38「誰か決めた相手がいるのだろうか」
深くため息をつきながら、フィンセントは執務室にあるテーブルに積まれた手紙を一通、手に取った。
「気乗りしないようですね」
「ああ」
「殿下をお祝いする手紙なのですから、心して読んでください」
否定しないフィンセントに苦笑しながらディルクは言った。
「下心見え見えの手紙を何通も読まされてみろ。お前だって嫌になるだろう」
「殿下が早く婚約者を決めないからですよ。決められないのでしたら陛下に選んでいただいたらどうですか」
「いや、それはダメだ」
フィンセントは首を振った。
「あの時の二の舞になる」
「ではきちんと手紙を読んで、気になる方がいらしたら教えてください」
「今日会った中にはいないな」
「校内で見かけたり、学生でなくとも
これまでお会いした方の中には?」
「いない」
「いなくとも、探して選んでください」
やや語気を強めてディルクは言った。
「それと、ヴェロニカ嬢はもう諦めた方がよろしいかと。二年になって明らかに避けられていますよね」
じろ、とフィンセントはディルクを睨みつけた。
「避けられているんじゃない、あの執事見習いが避けさせているんだ」
「そうですか? ヴェロニカ嬢ご自身の意志のように見えますが」
フィンセントの視線にひるむことなくディルクは答えた。
元々教室内でフィンセントとヴェロニカが親しく話すということはあまりなかったが、二年になってその頻度は特に減った。
確かに、エリアスがフィンセントをヴェロニカに接触させないように行動しているのは明らかだ。
けれど、ヴェロニカ自身もまたフィンセントを避けているように見えるのだ。
(おそらく、婚約者にならないという意思表示なのだろうな)
年頃の娘を持つ他の高位貴族からは、多少なりとも王太子の婚約について打診をしてきたり、周囲から探ってみたりするなどの行動がある。
けれどフォッケル侯爵家からはなんの接触もないのだ。
(まあ、一度は殿下から婚約破棄を申し渡されたのだ。再度婚約しようとは思わないだろうな)
当の本人は破棄したことを後悔しているが、発言が消えることはない。
侯爵家はヴェロニカを王太子妃にすることを望んでいないのだろう。
(本当に……子供だったとはいえ、王太子の言動には責任が伴うということなのだな)
主人の不憫さとうかつさに同情しながら、ディルクは改めてその責務の重さを実感した。
「――ヴェロニカには、誰か決めた相手がいるのだろうか」
ぽつりとフィンセントが呟いた。
「さあ、どうでしょう。学校で親しくしているのはエリアス・ボーハイツとカイン・クラーセン、そして園芸サロンのメンバーくらいのようですが」
「……カイン・クラーセンか」
フィンセントは息を吐いた。
「どうもあの男は引っかかるな」
「何がです?」
「いつの間にかヴェロニカと親しくなっていたし、エリアス・ボーハイツもあの男がヴェロニカに近づくのを止めようとしない」
「ああ、そういえばそうですね」
ディルクは頷いた。
側から見る限り、むしろエリアスとカインは仲が良好なようにも見える。
(まさかカイン・クラーセンはヴェロニカ嬢の婚約者候補? いやしかし、クラーセン子爵とフォッケル侯爵家では格が合わないが……)
一度は王太子の婚約者となるほどの家格であるフォッケル侯爵家の、その後継となる可能性の高いヴェロニカと、田舎の小さな子爵家では釣り合わないだろう。
(伯爵家以上が相当だろうが。ともかくヴェロニカ嬢が殿下の婚約者となる可能性は……かなり低いだろうな)
嫌々ながら手紙を読むフィンセントを横目に、早く諦めて欲しいと願いながらディルクは小さくため息をついた。
*****
「公開演習?」
「ああ」
聞き返したヴェロニカにカインはうなずいた。
「剣技サロンで試合をするのに観客を入れて行うんだ。見に来ないか」
「ええ、行くわ」
ヴェロニカは答えた。
「カインは強いのでしょう? 楽しみだわ」
「ああ、頑張るよ」
カインは笑顔で返した。
公開演習当日。
ヴェロニカはルイーザ、エリアスと共に闘技場へやってきた。
「結構集まっているわね」
大勢の生徒が座っている観客席を見渡してルイーザが言った。
「見て、騎士もいるわ」
ルイーザが示した貴賓席には出入りしている数人の騎士の姿が見えた。
その騎士たちのマントに入った紋章にヴェロニカは見覚えがあった。
(あれは近衛騎士団? そんな人たちも見に来るの?)
卒業後、騎士団に入れそうな人材をスカウトするために団員が来ることはカインから聞いていた。
近衛騎士団は王族の警備などを担当する、特別に選ばれた精鋭が所属できる騎士団で、まずは王立騎士団に入ってから厳しい訓練を受けなければならないと聞いたことがある。
そんな近衛騎士が学生の試合など見に来るのだろうか。
やがて試合が始まった。
最初は一年生同士からだという。
まだ慣れていないのだろう、真剣な表情とぎこちない動きが微笑ましかった。
試合が進むにつれてその腕が上達していくのが素人目でも分かる。
ふとヴェロニカは貴賓席に視線を送り、目を見張った。
(あれは……カインのお父様?)
近衛騎士たちに囲まれて席に座っている、国王に似た威厳のあるその顔は確かにボスハールト公爵だった。
今世では会ったことがないが、王弟でもある公爵はよく王宮に出入りしていたため前世では何度か会ったことがあった。
(どうしてここへ……)
「カイン様が出てきたわよ」
ルイーザの声にヴェロニカは慌てて視線を戻した。
闘技場の中央に、カインと別クラスの生徒の二人が対峙していた。
(カインは……お父様が来ていることを知っているのかしら)
会ったことはないと言っていたから、顔は知らないだろう。
外部から見学に来る中に公爵がいるということは、聞いているのだろうか。
試合が始まった。
カインは落ち着いた様子で剣を交わしていた。
相手に主導権を与えることなく、最後まで優位に立ったままあっという間にカインは勝利した。
「すごいわね」
感心しながらルイーザが言った。
「ええ、本当にすごいわ」
強いとは聞いていたけれど、その剣さばきは美しさを感じるほど優雅で無駄がなく、他の者たちとは明らかに違うのが分かった。
対戦相手と礼を交わすと、カインは観客席へと視線を送った。
その視線がヴェロニカの姿をとらえて、カインは片手を上げた。
カインに応えるようにヴェロニカも手を小さく振り返すと、カインは笑みを浮かべて闘技場から出て行った。
「……なんだか今のやりとりって」
カインを見送るヴェロニカを見ながらルイーザは口を開いた。
「恋人みたいよね」
「ええっ!?」
ヴェロニカは思わず声を上げた。
「こい……」
見る間に白い頬を赤く染めたヴェロニカに、ルイーザとエリアスは思わず顔を見合わせた。
「ヴェロニカ様……」
「え、もしかしてヴェロニカってカイン様のこと、好きなの?」
「す、好きって……」
熱を帯びた頬を隠すように両手をあてて、ヴェロニカは慌てて首を振った。
「そんなんじゃないわ。変なこと言わないでよ」
「変じゃないわ、そう思ったんだもの」
ルイーザは口角を上げた。
「カイン様のこと、意識してるわよね」
「そんなことは」
「いいと思うわよ、お似合いだもの。ねえエリアス様?」
「そうでしょうか」
ルイーザの言葉に、エリアスは低い声で返した。
(好きとか……そんなんじゃないわ。確かに友人としては好きだけど。そうよ、カインは友人よ)
胸の鼓動が速くなるのを感じながらもヴェロニカはそれを否定するように自分に言い聞かせた。
(……そうだ、公爵は……)
思い出してヴェロニカは貴賓席へ視線を送ったが、そこにはもう誰もいなかった。
*****
自室へ戻ると、ベッドへ腰を下ろしてエリアスは深くため息をついた。
(ヴェロニカ様が……カイン・クラーセンを?)
本人は否定していたが、あの反応は好意がなければ出ないはずだ。
(彼は子爵だが……婚約者となる可能性は十分にある)
フォッケル侯爵は、ヴェロニカを心から愛してくれる者を婚約者に迎えたいと言っていた。おそらく貴族であれば、爵位はそう重視していない。
それに相手だけでなく、ヴェロニカ自身の気持ちも大切で、彼女が好意を抱く相手が第一条件となるだろう。
カインは口調こそあまり良くはないが、成績は良くヴェロニカとも趣味が合う。
本当はカインをヴェロニカに近づけさせたくはないのだが、彼と本の話をするヴェロニカは心から楽しそうで、拒否することができないのだ。
今、一番婚約者候補に近いのがカインなのかもしれない。
(だが、私は……)
エリアスは膝の上に乗せた手を握りしめた。
(ヴェロニカ様が……他の男と結婚することに耐えられるだろうか)
そうしてそれを、執事として側で見続けることに。
『耐えられぬなら、おぬしが手に入れれば良い』
胸の奥で、声なき声が囁いた。
『我が手を貸そうぞ』
「……私は……執事だ」
エリアスは呟いた。
「主人の幸せを最優先にしなければならない」
胸の奥に宿る邪な欲を握りつぶすように手に力を込めた。
『頑固な奴よ、なかなか我の力が効かぬ。だが愛欲の炎はそうたやすくは消せぬものぞ』
あざ笑うような声がエリアスの心の奥底に消えて行った。