8節 帰国Ⅰ
8節 帰国Ⅰ
『やあ、久しぶりだな、サラドン!』
ススメが声を掛けながら、研究所のサラドンの飼育室に入ってきた。
「あははは、元気だった? サラドン」
ミナミも同じように防護服を着て続いた。ここは遺伝子組換え生物等の危険度に準じP3レベルの拡散防止措置をとった専用の部屋である。
僅か数ヶ月足らずの間にサラドンは変異していた。このあたりはさすがにRNAを遺伝子とする「変異しやすい生命」の特徴かもしれない。まず、分散することが極端に少なくなり、ほぼ常時集団で暮らす姿を見せていた。これは多細胞化が始まったことを意味しているのかもしれなかった。当然のように、細胞の分業化が進んでいるようで、個々の細胞が光を感じ音を聞くよりも、専用の細胞が分業化し専門の器官を作る方に変態がシフトし始めているようだった。そしてこれから春に向かう季節に合わせるかのように、徐々に温度の上昇にも対応してきている様子が見えた。それに気付いたのはエアコンの故障によって室温が12℃まで上がってしまってもサラドンが活動を続けていたことがあったからだった。温度を計測しながらサラドンの様子を慎重に観察してみると、どうやら38℃まではイケそうだった。さらに驚いたことに、水から上がっても持ちこたえる時間が、着実に長くなってきていた。
研究材料が変異すれば、研究テーマも変わらざるを得ない。新しいサラドンを捕獲するのはまた次回に譲り、ミナミとススメはこうした変化の方向性や様子、速度などを進化に関係する事項をデータとして残したり、RNAの配列がどのようなタンパク質に翻訳されるかを調べることに没頭していた。
またひとつおかしなことが見つかった、どうやらサラドンは言語を理解し、感情を持ちはじめた気配を見せるようになってきたのだ。
ある日ススメは猛烈に拒絶されたのである。ススメが何度目かの耐温度特性を調べようとしてサラドンが入った培養液に近づいたとき、「試料として犠牲になるサラドン」を捕獲させまいとしたのか、容器内の水がまるでゼリーのように固まってしまったのである。今までこんなことはなかったが…
実はススメには心当たりがないワケではなかった。実験のあと、フラスコ内に生き残ったサラドンを「滅菌」と言う名前で処分しなければならない。それP3施設の当たり前なのだが、ススメはうっかりと滅菌したサラドンにむかって
『ありがとう… ゴメンね,サラドン…』
とつい仏心を出して独り言を呟いていたのだった。それを他のサラドンが聞いていたに違いない。つまり… サラドンには聴覚と知覚力、そして判断力と感情が備わっていることが示唆されたことになる。
困惑したススメは、通勤の帰り途でこっそりミナミに愚痴をこぼした。
『もう… 可愛いんだけどさ、ここまでやられるとまるでメンヘラだよ』
「あたしは未だそんなこと無いけど… 良いこと聞いたわ、これから気をつけましょ」
やむなくススメの部屋のサラドンはすべて熱と圧力をかけて「処分」され、ミナミの部屋のサラドンの一部を、改めてススメの部屋に分配することになった。
それと同時に… サラドンの性格もはっきりしてきた。半ば多細胞化したこのサラドンは異常に自己愛が強く、褒められれば水面を波立たせて集団で泳ぎ感動的に喜ぶ様子を見せるが、何かの拍子に悪意を感じるとゼリー状に半固体化して抗議してくるのが特徴だった。人間にもときどき見掛ける性格だが、南極から来た単細胞生物に見えたサラドンにしては、まったくもって奇怪な感じがあった。
ちなみにP3レベルの拡散防止措置とはどれだけ厳格なものかを、チェックリスト風に挙げてみよう。
【施設等について満たすべき事項(P3レベル)】
1 実験室が、通常の生物の実験室としての構造及び設備を有すること。
2 実験室の出入口に前室(自動的に閉まる構造の扉が前後に設けられ、かつ、更衣をすることができる広さのものに限る。以下同じ。)が設けられていること。
3 実験室の床、壁及び天井の表面については、容易に水洗及び燻蒸(くんじょう:薬品の蒸気で殺菌する)をすることができる構造であること。
以下法律特有のわかり難くて長すぎる説明が続くので略して書いてゆく。
4 昆虫等の侵入を防ぎつつ燻蒸もできる密閉構造
5 足か肘か自動操作できる手洗い設備
6 実験室の内側へ流れていく排気設備
7 フィルターでろ過して排気し、再循環されないこと
8 遺伝子組換え生物等を不活化した後で排水を排出すること。
9 安全キャビネットを設けること
10 略
11 実験室内に高圧滅菌器が設けること。
12 真空吸引ポンプは当該実験室専用で、消毒装置付きの捕捉装置があること。
【遺伝子組換え実験の実施に当たり遵守すべき事項(P3レベル)】
1 遺伝子組換え生物等を含む廃棄物(廃液を含む。)については、廃棄の前に遺伝子組換え生物等を不活化するための措置を講ずること。
2 遺伝子組換え生物等が付着した設備、機器及び器具については、廃棄又は再使用(あらかじめ洗浄を行う場合にあっては、当該洗浄。)の前に遺伝子組換え生物等を不活化するための措置を講ずること。
3 実験台については、実験を行った日における実験の終了後、及び遺伝子組換え生物等が付着したときは直ちに、遺伝子組換え生物等を不活化するための措置を講ずること。
こちらも略式で…
4 実験室の扉は出入り以外閉じておく
5 エアロゾル(空気中にうかぶ微細な粒子)は最小限にとどめる
6 遺伝子組換え生物等を実験室から持ち出すときは、漏出や拡散が起こらない容器に入れること
7 遺伝子組換え生物等の取扱い後における手洗い等必要な措置を講ずること。
8 関係者以外が実験室に立ち入らないようにすること。
9 長そでで前の開かない作業衣、保護履物、保護帽、保護眼鏡及び保護手袋を着用すること。
10 作業衣等については、廃棄等の前に遺伝子組換え生物等を不活化すること。
11 前室の前後の扉については、両方を同時に開けないこと。
12 略
13 実験室の入口及び保管設備に、P3レベル実験中」と表示すること。
14 略
P3とはこれだけ厳格な規定で遺伝子改変生物を実験室外に持ち出さないことを目的としている規格なのである。
しかし現実には… サラドンは外界に漏れだしていたのだ。
ある日珍しく体調を崩して早めに帰宅したミナミは見てしまった。わが子等3人が、玄関先のアカハライモリ水槽にいつの間にか棲みついたサラドンらしきものと遊んでいるのを… サラドンは桃色のゼリーが生命を持ったかのような、セイラの親指くらいの大きさでアメーバ状の姿形をしていた。
ミナミの顔色がすっと蒼くなり、思わずそこに座り込んでいた。体調不良のせいだけではなかった。
「ああ、どうしよう…」
封じ込めだって…?
もうすでに、何もかもが遅かった。
近頃は大型化、つまり多細胞化した姿を見慣れており、もとも0.1μm程度の小さな細胞であったことを二人とも忘れかかっていた。おそらくサラドンは毛穴にもぐったり、感染率100%(つまり人類全員に寄生している)のニキビダニ等に入り込んだりしてP3レベルの警戒網を突破し、南戸家を訪問したに違いない。
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