再会
思い立ってすぐに出発したのは良かったが、冬の夕方は想像以上に暗く、落ちていく気温が遠慮なく俺の体温を奪おうとしてくる。
小さくなった体で目一杯歩いているからか、思ったよりも寒くは感じないものの、地面から伝わる冷たさも合間って体力の減りは早かった。
ただ不都合ばかりではなく、暗くて視界が優れないことは俺にとって非常に都合が良かった。
なんせ、人目につかないからだ。
俺は今首輪もついておらず、端から見ると所謂野良犬の状況である。
さらには凄まじく愛らしい姿をしているであろうことは想像に容易い。
こんな姿で人目につけば、誘拐不可避だ。
どこかの家庭や保健所にでも連れていかれたら、自由に出歩くことも難しくなる。
そうなってしまえば、もう小豆に会えることはなくなるだろう。
それだけは、どうしても避けたかった。
ましてや、保健所に連れて行かれたら最悪処分もあり得る。
そんな形で今世を終えるのは本意ではない。
だからこそ、今のこの視界の悪さは俺にとって非常に都合が良かった。
――――――――――
どれくらい歩いただろうか。
人間の頃は数歩だった距離でも、この小さな体では遥か遠い距離に思えてしまう。
4本の足が強めの疲労を訴えてくるが、早く会いたい一心が疲れた体にムチを打ち続ける。
人間時代に住んでいたマンションの近くには商店街があり、その立地から買い物に困ることはなかった。
その商店街が近づいてきているのだろう、ここまで人気のなかった景色が徐々に活気付いてきたのを感じる。
暗かった景色が増えてきた街灯や店の煌びやかな光に少しずつ照らされ、徐々に賑やかさを彩る。
そのまま歩を進めていくと、ついに目の前に商店街の入り口を示すアーチが現れた。
商店街からは活気付いた人の声や有線の音楽が聞こえ、その騒がしさはお祭りにも引けを取らなさそうな雰囲気だ。
あぁ、なんて懐かしいんだろうか。
あの頃と代わりない景色があまりに懐かしく、ここまでの疲れが吹き飛んでしまうほどの感動を覚える。
小豆と行ったことのある場所は大体覚えているが、この商店街は日常的に彼女と通っていたため思い入れが強い場所だった。
人間の頃は人ごみが苦手だったこともあり、商店街という存在の雰囲気を鬱陶しく感じていた時期もあった。
そんな俺でも小豆とここの商店街を歩くのは楽しくて、初めて人ごみを楽しく歩けたことに内心でひどく驚いたものだ。
小豆と2人で歩くだけで苦手な空間も最高のデートスポットに早変わりすることに気付いた俺が、彼女が如何に尊い存在なのかを友人に熱く語り、しっかりと呆れられた記憶が甦る。
この商店街は、そんな気付きを与えてくれた場所だから特に思い入れが深い場所に感じていた。
ふと懐かしさから商店街の喧騒に耳を傾けると、有線からは美しいクリスマスソングが響いていた。
今は、そんな季節なのか。
人間のまま生きていたら、今頃は小豆と……なんてどうしようもない考えが浮かんで暗い気持ちが頭を出そうとするのを、首を振って抑え込む。
このまま商店街の中を抜けるのは人が多く非常にリスキーなので、1人のときに良く使っていた裏道を使おうと足を進める。
少し喧騒が離れることに寂しさを覚えつつ、目的地が近くなっているとこに胸を高鳴らせながら懐かしい道を歩き出す。
――――――――――
暗い道をひたすらに歩き続けると、住宅が建ち並ぶエリアに抜けた。
再度記憶を頼りに歩き進めると、溢れんばかりの懐かしい思い出が詰まったマンションに辿り着く。
割りと築浅だったマンションの外観は未だに汚れが薄く、白い外装が今の季節ととてもマッチしていた。
その何でもない情景は、あまりにも俺の心を揺さぶり、急速に様々な美しい思い出を脳内に駆け巡らせた。
その全ては、このマンションで彼女と過ごした日常の記憶。
もう戻ることのない心暖かな日々。
不意に嗚咽が漏れる。
もう『犬飼 柴英』という存在が小豆と未来を紡ぐことはない、その事実を改めて突きつけられたように感じ、胸が痛む。
それでも、彼女に会いたいという気持ちに変わりはない。
戻せないものは仕方がない。
存在は変わってしまったが、次は彼女と新しい道を歩かせて貰えば良い。
叶うなら、ただ貴女の側に居たいだけなのだから。
そんな分不相応な願いを抱いて、彼女に会いたい気持ちを強く持つと、胸の痛みがゆっくりと引いていく。
まだ彼女は住んでいるだろうか。
幸いペット可ではあるもののオートロックでセキュリティには力を入れているマンションなので、さすがに犬1匹では中に突入して家の前まで行くことはできない。
今から帰ってくるだろうか、それとももう帰っていてゆっくりしているだろうか。
今もまだここで暮らしているかは分からないが、一晩くらいは待ってみよう、そんなことを考えていると不意に背後から声が届く。
「柴英……くん……?」
その時は、あまりにも突然訪れたのだ。
まるで呟いただけのような、あまりにも細く小さい声だったが、声の主はハッキリと分かる。
鈴を転がしたような耳障りの良い優しい声。
忘れるわけもない。
もう一度聞きたいと渇望した声が側に聞こえた喜びで、つい「わぅ……」と小さく声が漏れ、瞳には涙が浮かんでしまう。
何故、俺の名前を呼んだのか。
今の俺の姿を見て、『犬飼 柴英』その人と思うことはまず有り得ない。
不思議に思う気持ちはあれど、取り敢えず今はそんなことどうだって良い。
ゆっくりと振り返って見上げると目元に冷たい感覚が襲い、先ほど浮かんだ涙を別の水分が覆い隠す。
辺りに雪が落ち始めていた。
その水分を首振りで払い、再度見上げた先には想い焦がれた存在がそこにいた。
再度俺の瞳に涙がにじむ。
今日はなんて素晴らしい日だ。
あぁ、神様。
本当にありがとう。