すいません、メール見落としてたみたいです……。ありがとうございます!」
隣の彼女は確認を終えると、自分のPCに視線を戻して作業を再開する。
新卒で入った会社に勤め続けて社会人5年目になり、後輩も増えてこうして頼られることも多くなってきた。
仕事の時間は良い。
仕事をしているときは忙しいから、私生活を忘れられる。
でも、今日は午前で仕事を切り上げて行くべきところがあるので、私はPCの電源を落として手荷物をまとめてから立ち上がる。
「すいません、お先に失礼します。」
「はいよー、お疲れさん。気を付けてなー」
課長がこちらに手を上げて行ってらっしゃいとジェスチャーをくれる。
「「「お疲れさまですー」」」
今日はクリスマスなので、そんな日に午前で仕事をあがると色んな視線を貰いそうなものだが、課長含め私の所属する課では皆事情を知っているから快く送り出してくれる。
本当にありがたい。
自席から離れて出入口へと向かうと、正面から見慣れた男の人がやってくる。
割りと仲の良い同じ課の後輩で、やや茶色掛かった短髪が良く似合う2つ年下の狛江 奏君だ。
年齢も近く、仕事を一緒にする機会も数回あったため、ただの同僚よりかは話す頻度が多い気がする。
狛江君もこちらに気付き、軽く手を上げながら近付いてくる。
「お疲れさまです。上がりですか?……あぁ、そうか、今日はあの日ですもんね」
「うん、そうなんだ。だからごめんね、ちょっと負担かけちゃうかも」
「いやいや、そんなの気にしないでくださいよ。今は仕事のことなんて考えずに気を付けて行ってきてくださいね。」
「うん、ありがとう」
彼は優しい人間だ。
短いやり取りの中にも気遣いが感じられるし、話ながら柔らかい笑顔を見せてくれるので安心感をくれる。
狛江君は学生時代にスポーツをやっていたらしく、身長が高くて体格が良い。
身長は180cmを越えているらしく、160cmの私は見上げる形になるので長時間立ったまま顔を見て会話していると首が痛くなっているのは内緒の話だ。
「仕事もプライベートもあまりムリをしないでくださいね。いざとなったときは頼ってください。それじゃあ、戻りますね」
去り際に気遣いを見せる彼の背中を少し見送る。
彼はその大きさと鋭い目付きも合間って、周りからは少し威圧感があると感じられているようだ。
確かにパッと見はドーベルマンを彷彿とさせるが、その実はとても心根の優しい好青年だ。
ありがとう。
そう心の中でお礼を言って、私は駅に向かって歩みを再開させる。
今日はクリスマス。
柴英君の2回目の命日だ。
――――――――――
彼の命日と月命日にはお墓参りに行くと決めている。
ややぶっきらぼうで、でも優しくて子どもっぽくて、いざというときはとても頼りになって、そんな大好きで心から愛していた彼がいなくなってから、もう2年が経つ。
2年という月日はとても長く感じるが、それでも私の心は2年前から中々戻ってこられない。
それほどまでに、あの日の別れはあまりにも衝撃的すぎた。
お互いに仕事を終えたら合流して、クリスマスディナーを楽しむ予定だった。
柴英君は一月以上も前から楽しみにしており、何度も何度も楽しみだなぁー!と漏らしていた。
そんな姿が可愛くて、その様子に私も釣られてワクワクしっぱなしだった。
当日に仕事を終えて、さぁ向かおう!と思った矢先に私のスマートフォンが鳴り、病院と警察から衝撃的な現実を告げられる。
別れも伝えられぬまま受け入れ難い、でも受け入れねばならない現実が突きつけられ、そこからの記憶はあやふやだ。
失ったものがあまりに大きく、脱け殻のように日々を過ごしていると理解しているが、心は中々切り替わらない。
墓参りをすることで、少しずつ気持ちを切り替えられるかと思って続けているが、未だに効果はない。
今は家に帰らないための言い訳にもなりつつある。
あの部屋には、思い出がありすぎるのだ。
結婚前の学生時代から同棲を始め、家賃は大分ムリをしたが学生の間は互いの両親にも助けられ、そのまま結婚しても住み続けた。
彼と3年近く一緒に過ごした部屋。
ただの3年ではない、私の人生の中で他と比較できないくらいに充実して濃密だった3年間だった。
そんな思い出溢れる部屋に住むのは辛いはずなのに、引っ越すことができない。
思い出を失う怖さと、もしかしたら柴英君が近くにいてくれているかもしれないという期待で、留まり続けてしまっている。
はぁ、と溜め息が溢れる。
もうそろそろ、多少強引にでも気持ちを切り替えないといけないのは分かっている。
いつまでもこのままではいられない。
墓参りを終えた私はすっかり暗くなるのが早くなった冬の空を見上げて、引っ越しも考えないとなぁと思いながら帰路に着き始めた。
――――――――――
自宅と目と鼻の先にある商店街は、クリスマス効果もあってひどく賑わっていた。
商店街内を流れるきよしこの夜がクリスマス感をより強めて、煌びやかな装飾が街灯と店の明かりに照らされてキラキラと輝いている。
まだ19時台だからか活気がすごく、子どもは非日常に宛てられて大はしゃぎしており、手を繋いで店を見て回っている学生カップルも心なしか足取りが軽そうに見える。
今の私には、この喧騒は居心地が悪すぎる。
足早に商店街を抜けて、自宅マンションへと足を早める。
そして、マンションが近付いてきたと思うと、その前に4足で立っている小さな存在に目が止まる。
何故かはわからない。
佇まいだろうか、雰囲気だろうか、その存在に私の愛しかった人の姿が被り自然と声が出ていた。
「柴英……くん……?」
分かっている、そんな訳はない。
赤茶色のふわっとした体毛に包まれたそれは、「わぅ……」と小さな声を上げてこちらを振り返る。
振り返った瞬間、何かが目に触れたのか勢い良く首を振りだした。
空を見上げると白い雪がちらつき始めており、今日はホワイトクリスマスになったようだ。
視線を落とすと、首振りを止めてこちらを見上げる顔と目が合う。
小さく立った耳に小さな体、短い足は保護欲をくすぐり、少し潤んだ瞳をこちらに向けてくる。
潤んだ瞳から、先ほどは目元に雪が当たったのだろうと推察する。
愛くるしい見た目のそれは、豆柴と呼ばれる犬であることを瞬時に理解できた。
豆柴……頭に思い浮かぶのは、愛しい人、愛しかった人の愚痴だった。
「俺さ、小さいし名前に『犬』と『柴』が入るから、豆柴って呼ばれるんだよなぁ。こんなあだ名嬉しくないっての」
クスリと、笑顔が溢れてしまう。
今日という日にこの子と出会えたのは運命なのかもしれない、なんて柄にもないことを考えてしまう。
幸い、目が合ってもこれだけ近くにいても逃げ出さないのだから、人には慣れているのだろう。
首輪もついていないので、誰かの飼い犬ってこともなさそうだ。
何か生活を変えるきっかけを探していた。
そして、目の前にはどこか愛しい人を想起させる存在。
私は迷わなかった。
「君さ、行くところがないなら家に来る?」
一瞬驚いたように見えたが気のせいだろう。
一拍置いて「わん!」と元気の良い返事をくれた。