1.目の前が愁嘆場だった。
「私、皇太子クリストフはヴァンテンベルク伯爵令嬢との婚約の破棄と、このアリアとの婚約を宣言する!」
煌びやかなダンスホールに響く朗々とした声にざわりとざわめく声。
そんな状況ど真ん中でわたし、アリアはといえば政治的な婚約よりも庶民でありながら真実の愛を貫くと宣言している皇太子を。
ドン引きしながら見ていた。
ああ、これ知ってる。
最近よく見るパターンの悪役令嬢もの。
それも悪役令嬢側が破棄されてのどんでん返し大勝利的な話の。
最終的に断罪される方ですねまってくださいやめてください。
なんでも最近はトラ転ですらなく気が付いたら異世界的な流れが主流とか。
思い出せないのですが、どうしてでしょうか。
アリアとしての生は思い出せる。
ごくごく一般的な、何の変哲もない一般庶民です。貴族との所縁などミリもないです。
それがどうしてこんなことになっているのかと言えばお忍びで街に出てきた皇太子様とたまたま出会ってしまい、そのまま恋仲とかいう鉄板的な感じだ。
それはいいのだ。いや、よくはないけれどそれほど重要でもないから後回し。
問題は初めての恋にのぼせ上った皇太子さまが政治的考えなどなにもかも放り投げて恋にのめり込もうとしている事。
一方お相手は庶民、政治的判断なんてできるはずもなく結果として傍からはけっこう安っぽく見える運命の恋とやらはノーブレーキのまま、むしろアクセルを追加で踏まれて暴走していった。
そんな中で仮定前世日本人の記憶が戻ってしまったというわけだ。
(義務教育なんてとか思ってたけど日本の教育水準、結構高かったんだなあ。)
貴族的な判断ができるまでとはさすがに言わないが、庶民よりは政治的な判断がつけられる。
つまりこの状況のまずさがわかってしまう。
そもそも根っからの庶民なのだ、宮廷闘争なんて関わりたくもない。
皇太子なんて宮廷闘争ど真ん中にいる人じゃないですか。絶対関わりたくない。
「……殿下の御意思はわかりました。けれどこれは伯爵家と王家の話。私たちの一存だけでは決められない事、よもや殿下ともあろうかたがお忘れでしょうか」
「……っ」
忘れていたんですよね、この馬鹿。
という声なき言葉がヴァンテンベルク伯爵家の令嬢、クリスティーナ様の視線に込められているのがアリアには見えてしまった。
一方クリストフはと言えば気付かないらしい。鈍感って幸せな事なんだなあと少し羨ましくなる。
そんな見方によっては愁嘆場なのかもしれない光景を不本意ながら最前列で見つめながら理解する。
つまり彼らの婚約は文字通り政治的判断、そこに個人の情というものは全くとまでは言い切れないがあまりないのだろう。
そういえば件のヴァンテンベルク家は隣国の帝室の血縁だったとかいう話を聞いた事がある。
なるほど思いっきり外交も絡んだ政治的判断だ。
いくら第一王位継承者とはいえ勝手に破棄などできないだろう。むしろ軽率なと国王から叱責を受けても驚かない。
その辺のことをこの王子はわかっているのだろうか。
「ぜったいわかってないんだろうなあ」
いやだ。こんな周囲の状況何もわかっていない人間に命なんて預けたくない。
そんなの勝確ならぬ負確じゃないか。しかもこの宮廷闘争、敗北はすなわち命の危機である。
絶対嫌である。
あわわ、と震える声で小さく呟けばちらりとクリスティーナの視線が向けられる。
そこに浮かんでいるのは微かな驚愕だろうか。もしかして今の言葉が聞かれてしまったのだろうか。
それはつまり将来の処刑フラグがショートカットでいま不敬と処刑?それはどうにかお許しいただきたいのだけれどやはり無理なのだろうか。
「まずは国王陛下に婚約破棄のご報告という形で保留。それでよろしいですか?」
「……っ、当然だ!父上には私より報告するからお前は口を挟むな!たとえ公的な関係がどうであれ私はお前を婚約者とは思っていない!」
「さようですか」
それでは失礼いたします、と立ち去るクリスティーナの姿はどこまでも優雅で、なるほど次期王妃候補としての教育が十分に見て取れる。
彼女と同じ立ち振る舞いが要望されるというのであれば並の貴族令嬢ですら竦むだろうに、そんなものを貴族でもない庶民に要求するとか本気ですかと泣きたい
「ああ、可哀想に。そんなに怯えることは何もないとも。君は俺が守ってみせるから」
安心しておくれ、とクリストフは言うが、今まさにあなたのせいでこんなに怯える羽目になっているのですがと言いたい。
言えるわけもないが。なにせ相手は皇太子でここは貴族たちの視線が向けられているのだ。
そんなことを行った日には不敬といままさにここで手打ちだ。
「わ、わたし気分が……下がらせていただいてもよろしいですか?」
「ああ、緊張していたのだな気付かずすまない。私はまだ下がれないがゆっくり休んでくれ。後で暖かいお茶を届けさせよう」
「ありがとう、ございます」
そこまでが限界だった。体の震えを必死に押し殺しながら用意された部屋に駆け込んでベッドに倒れ込みながら頭を抱える。
どうにかしないとこのままでは政治的意味合い満点の伯爵令嬢と皇太子の婚約をぶち壊した悪役決定である。
それだけならまだしも最悪は処刑、すなわちデッドエンド。何が何でも回避しなければ文字通り命がない。
どうしようどうしようと頭を抱えていればこんこんと響くノックの音。
さすがに在室がばれているだろうに無視はできないだろうと返事を返せば、開いたドアの先の光景に息をのんだ。
「はえ?」
「突然の訪問お許しくださいアリア様」
「あ、はい。いえ!?いえいえ、そうではありませんね!?わ、私こそこのようなご無礼お許しくださいと申し上げなければなりませんもの!!」
来訪者はつい先刻まで視線の先にいた人、すなわち伯爵令嬢クリスティーナである。
なにをどうしてもアリアの方が上の立場になる理由がない。
伯爵令嬢の足を運ばせてしまったこと、伯爵令嬢を前に庶民が寝台の上で寝たまま。
しかも伯爵令嬢に謝罪の言葉までとか問答無用で手打ちにされたところでクリスティーナの落ち度は何もないレベルの不敬である。
「あの、あのっ」
「……ごめんなさいね。あなたもあのバカ……失礼、皇太子と同じく一般的な礼節をわきまえない方だと思ってしまっていました。大変失礼な侮辱でしたわね」
「そんなことは。あの状況ではクリスティーナさまがそうお考えになられるのは当たり前のことですもの」
「ここにはお忍びで来ているの。あなたとお話がしたいという私の意思だからここでのことを不敬とすることは決してないとお約束します。だから本音でお話させていただける?」
「………はい」
向けられる眼差しも声もどこまでも真摯で、それが偽りだなどと疑う気にはなれない。
アリアが返すことができる礼節はと言えば望まれた通り真摯に、偽りなくこたえることだけなのだろう。
だからこくりと頷き返せばほっとしたような笑みをクリスティーナは浮かべ、ちらりと鋭い視線を扉に向ければ、さていつからそこにいたのか屈強な鎧をまとった男がこくりと頷く。
「我が家の騎士です。しばらくだれにも邪魔はされたくないので」
「密談、ということですね。お話とは皇太子殿下の事ですよね?」
「ええ。当家として動く前にあなたの真意を確かめておきたいと思ったの。あの状況だけであなたも、と考えるのはあまりにも不実が過ぎると思ったから」
「ご恩情に感謝の言葉もありません……」
「あなたのことは調べさせてもらったの。あの場ではあなたがどう思っていようとも何も言えないもの」
王家主催の夜会、つまりはあの場にいたのは言うまでもなくすべて貴族である。
庶民のアリアがあの場で口を開くことすら難しいということを、おそらくあの場で最上の扱いを生まれた時から受けていた皇太子は考えもしないのだろう。
少なくともいまのアリアはあの場で口を開くことすらできない。
「私が確かめたいのはただ一つ、あなたと皇太子の関係です。彼はあなたとの間にこそ真実の愛があり、だからこそ結婚をと言っているのですが」
「……そのひとめぼれ、めいわくです」
えーしー。なんて言葉が脳裏に浮かぶ。
昨今有名な動物愛護のポスターあるいはCMである。
いまならわかる。実感を持って断言できる。
やめてほしい。それ本当に、本当に迷惑だから!
「他言無用というお言葉に甘えさせて取り繕いなく申し上げさせていただいてよろしいですか?」
「もちろん」
「私にお断りなんてできません!」
「……ですよね」
ええ、本当にねと向けられる哀れみの視線に泣きたくなる。
それが運命かどうかはこの際どうでもいいのだ。
少なくともクリストフと、仮定前世日本人の記憶が戻る前のアリアは信じていたらしいけれど。
事実として皇太子が庶民に愛を請う。その言葉の前に庶民がノーなんて言えるだろうか。言えるわけがない。
言った日には不敬判定真っ黒である。でも嬉しいですなんていったところでその先は結局不敬判定。
つまりはどちらを選んでもいつという差はあっても結局不敬、手打ち、である。
そこまでの思考がこの伯爵令嬢は至るのにあの皇太子は至らないあたり、王家の未来はもしかしてけっこう暗いのではないだろうか。
幸いなことに今の今までアリアとクリストフの関係は徹底して伏せられていた。
なにせばれたら庶民と何てと言われるのが目に見えていた皇太子が徹底して伏せていたのだ。
なので本当に知る者は誰もいない。この際それを利用させてもらって皇太子が一方的にのぼせ上っていたという形にさせてもらおう。
自己保身というなら言えば良い。誰だって自分の身は惜しいし命ならなおさらだ。
「もう一つ、これはとても大事な事なのですけれど。皇太子の真名を聞いていますか?」
「真名?クリストフ様には他にもお名前があるのですか?」
「もう結構ですわ。そのお返事が全てですもの。ところで話は少し変わるのですが、あなたの家系にカストル帝国の方はいらっしゃって?」
「帝国の?ええっと……確かお母さんのおじい様くらい前の人が帝国から来たとかいう話を聞いた事はある、ような……?」
カストル帝国とは隣国、つまりはクリスティーナの血縁である。
アリアやクリストフの住まうファリス王国との関係はそれなりに友好関係だと聞いている。
その最たるものがカストル帝国帝室血縁者であるヴァンテンベルク家の王国での地位と王室との婚姻関係。
遠回しにカストル帝国とファリス王国は繋がりがあるという形になっているのだ。
が、そんなことは子供でも知っていることのはずだが、今までの話とどういう関係があるのだろうか。
「あなたの目、とても珍しい色ですのね」
「あ、はい。どうしてか私だけ金色なんです。親戚とかにも金色の人はいなかったから不貞を疑われかけたってお母さん笑ってました」
幸いアリアの両親は現在進行形で熱々のカップルだから不貞などありえないと誰もが思っている。
だからこその笑い話で済んでいるのだが、夫婦関係次第ではあわや修羅場と言ったところだっただろう。
しかしそれが本当にいったい何の関係があるというのだろうか。
「我がカストル帝国では金の瞳を持つ者は優れた魔力を持つ者という伝承があります。最たるものは王家の血を引く者ですわね」
「そういえば帝国の皇帝様は綺麗な金色の目をされていましたね………え?」
わたし?と視線を向ければ返されたのはにこりとした美しい笑み。
つまりは肯定ということだろうか。
「金の瞳を持つ者は最優先で我が国の皇室に迎えられます。身柄の確保、という意味ももちろんこめられていますけれど」
「え、え?でもそれは、あれ?……わがくに?」
「あなたは本当に頭がよく回られる方ですのね」
その言葉に気づいてしまって、呆然と呟けば返されたのはそれはそれは綺麗な笑顔だった。
伯爵令嬢として今まで遠目に見ていた作り物のような笑みではなく。
まるで獲物を前にした肉食獣か何かのような。
だってこの人はファリス王国伯爵家の令嬢ではないのか。だけどこの人はいま「皇室」を我が国と。
「先ほども言った通り私と皇太子の婚約はあくまでも政治的な話なのです。少なくとも私と我が家にとっては」
「それ、は」
そんな重大なことをアリアに言ってしまっていいのか。それは知られた者の口は封じなければとか言われてもおかしくないものではないのか。
呆然と瞳を見開くことしかできないアリアの前でクリスティーナはといえば美しく笑って、そうして告げた。
「というわけで帝国へ来ませんか?」
「……はい?」
「そう悪いお話ではないと思うのですよ?あんなでもあれは皇太子ですし」
「あんなの」
いやまあわかりますけれど。
言いたくなりますよね、あんなの。
政治的判断などなにもできない第一王位継承者とか、国政に携わる者としては百害あっても一利もないですし。
でも一応、あの人この国の第一王位継承者であなたの婚約者のはずなのですが。
「あの男が容易にあなたを手放すとも思いませんし。となるとあなた、最悪王国と帝国の政治問題にまきこまれることになるのですけれど」
「いやです無理です死んでしまいます」
いや本当に比喩ではなく死んでしまう。
だってそれ暗殺謀略山盛りの宮廷闘争ですよね、庶民には無理です。
涙交じりに食い気味にかえしたらそうですよねとあっさり言われたからその通りなのだろう。
すでにけっこうぶっとく死亡フラグが立っている。
「ご安心なさって?帝国としましても金の瞳を持つ者をそんな簡単に失いたくはないの。私の言葉を信じてというよりも国としての利益を提示した方があなたは安心できるでしょう?」
個人的感情ではなく国益を見据えてアリアを保護したいのだというクリスティーナの言葉にこくりと頷く。
クリスティーナが悪い人とまでは思わないし、アリアをだまそうとも思っていない。
そこまでするほどの価値がいまのクリステイーナからアリアにあるのかと問われたら正直思い至らないからだ。
けれどでは信じられるかと問われれば答えはやはりノー。だってアリアはそこまでクリステイーナのことを知らないから。
「なのでまずあなたの身柄を帝国で保護したいのです。ですから帝国にいらっしゃいませんか?という言葉になるのです」
「それは、ありがたいです。でも私帝国に行ったところで何もできないし」
「そこはもちろん我が家があなたの身柄を生活含め保護させていただきますわ」
「ありがたくはありますが、そんないきなり何もかもお任せするのは」
生活の保障もなく隣国へ逃げるわけにもいかないと告げれば返されたのはアリアからすればとても魅力的な誘いだ。
だがだからといってありがとうございますと全面的におぶさるのはいくら何でも図々しすぎないだろうか。
そう困惑を浮かべればふるりとクリスティーナの首が横に振られ、白く柔らかい手がアリアの手を取った。
「正直に申し上げるなら私は自分の祖国は帝国だと思っています。この国がどうなろうと知ったことではないのです」
婚約をしたのとて結局は祖国のため、そう言い切るクリスティーナにふ、と一瞬胸に過ったのは哀れみと羨望だった。
そこまで国のために身を差し出さねばならない貴族という立場が庶民のアリアからすれば哀れで、けれどそこまで国を思えるというのはどこか羨ましい。
「帝室が欲している存在を前に指を咥えているような真似はできませんししたくもありません。それから」
「それから?」
「あなたのように頭の回るお友達も欲しいと思っていたの。あの国では私は帝室の関係者であり、この国では皇太子の婚約者。そんな立場では望めないこととあきらめていたのだけれど」
けれどあなたはどちらも違うでしょう、と言われなるほどと思った。
確かにアリアは帝室も王室も関係ない。
貴族としての利というものと縁がないアリアならばクリスティーナが許してさえくれればクリスティーナという個人との付き合いもできるだろう。
「せっかくですし私のお兄様などいかがです?皇位継承権第2位持ちですし、将来有望ですわよ。一応顔もそれなりに」
「く、クリスティーナさま!?」
さすがにそれは話が飛躍しすぎではないだろうか。
そう悲鳴を上げればクリスティーナはころころと笑っている。
そんな笑い話にしていいことではないだろうにとため息をつくしかできないアリアに、一呼吸したかと思えばクリスティーナは笑みを消して告げた。
「王室からという意味も含め身の安全は私と帝室がお約束させていただきます。帝国に来てはいただけませんか?」
「……一つだけお願いをいいですか?」
「どうぞ」
「私の両親の保護をお願いできますか」
「もちろん」
いっしょに帝国へなどと言う気はない。そんな今までの生活を壊すような真似はしたくない。
ただいまの話しを聞くに望まぬとは言えアリアは帝国と王国の宮廷争いに巻き込まれる可能性が高くなっている。
となればそれが両親に飛び火しないなんて言いきれないのだ。
そう告げればにこりと返された笑みとアリアの手を握るクリスティーナの手に込められた力にほ、と安堵に体の力が抜ける。
とりあえずは帝国行きとそれなりの身の安全はどうにか手に入れられたらしい。




