43「ヴェロニカとこの曲を踊ることに意味があるんだ」
「エリアス。殿下に向かってあの言い方は失礼だと思うわ」
歩きながらヴェロニカは言った。
「申し訳ございません」
「……でも、私のために言ってくれたのは、ありがとう」
「いえ」
エリアスは微笑んだ。
「私のためでもありますから」
「エリアスの?」
「ヴェロニカ様が幸せになることが私の願いです。ヴェロニカ様がお妃になることを望まないのならば、それを阻止することが仕事ですから」
「……そう、ありがとう」
ヴェロニカの言葉にエリアスは笑みを深めたが、すぐに真顔になった。
「ですが、ヴェロニカ様こそあのようにお断りしてよろしかったのでしょうか」
「……本当はよくないのでしょうけど。でもちゃんと言ったほうがいいと思ったの」
今はもう、前世のようなことは起きないと思うけれど、やはりフィンセントとの婚約は怖いのだ。
「ヴェロニカ!」
会場の中へ戻ると、こちらへ向かってくるカインの姿が見えた。
「休憩は終わったのか」
「ええ」
「腹は減ってないか?」
「そうね……少し疲れたから、甘いものが欲しいわ」
「休憩したのに疲れたのか?」
「……その後にちょっと疲れることがあったから」
フィンセントに直接婚約者の件を断ったことは、思ったより負担だったらしい。
「そうか。じゃああそこに行くか」
カインが示した先には軽食やスイーツが並べられていた。
ケーキと果物を皿に取り、空いていたイスに腰を下ろす。
クリームのたっぷり載ったケーキを一切れ口に入れると、甘い香りが口の中いっぱいに広がった。
「エリアス・ボーハイツ様」
デザートを堪能していると女生徒がやってきた。
「あの……よろしければ私とダンスを踊っていただけないでしょうか」
大人びた雰囲気の女生徒はエリアスを見上げてそう言った。
「申し訳ございませんが……」
「踊ってやれよ」
断ろうとしたエリアスの言葉をカインが遮った。
「あんたのご主人は俺が見てるから」
カインがそう言うとヴェロニカもうなずいた。
「――」
小さくため息をつくと、エリアスは女生徒の手を取り、ダンスに興じるフロアの中へと入っていった。
「綺麗な人ね。一年生かしら」
エリアスたちを見送りながらヴェロニカは言った。
「なかなかお似合いの雰囲気ね」
「……ほんと、鈍すぎるのも残酷だな。告白できないあいつもだが」
ヴェロニカに聞こえない声で呟くと、カインはヴェロニカの隣に腰を下ろした。
「何かあったのか」
「え?」
「甘いものが欲しくなるくらい疲れることがあったんだろう」
「あ……ええと」
ヴェロニカは口ごもった。
「……殿下からダンスのお誘いを受けたのをお断りするのに、気を遣ったから……」
「断ったのか」
「殿下が踊るのは婚約者候補だから……私が踊ったら、また変な噂が出てしまうでしょう」
「そうだな」
カインはヴェロニカを見た。
「ヴェロニカが婚約すれば、そんな噂はすぐ消えるけどな」
「それは……そうなんだけど」
「打診は来ていないのか?」
「さあ……何も聞いていないわ」
家に帰ったときや寮に届く手紙に、そういう話は一度も出ていなかった。
「俺と婚約するのは嫌か?」
ヴェロニカの顔を覗き込んでカインは尋ねた。
「……嫌というわけでは……」
「嫌じゃないのか」
思わず出た言葉にヴェロニカははっとした。
「そうか」
嬉しそうな顔を見せたカインに、ヴェロニカの顔が赤くなる。
「……」
ヴェロニカはカインから視線を逸らした。
「誰かと婚約するのは……怖いの」
「怖い?」
「嫉妬しておかしくなってしまいそうだから」
前世の自分と今の自分は違う――いや、前世の自分がおかしかったのだと思う。
けれど、またあんなふうになってしまうかもしれないという恐怖を消すことはできなかった。
「嫉妬なんて、誰でもするものだろ」
「そうなんだけど……」
「そうだなあ」
思案するようにカインは顔を上げた。
「――俺は、自分の中の黒い感情は小説にぶつけるな」
「小説……?」
「読むのも書くのも、そのためだ」
カインはヴェロニカを見た。
「ヴェロニカも、嫉妬心を小説にしてみればいい」
「……それは、難しいわ」
前にカインに言われた後、改めて自分でも小説を書いてみようとしたが、どう書けばいいかわからなかったのだ。
「小説が無理なら詩でも日記でも、単語を書くだけでもいい。俺も最初はただ書きなぐってただけだった」
「単語を書くだけ……」
「なかなか効果があるぜ」
カインは笑顔で言った。
「自分の中の黒い感情に、目を逸らさず向き合うと、最初は得体がしれなかったり怖いと思っていたものが、よく見ると大したことではなかったりするんだ。怯えずじっくりと向き合えば、そんなに怖いものじゃなかったりするぜ」
「……そうなのかしら」
「ああ、そんなものだ」
カインは笑顔で言った。
「……そうね。私もやってみるわ」
ヴェロニカはそう答えた。
「そんなに嫉妬深いのか?」
そう言ってカインは視線を前へと向けた。
「あそこで今、あんたの執事が踊ってるだろ」
カインの示した先にはエリアスの姿があった。
曲が変わり、また誰かに誘われてたのがさっきとは別の相手だ。
「あれを見てどう思う?」
「え? どうって……」
ヴェロニカは首をかしげた。
「やっぱりエリアスは姿勢がきれいね」
「嫉妬深いやつはそんなふうに思わないだろ」
カインは小さく笑った、
「自分の執事が他の女と踊ってるんだから」
「……だってエリアスに嫉妬する理由なんてないもの」
「嫉妬深いやつは誰にでも嫉妬するものだ」
「そう……かしら」
ヴェロニカは前世を思い出そうとした。確かに、あの頃は誰に対しても、ささいなことでも嫉妬していたような記憶がある。
「誰だって嫉妬心はある。ヴェロニカは普通だよ」
カインはヴェロニカを手を握った。
「それに、きっと俺のほうが嫉妬深いからな。あんたが嫉妬するひまがないかもしれないな」
「……そうなの? そうは見えないけど……」
確かに、前世ではフィンセントに対する嫉妬心からアリサを害しようとしたカインだ。
彼も十分嫉妬深いのだろう。
「俺は、ヴェロニカと出会えてから変わったんだ。人間の心は環境でいくらでも変えられるって知ったよ」
「いくらでも変えられる……」
「嫉妬が怖いなら、嫉妬させないようにするぜ」
笑ってそう言うと、カインはヴェロニカの手を取り立ち上がった。
「そろそろ最後の曲だな。行くか」
「……ええ」
ヴェロニカも立ち上がると、ダンスフロアへと歩いていった。
最後の曲は、去年フィンセントと踊った曲で、相手と息が合わないと失敗しやすい。
そのため踊りに参加する生徒も少なくなる。
「カインはこの曲を踊れるの?」
「さあ」
「さあって……」
「ヴェロニカとこの曲を踊ることに意味があるんだ」
カインはヴェロニカの手を取ると反対の手を腰に回した。
曲がはじまった。
カインは運動神経が良くその動きにも強さとキレがあり、難しいステップもそつなくこなしていく。
彼とは何度か踊ったことがあるからか、息も上手く合っている。
ふと周囲を見ると、ルイーザたちダンスサロンのメンバーが踊っているのが見えた。
皆練習を重ねてきたというだけあって、その踊りはとても見事だ。
曲調が変化した。
(あっ)
他に気を取られていたせいか、ヴェロニカのステップが乱れた。
足がもつれ、体勢が崩れそうになる。
しまったと思った瞬間、ヴェロニカの身体が宙に浮いた。
(え……)
カインがヴェロニカの腰を持ち、リフトしたのだ。
そのまま大きく回転すると、カインはヴェロニカを下ろした。
「あ……ありがとう」
「正確に踊らなくても楽しいな」
ヴェロニカと視線を合わせてカインは言った。
「……ええ、そうね」
確かに、難しい曲だけれど。
こうやってミスしてもそれをカバーしてくれると思うと安心して踊れる。
「とても楽しいわ」
ヴェロニカは笑顔でそう答えた。