3.我が探究の同士エヴァと、私の知り得る全ての科学者諸氏に
私は今、抑えがたい憤りと共にこの手紙をしたためている。
したがって、ときどき激しい罵りの文句を挟むこともあるかもしれないが、それは諸君に宛てたものではないのでご容赦願いたい。クソったれ。
私がいったい何に腹を立てているかというと、この辺りの研究者(を名乗る者たち)の姿勢についてである。
もちろん、私はこの世界にきて間もないので、会った研究者(を名乗る者たち)は数えるほどしかいない。だから、この世界の研究者全体を指して、その研究姿勢を批判するつもりはないが、私が会った数名の研究者(を名乗る者たち)は、一人残らずそうだった、ということだけは書き添えておきたい。
さて、この手紙を宛てた諸氏に向けて、まずここで言う『魔法』とはなにかということを定義しておきたい。いや、しておきたいのであるが、今のところ、はっきりと「これが魔法の定義である」と明言できるほどの理解を私自身できていないのが現状である。
とりあえず、地球において文化人類学者たちが少数民族の集落に行って研究する占いや祈祷、人を害する目的で行う呪いのようなものというよりは、もっと具体的な効果を現すものと考えてもらいたい。
つまり手のひらや杖の先から火の玉を放つ、あれである。あれが実際、目の前で起こっているのだ。
こう言うと、私が手品を使ったペテンを信じ込んだと考える者もいるだろうが、この世界において魔法という技術、および技術の成果として現れる現象は、あまりに広く一般に使用されており、逆に見世物としての価値はないくらいである。
統計的に有効と言えるだけのサンプルを集められてはいないが、私の出会った人たちの中では20人に1人くらいの人が、この『魔法』を使うことができる。
(私はある時点から積極的に魔法使いに会いに行ったため、サンプルにも偏りがある)
そして全く厄介なのが、この魔法というのは「人によってやり方も出来ることも異なる」ということだ。
念じることによって、指先や手のひら、杖の先から火や水を出す者、呪術的な図形を描いてそこから地面をせり上げる者、呪文を唱える者、唱えない者、とにかく、やり方もマチマチならやる事もバラバラで、一意に定めることができない。
また、何もないところから物体を出現させるというだけでなく、手も触れずにそれらを空中にとどめる、目標に向かって飛ばすなどという操作も含まれている。
おおかた、雷や火山の噴火を目にした太古の人たちは、こんな気分だったのだろう。
「もうお手上げだ」というのも分からないではない。
が、私たちは科学者である。
私はまず先行研究をあたることにした。
しかしここでも大きな困難にぶち当たることになる。《この世界》にはインターネットがないのだ。諸君、君たちがいるのは素晴らしい世界だ。私のいる世界にはインターネットもなければコンピュータもないし、そもそもエレクトロニクスが全くない。
私のいる街には図書館があるのだが、そこにも専門的な学術書や論文の類は置かれていなかった。
そのため私は馬車で(!)魔法の研究者をたずねることとなったわけだが、そこで出会ったのが、冒頭から私を憤怒に駆り立てている、研究者を名乗るサル共である。
さあ諸君、私と一緒に腹を立てる準備はいいか。
まず、彼らは『魔法』という言葉を厳密に定義していなかった。
「魔法を使う」のように不思議な現象を起こす手段を指すこともあれば、「敵に魔法があたる」のように不思議な術によって現れた物体を指す場合もある。
このように、それが動作なのか、物体なのか、現象なのか、運動なのか、何を指しているかが文脈によって変わるのである。
この時点で強い不信感をいだいた私は、はじめに会った研究者(を名乗る者)の曖昧な話に適当な相槌をうちつつ、別の研究者も紹介してくれるよう頼んだ。
そうして数人の研究者(を名乗る者たち)に会ったわけであるが、自分が研究対象とするものの定義を明示できるものは一人としていなかった。
では彼らが何をしているかといえば、ひとつには分類である。
用途によって、「攻撃魔法」「防御魔法」「生活魔法」などと分ける。出現したものによって、「火属性魔法」「水属性魔法」「風属性魔法」などと分ける。手段によって「詠唱魔法」「無詠唱魔法」「魔法陣」などと分ける。
学問上にも実用上にもどういう意味があるのかは知らないが、ある研究者(を名乗る者)は、こうしてとにかく分けている。
またある研究者(を名乗る者)は、過去の魔法使いが起こした秘蹟をとにかく収集していた。
魔法使いAはこの魔法とこの魔法が同時に使えてすごいだの、魔法使いBはある対価を支払うことによって強力な魔法を使うことができただの、魔法使いCは魔法を商売に使って大金を得ただのといった調子である。
それはメジャーリーグのファンが歴代の名選手を語っているのと変わりがなかった。聞かされている方が強烈な眠気と格闘しなければならないことも含めて。
しかしこれだけなら、ここまで腹を立てるほどのことではない。
研究にあたっては対象の分類が必要な場合もあるし、過去の事例を集めることも資料としては価値がある。
問題は、彼らが『魔法』という現象、あるいは技術、あるいは物体、あるいは運動について、本質的に探究しようという意志を欠いていることだ。
彼らのパラダイムは次のようなものである。
「この世界には、物理的な法則と魔法的な法則、この二つの力学体系が重なり合って同時に存在している」
それには一見納得できそうな響きがある。
だが、「では魔法とは一体何なのか」という私の問いに対する彼らの答えはこうだ。
「魔法とは物理的な法則を超越したものである」
「ではなぜ、魔法は物理的な法則を超越するのか」という問いに対する答えはこうだ。
「物理的な法則を超越したものが魔法であるからだ」
科学者を名乗る限り、このような同語反復は許されない。
つまり彼らは、現実の諸相から解明不能な事柄を切り離してパンドラの箱にしまい込み、思考を放棄したのである。
その意味において、彼らは科学者ではない。
諸君、私たちは科学者である。
太古の昔から、火を噴く火山や轟く雷霆、とうてい神の御業としか思えぬ巨大な自然の謎に立ち向かい、数えきれない失敗を繰り返しながら、真実のわずか一端を掴もうともがき続けてきた人たちの末裔である。
科学者諸君、私たちの間には、どの局面でも大なり小なり意見の相違があった。時には論争という名を借りた、とうてい理性的とは言い難い激しい罵り合いをした覚えさえある(バーナム博士、君が私のジャケットの袖を引きちぎったことは忘れていないからな)。それに、私たちはそもそも互いの人間性をあまり信頼していない。
だが、「真理を追究する」この目的を共有しているかぎり、私は諸君らを仲間だと信じている。
科学者にとって、もっとも重要な資質とは何か。
思うに、それは信念だ。
私はこのように定義する。
「『魔法』とは、まだ解明されていない『科学』である」
そしてそれらの謎は、解き明かされる日を待っている。
私はパンドラの箱を開ける。
そこには希望が残されているはずだから。