2.親愛なるエヴァ、そしていつも機嫌の悪い彼女の飼い犬ノギン博士に
私には懐古的な趣味がほとんどない。だから、まさか自分の人生でインク壺に羽ペンをひたして手紙を書くような機会があるとは夢にも思わなかったが、そうしたことにもずいぶん慣れてしまった。
さて、今日は《この世界》にきてから私の身に起きたいくつかの幸運について、少し振り返ってみたいと思う。
まず何よりも第一に感謝すべきは、この惑星の環境である。
私はいつも気圧計や酸素濃度計を持ち歩いてはいないし、ストップウォッチや巻尺でやたらめったら時間や長さを測る癖もない(私たちの仕事仲間にはそういう人が何人かいるね)。なので、正確な数値については何も記述することができない。
だが体感を頼りに言うなら、この星の大気はおよそ1気圧に近く、酸素濃度は21パーセントに近く、重力加速度は9.807メートル毎秒毎秒に近いものと考えられる。
つまり、地球にいた時と比べても、特に違いを感じないということだ。
太陽系でいえば、お隣の金星でさえ気圧は地球の92倍、地表温度は摂氏460度。とてもじゃないが住みよい環境とはいえない。
したがって、私がこの世界に迷い込んだとき、あられもなく内臓をぶちまけてぺしゃんこに押し潰されたり、全身の皮膚を紫色に変色させながらのたうち回ったりせずに済んだことは、まったく奇跡的な幸運としかいいようがない。
私はこの世界に暮らす人たちとの出会いや、彼らの善意に感謝しているが、それ以前に彼らが絶えずシアン化水素を呼吸するような生物でなかったことに、ことさら感謝の意を禁じ得ないのである。
そう、ここに住む人たちへの感謝といえば、私がこの世界にきてから最初に出会った友人について。
彼は寡黙だが情に厚い人物で、言葉も分からず右往左往していた私に同情し小屋を貸してくれた。しかし後から聞いた話によると、彼が私に自分の家の一室ではなく小屋をあてがったのは、私の歌がお気に召さなかったからだそうなのだ。
学問上の難解な理論が一般の人には理解しがたいように、芸術もまたそのようなものであるから仕方のないことだが、これには少し落ち込んだ。
とはいえ、私が生をつなぐことができたのは、やはり幸運な出会いに恵まれたからだ。地球にいたときと同じようにね。
この世界に暮らす人たちの何が素晴らしいかといえば、なんといっても彼らの手足には指が5本ずつ生えているのだ。私たちと同じように。これはとても重要なことだ。つまり10進法で数をかぞえるということなのだから。
“10”という数字そのものに他と比べて優れたところは特にない。一方で私たちが時間を計るのに12進法を併用しているのは、“12”という数字が明らかに優れているからだ。なにしろ、あの取り回しのいいサイズ感で4つも約数を持っているわけだからね。
とはいえ、10進法に骨の髄までつかった私たちが、12進法で生活に関わるあらゆる数をかぞえたり、ビジネス上の熾烈な交渉を戦い抜くことを想像してみてほしい。余計な認知負荷がかかって、少なくともスムーズではないはずだ。
彼らの手指が左右6本ずつ生えていたとしたら、間違いなくそうなっていただろう。
私たちが10進法でものを数えるのは、我々人類の祖先が“数”に目覚めた時点で、その手に両方合わせて10本の指が生えていたからに過ぎない。しかしそのことは私たちの認知に強い影響を残している。
だから、あらゆる交渉を円滑にする上で、この世界の人たちと10進法という枠組みを共有していることは大きな幸運だ。
そうだ、この世界の人たちとその身体に関わって、一つ納得のできない出来事があったので聞いてほしい。
この世界に来てから、私はすすんで沢山の人たちと出会ってきた。中でも感謝しているのは一緒に子どもたちを教える教師仲間たちとの出会いだ。特に、私と同じクラスを受け持つ若い女性の教師と仲良くなった。
さて、先に述べた通り、この世界は私がかつていた世界と多くの共通点を持っているが、中でも別の惑星に住んでいる人たちが、私の知る人類と外見上全く見分けがつかないほど似通っているということは、かえって驚くべきことだった。
そこで、私は彼女が地球でいうところの哺乳類であり、さらには霊長類であることを確認する一つの手段として、理由を説明した上で、裸体を見せてくれるように頼んだり、生殖行為について詳細な説明を求めたりしたが、彼女はそれを拒み、それどころか私を激しく打擲したのだ。
理由を説明したのにである!
これまでの関わりで、この世界に暮らす人たちも、おおむね私たちに近い道徳や倫理観を持っているものと期待していたが、どうやら私の空頼みにすぎなかったようだ。
さて、少し話が逸れてしまったが、最後に科学者としての私に起きたもっとも得難い幸運について、同じ科学者である君と、その長い舌で飽くなき探究を続ける犬のノギン博士に聞いてもらいたい。
一生を捧げるに足る研究テーマに出会うこと。
科学者にとってこれに勝る幸運はない。
「地球という惑星から、ほとんど同じような生態系を持つ別の惑星に移動する」
私の身に起きたこの荒唐無稽な現象に対し、私は持ち得る知識のすべてを動員して考察したが、なんの取っ掛かりも得られなかった。
しかし、解決の糸口となり得る別の現象──あるいは技術ともいえるかもしれない──が、この世界には存在していたのである。
それは私たちの言語で『魔法』と呼ぶべきものだ。
私たちの知る物理法則を超越する現象が、この世界には存在している。
私たちの知る『科学』とは、宇宙のどこへ行っても同じ条件の下では同じことが起こる、そういう普遍性を探究する学問だ。
金星の気圧が92気圧、地表温度が摂氏460度あるとしても、それはパラメータの違いでしかない。
しかし、私がこの世界で目にした現象の数々は、単なるパラメータの違いでは説明のつかないものだ。
この惑星には、これまで地球の学者たちが見たこともない未知の現象、未知の運動が存在し、それを支える未知の物質、未知の法則が存在する。
私はその研究に一生を捧げる。
今しがた、その決意を固めたところだ。