3.心配になるほど人が好さそうに見える
はじめまして、と手を差し伸べた男の顔を見上げて首が痛いなあ、なんて考える。
(頭一つ分でだいたい20cmくらいの身長差だっけ?)
先触れは飛ばしているとは言っていたからきっと出迎えはあるのだろうと思っていたけれどまさかいきなり噂のお兄様とは普通は思わない。
だってそんなフットワーク軽いものなのだろうか帝国皇位継承権2位の人って。
もっと言ってしまうなら暇なのだろうか。
あいにく王国にはそういう人はいなかったし庶民のアリアには本当にわからないのだ。
「あの、えっと」
「ここは我が家の邸宅ですから作法などというものは気にしなくて構いませんよ。はじめまして、クリスティーナの兄、ジークフリードです」
「申し訳ありません。作法というものを知らないので、お言葉に甘えてしまう形になるのですが。アリアと申します」
確か目上の人がまず名乗って言葉をかけることが許されたら、自分の名前を名乗ってそれから。
なんて必死に思い出そうとしていれば暖かくかけられた言葉に正直ほっとした。
その手の作法について、あいにくどれだけ記憶をひっくり返してもクリストフから教えられた形跡がないのだ。
知らないなんて言い訳にもならない場所だったはずなのに。
「あのバカ、本当に言葉もないほどにバカでしたのね」
「クリスティーナ」
「申し訳ありませんお兄様。身内だけの場ということでお許しになって?」
「言いたい気持ちは十分にわかるけれどね。けれどクリスティーナ。君の言うバカは仮にも君の婚約者だよ」
「それがわざわざあちらから破棄を申し出て下さるそうですのよ」
「………馬鹿なのかな」
「ですからそう申していますわ」
目の前で交わされる会話に言葉が出ない。気軽に口を挟めば不敬というのはわかるが、とはいえ自国の皇太子がこうもばかばか連呼されているのはさすがにどうなのだろう。
だけどきっと政治的な判断ができる人たちからすれば救いようもないほどに件の人の言動は愚かでしかないのだろう。
なにせ帝国皇位継承権第二位と、王国次期王妃予定の方が揃ってバカ判定なのだから。
「知識も作法も持たずに王室になど殺してくれと言うようなものですのに」
「正直無茶をするものだとは思ったが。なるほど、納得したよ」
これは一刻の猶予もなかったね、と告げながらずい、とジークフリードが身をかがめアリアの顔を覗き込む。
なるほど、確かに見目も良いとクリスティーナが言う程にその顔は整っている。
ブラウンと形容すべきだろうクリステイーナよりも一層濃く、けれど黒という程でもなく。
濃いめの赤に近い茶、というような髪にクリスティーナと同じく青い瞳。
金や銀と言った色素の薄い髪色が主な王国の貴族に対して見慣れぬ色で少し落ち着かない。
何より落ち着かないのは、見るからに人の好さそうな笑みだろうか。
「あの……本当にクリスティーナ様の兄上様、なんですよね?」
「もちろん。信じられませんか?」
「いえ、そうではないのですが……私、時々クリストフ様のお傍にいるという貴族の方々を拝見したことがあって」
誰もが表面上は笑みを浮かべながらもどろりとした重い何かが張り付くような感じを受けたのだ。
それが望む望まざる問わず宮廷闘争なんてものに明け暮れる貴族が持つ特有の気配なのだろう、とアリアは判断した。
その気配はうまく隠してはいるが、うっすらとではあってもクリスティーナからすら感じられるものだ。
なのにこの人からはそれが感じられない。その事実に困惑するのだ。
だってこの人がクリスティーナの兄だというのであれば皇室の帝位継承権第2位、あるいはクリストフ以上に宮廷闘争に接している人ではないのだろうか。
「アリア。あなたの勘は正しいですわ。その感覚をどうか大切になさって」
「クリスティーナ様?」
「その方は間違いなく私の兄です。ですので、見た目で判断するとそれはもう痛い目にあいますわよ」
「実の兄に酷い言いぐさではないかなクリスティーナ」
「実の妹だからこそ言えるのではありませんか。アリア、覚えておいてくださいね。この方はこの笑みのまま、危うげもなく己の地位を守られている方です」
そう言われて、しばし考えて顔が引きつった。
では、つまり。
じっと視線を向ければにこりと返される笑みは、なるほどどこかクリスティーナに似ている気もする。
だがクリスティーナ以上にするりと心に入りこみ警戒を解かせるようにも感じる。
そんな顔のままで、宮廷闘争のど真ん中で平然としたあげく危うげもなく立ち続ける、と。
(こわっ)
「ご安心くださいアリア嬢。怖くないですよ。私はそんな物騒な人間ではありませんから」
「ぬけぬけと良くもおっしゃいます事」
「ところで少し失礼いたしますが……ふむ、なるほどこれは見事な」
頬に指が触れたかと思えばくい、と力が込められたように感じる。
それだけでアリアの顔は右に左にと簡単に動いてしまい、そんなアリアの顔をジークフリードはじっと眺めている。
なんだろう、と首をかしげて問おうとするアリアの耳の届いたのはぽつりと呟かれた小さな声だった。
「見事な金だな。陛下と並ぶ、とまでは言わぬが。お前はどう見たクリスティーナ」
「……皇太子殿下と並ばれてもおかしくないかと」
「帝国人だったのは母方の祖母、でしたか?そこまで遡るとなるとさすがに少し手間はかかるだろうが……ここまでいくと調べぬわけにもいかないか」
「あの……魔力と言われましても私、なにもできないですよ?」
「仕方ありませんわ。魔術などというものは教育を含め帝室、王室などといった一部の者しか触れる機会はありませんもの」
「そしてあくまでも素質という話だからね。教育を受けねばいくら大きな素質を持とうとなにもできないとも」
素質があるだけでなんでもできるならそれはそれで不幸だよ、と告げられる言葉になるほどと考える。
知識がないということは対処する術を持たないということだ。
「つまりノーコン。なるほど怖い」
「のぉこん?」
「制御できないってことですよね」
過ぎたるは及ばざるがごとし、なんていう。
過不足なしがきっと一番いい。足りないことは不幸だろうが多すぎることだってきっと不幸でしかないのだろう。
そんなことを考えながらふ、とため息をついていればジークフリードの顔は離れ、代わりに差し出されたのは大きな手だった。
この手は、と首を傾げながらじっと見つめていればふわりと暖かな声は告げた。
「まずはあなたが生きていくために必要なことを学んでいきましょう。魔力について、そして宮廷での礼儀作法についてもですね」
「ご安心なさって。あのバカの手は決してあなたまでは届かせませんから」
「あの、クリスティーナ様。さすがにそうもバカと連呼はいかがかと」
「構いませんわ。だって聞いているのはアリアにお兄様だけですもの。だからあのバカやその周囲の人間に聞かれることはありませんもの」
ふふ、と軽やかに告げられた言葉にけれど内心は顔が引きつりそうになる。
それはつまり当面アリアの身柄はファリス王国には戻れないということだろうし、もっと言うのであればおそらくこのヴァンテンベルク伯爵邸からも出られないということだろう。
出たいかと問われればそんなことはないと答えるが、では出られなくてもいいかと問われればそれはそれでイエスと言い難い。
「少し落ち着いたら城下町をご案内しますよ。少しだけ辛抱していただけますか」
「それはジークフリード様やクリスティーナ様が謝られることではありませんよね」
「けれどお兄様、できるだけ早めにかたをつけてくださいね?私、アリアと早くお出かけしたいですもの」
「君はその前にまず自分の問題を片づける方が先だろう。婚約を破棄なら破棄ではっきりさせてきなさい」
「……お父様にご相談しますもの」
言い聞かせるようなジークフリードに返すクリスティーナの声は、初めて耳にするふてくされた子供のような声だった。