5.何もかもが不確かな世界より、愛を込めて
私の結論はこうだ。
「物理法則など、存在しない」
あるのは主観と合意だけだ。
『魔法』という現象──この時点では、「『物理法則なるもの』に反する現象全て」と広く定義する──が、上から下に物が落下する世界で、矛盾なく存在することは、このように説明できる。
仮に2人の人物を置くとしよう。
我々の間ではおなじみの、『アリス』と『ボブ』だ。
アリスの目の前に広がる世界は、アリスの主観が創り出している。
ボブの目の前にもまた、彼の主観が創り出した世界が広がっている。
この2人の世界が重なったところに『合意』が生まれる。
そして、合意された物事は、2人の世界では事実としてふるまうのである。
アリスとボブの視界に、ある物体が落ちていたことを仮定しよう。小指の先ほどの、小さな物体だ。
その物体は小石であるかもしれないし、小さな虫であるかもしれない。
まず浮かんでくる疑問は、「目の前の世界を個々の主観が創り出しているのだとすれば、『小石』か『虫』か分からない物体など存在し得るのか?」ということだろう。
結論からいえば、存在し得る。
なぜなら私たちは、自分自身の心をほとんどコントロールできていないからだ。
たとえば、不条理なできごとに、どのくらい怒り、またどのくらい悲しむか、自分では決められないように。
あるいは、送るあてのない手紙を、何通も書き続けずにはいられないように。
私たちがメモをとるのは、外部のリソースに頼らなければ任意の情報を記憶し続けられないからだ。
このように、意志も、記憶も、感情も、私たちはほとんどコントロールできていない。
そのような私たちの主観が創り出す世界もまた、私たち自身によってほとんどコントロールされていないのである。
話を戻そう。
アリスとボブの前に、小さな物体が落ちている。
アリスはそれを「虫だ」と思う。
ボブはそれを「小石だ」と思う。
従来の考え方では、その物体は、虫であるにせよ小石であるにせよ、また別の何かであるにせよ、あらかじめ一意に定まっている。それは虫か、小石か、また別の何かとして、そこにある。
しかし、私はこう考える。
「その時点において、アリスの世界ではそれは『虫』であり、ボブの世界ではそれは『小石』である」
また別の言い方をするなら、「アリスとボブの世界で、それは『虫』と『小石』という2つの状態で重なり合って存在している」
そのいずれも、彼らの主観が彼らの意志とは関わりなく、無意識に創り出したものだ。
2人がその物体に十分近づいて、一方が──ここでは仮にアリスが──その物体を「虫だ!」と確信する。すると、その確信はボブの認知を書き換える。
その結果として認知が共有されたとき、物体は2人の世界で『虫』としてふるまう。
これが、私のいう『合意』だ。
「私とあなたは、同じものを見ている」
これが、「客観的事実」と我々が呼んでいたものの正体だ。
つまり私たちが「客観的事実」と呼んでいたものは、実際には当事者間で『合意』された「共同主観的事実」であり、『魔法』とはこの『合意』という手続きをハックすることで共同主観的事実を書き換える技術だととらえることができる。
ここで重要になるのが『イメージ』だ。
私たちの目の前に広がる世界のすべてが、個々の主観によるイメージであり、複数の主観の重なり合うところにより強く描かれたイメージが、現実としてふるまう。
そのために、魔法使いたちは呪文を唱え、魔法陣を描き、呪術的な動作で自らのイメージを補強する。
これが、魔法と物理現象の両方を説明する、根本的な原理だ。
私たちが客観的事実と感じているもののすべてが、主観の寄せ集めでしかない。
そう考えると、私たちがこれまで『物理法則』と呼んできたものがいかなるものであったのかということも、同時に説明できる。
生命は太古の昔から、互いの主観を重ね合わせながら世界を創ってきた。おそらく、生物が複雑な構造を獲得していくに比例して、より複雑な世界を描いていったのだろう。
中には巨大な山が火を噴くことを、強くイメージしてしまう個体もいただろう。あるいは激しい雷雨や河川の氾濫、地震、疫病、つむじ風──。
人々はこうした災いから身を守るため、また狩の成功や豊作、豊漁のために、共同体の中で「ある概念」を共有することで自分たちの世界をコントロールしようと試みてきた。
その概念が『神』である。
災いや豊穣にそれぞれ個別の神を紐づける共同体もあれば、唯一絶対の神にあらゆる禍福の起源を仮託した共同体もある。だがとにかく、共同体の中でイメージを共有し、多くの人たちの間で『合意』することによって、そのイメージの強度を高めてきた。
その体系が『神話』である。
しかし『神話』は、その共同体の特性に強く結びついているがゆえに、異なる共同体との接触を繰り返すうちにうまく機能しなくなっていっただろうと考えられる。
したがって、人々は、言語や文化、身体的特徴、生活環境、その他あらゆる共同体特性を横断して『合意』を可能とする、より普遍的な概念を必要とした。
その概念こそ、『科学』である。
その後の歴史と、君たちのいる世界を眺めれば、『科学』がどれほどの威力を持って世界中の人たちから『合意』を取り付けたのか、まざまざと見ることができるだろう。
科学の優れた点は、言語と数式で記述できることのみを対象とすることだ。
文字という形式で説明を完結できるということは、各々の主観にイメージを合意させるにあたって絶大な威力を発揮した。
論文、教科書、学術書、各種のメディア、学校教育を通して、科学は世界中の人たちに共有され、その認知は、もはやその世界の人たちにとって無謬の真実としてふるまう。
このように、おびただしい主観の合意によって、絶対的なまでに「確からしさ」を補強された、頑健な共同主観的事実。
それが科学であり、物理法則であり、我々がこれまで『客観的事実』と呼んできたものの全てだ。
万有引力をニュートンが発見したのではない。
「万物は引き寄せ合う」というニュートンの提案に、我々が合意したのだ。
君なら、もうとっくに気づいていることだろう。
これは呪文や魔法陣の代わりに、大量の人間を用いた『魔法』である。
『魔法』と『科学』は対立する概念ではない。
どちらも『合意』によって私たちの共同主観的世界を構成する手続きに過ぎず、この2つの間を分かつものがあるとすれば、それは様式の違いでしかないのだ。
その意味において、『物理法則』など存在しない。
あるのは主観と合意だけだ。
この考えを信じたとするならば、君は絶望するだろうか?
今まで自分のしてきた研究は、全て無駄だったのだと打ちひしがれるだろうか?
何もかもが不確かな幻の中で生きているのだと、虚無感に襲われ膝を折るだろうか?
私は絶望していない。
私たちは、それぞれの持つ世界を互いに共有しながら、世界を作っている。
だとすれば、今もまぶたに映る君との思い出は、私と君とが共に創り上げた世界だったのだ。
ドーヴァーの白い崖、ピーク・ディストリクトの豊かな草原、ジャイアンツ・コーズウェイの不思議な六角形の石柱、あの美しい世界を、私と君とが創り上げてきたのだ。
私はこの理論に心血を注いだ。
机の引き出しにはもう入り切らないくらい沢山の手紙を、君にあてて書いた。
今、私のいるこの惑星と、君の生きる地球との間に通底した原理が存在するならば、私と君とは同じ宇宙に存在していたのだと、同じ世界を生きたのだと、そう確信することができたからだ。
愛している。
世界は私の意志である。
アルトゥール・ショーペンハウアー
『意志と表象としての世界』より