7節 酵素
最後の1ページを除き、理屈が面倒な方は読み飛ばしてください、という部分です。
7節 酵素
まずここでは、通常の地球型生物の普遍的な特徴をあげてみよう。退屈かも知れないが、ここで生命現象に重要な意味を持つタンパク質「酵素」について触れておきたい。サラドンの科学的特性を説明するにはどうしても必要な部分ではあるが相当に理屈っぽいのも確かなので、面倒ならこの節ごと読み飛ばしていただいても構わない。
【タンパク質とは】
酵素の正体はタンパク質である。そしてタンパク質は、アミノ酸が多数結合した巨大な分子である。アミノ酸自体は500種類ほどが知られているが、タンパク質を構成できるアミノ酸は20種類だけで、その数と順序でタンパク質の性質が決まる。
例えばインスリンというタンパク質は、アミノ酸が21個並んだ鎖と30個並んだ鎖で構成され、肝臓に「血糖(血液中のブドウ糖濃度)」を減らすように指示する作用がある。アミノ酸の例として、アラニン、バリン、フェニルアラニン、メチオニン、システイン等がある。タンパク質はアミノ酸の種類と数、そして立体構造に応じて様々な生理作用を持つ。筋肉やホルモン、輸送タンパクなどの他、化学反応を触媒するものを「酵素」という。触媒とは、物質の化学反応を速やかに起こさせる物質を指す。
例えば薬箱に殺菌消毒薬として入っているかもしれない過酸化水素水(H2O2)は、通常でもごくゆっくり分解して、酸素と水になる。しかし目に見える程酸素が出るワケではない。
2H2O2 → 2H2O + O2
このとき周囲に酸化マンガン(Ⅳ)、いわゆる二酸化マンガンがあるとこの反応が飛躍的に速くなり、酸素ガスがブクブクと発生する様子が見られるだろう。このように化学反応に直接関わらないが、その速度に関わる物質を「触媒」という。
同様に過酸化水素水を傷口に塗ると、生体が持っている触媒(酵素カタラーゼ)が同じ反応を促進して酸素ガスがブクブクと発生する。このような触媒作用を持つタンパク質を、特に酵素とよぶのである。
ただし… 「酵素」作用を持つ物質はタンパク質だけとは限らない。これから紹介する「RNA」という物質の中にも、弱いながらも酵素作用を持つものがあることも付け加えておきたい。
今度はタンパク質(酵素)の合成方法を、真核生物の細胞を例に挙げて軽くなぞっておこう。もう気分は高校時代に戻ったつもりで、素直に御覧いただければ幸いである。なお「真核生物」とは、「通常染色体が核膜で包まれる状態の核を持つ」生物を指すものとする。
① 核内のDNAの遺伝情報を写しとり(これを「転写」という)、核外に持って
いく遺伝情報物質RNAを合成する
② RNAの遺伝情報をアミノ酸の並びに置き換える「翻訳」作業が行われる
③ 並んだアミノ酸をリボソームが結合させて、タンパク質を「合成」する
④ 生じたタンパク質の一部は、化学反応を促進(触媒)する「酵素」になる
⑤ 酵素が化学反応を一気圧・体温の条件で円滑に行い、遺伝子の「形質」が
発現する
要するに、①転写 → ②翻訳 → ③タンパク質 → ④酵素 → ⑤形質発現 の関連が大切だ、ということだ。
以下①~⑤について少々細かい説明を試みる。
① 核の中での「転写」作業
ヒトを含む真核生物の場合、生物の設計図は細胞の核内のDNAという分子に書いてある。DNAは「デオキシリボ核酸」の綴りの頭文字を採った略号である。DNAは「リン酸」、デオキシリボースという「糖」、4種類ある「塩基」が1つずつ結合したヌクレオチドが多数鎖状に結合したヌクレオチド鎖が、さらにもう1本のヌクレオチド鎖と緩く結合して互いに巻き合った「二重らせん構造」になっている。塩基には
アデニン(A)
シトシン(C)
グアニン(G)
チミン(T)
の4種類がある。ちなみにアデニン(A)は、Aはアデニンの略号だ…という表現である。
「二重らせん構造」は、掛けた縄ばしごを下から軽くねじった形で、2本の縄がヌクレオチド鎖、真ん中のはしご段の部分が「2つの塩基」で、必ずシトシンとグアニン、アデニンとチミンが向き合う(これを「相補性」という)分子である。遺伝子の情報は、RNA塩基と同様に「塩基の配列順序」に含まれている。DNAからRNAを合成することを「転写」と言う。
DNAのアデニン(A)は、塩基の相補性に従ってRNAのウラシル(U)に転写される。
つまりDNAの アデニン(A)は、RNAのウラシル(U)に
チミン(T) は アデニン(A)に
シトシン(C)は グアニン(G)に
グアニン(G)は シトシン(C)に
置き換えられていくのだ。
核内で「転写」され、このRNAが「翻訳」されてタンパク質が合成される。「二重らせん構造」の分子モデルを初めて作ったのがワトソン&クリックだ。
なおクリックは「セントラルドグマ」の提唱者である。
② 核の外での「翻訳」作業
核内から、核膜にある微小な穴(核膜孔)から出たRNAは、他のRNAの支援を受けながら設計図通りのアミノ酸の並びを作り、タンパク質合成の順備をする。アミノ酸の結合までの流れを「翻訳」という。RNAは「リボ核酸」の綴りの頭文字を採った略号である。RNAは「リン酸」、リボースという「糖」、4種類ある「塩基」が1つずつ結合したヌクレオチドが多数鎖状に結合した分子である。塩基には
アデニン(A)
シトシン(C)
グアニン(G)
ウラシル(U)
の4種類があり、この塩基3つの並ぶ順序がアミノ酸1つに対応している。
例えば、ウラシルが3つ並ぶと、アミノ酸「フェニルアラニン」1つがそれに対応し、
アデニン-ウラシル―グアニンの順序だと、アミノ酸「メチオニン(合成開始)」が対応する。
③ タンパク質「合成」作業
アミノ酸がタンパク質になるには、お互いに結合し、さらに正しい形に変身する必要がある。
ⅰ アミノ酸が並び、隣同士で「ペプチド結合」する(1次構造)
ⅱ ⅰは水溶液中で自動的にジグザグ構造やらせん構造を作る(2次構造)
ⅲ ⅱの中のアミノ酸「システイン」は別の「システイン」とS―S結合を
作る(3次構造)
ⅳ ⅲで生じた立体的分子(ポリペプチド鎖)がさらに別のポリペプチド鎖と
結合する(4次構造)
つまりタンパク質は、非常に巨大かつ立体的な分子である。そしてこの立体的分子は、温度やpH|(ペーハー:水素イオン濃度指数 ≒ 酸またはアルカリ性度)の変化で微妙に変形し、強熱や強酸にあうと、この立体構造が不可逆的に変形して元の性質を失ってしまう。これを「変性」という。
④ 「酵素」による化学反応促進作用
タンパク質のうち、化学反応速度に影響を及ぼすものを「酵素」という。酵素は化学反応に必要なエネルギー(活性化エネルギー)を下げるので、普段起こり難い反応でも一気圧・体温程度の条件でも起こりやすくなる。例えば酵素カタラーゼ1分子は、1秒間で過酸化水素分子500万分子を分解できるという。つまり酵素は、酵素なしでの生命活動が考えられないほど大切な役目を担っている。
⑤ 遺伝子の「形質発現」
遺伝子は「存在する」だけでは不十分で、実際に生き物の「形質」になって初めて意味がある。たとえば「肌を黒くして太陽の紫外線から体を守る」ためには以下の遺伝子と酵素がすべて必要である。
ⅰ 酵素Xの設計図である遺伝子X → 食物や体のタンパク質を分解する酵素X
ⅱ 酵素Yの設計図である遺伝子Y → フェニルアラニンからチロシンを作る酵素Y
ⅲ 酵素Zの設計図である遺伝子Z → チロシンから黒色素を作る酵素Z
なおフェニルアラニンやチロシンはアミノ酸の名称であり、フェニルアラニンはタンパク質を合成する素材の1つとして知られている。
通常の化学反応は、加熱や加圧や強酸等などによってようやく起きるのが普通だが、酵素は一気圧・体温程度の条件で難なく反応させる能力を持っている。そのかわり1つの化学反応にしか効果がない専門性(これを「基質特異性」という)という性質も酵素の特徴である。
その理由は、これから反応を受ける物質(これを「基質」という)と酵素とは、いったんピタリと結合(これを「酵素基質複合体」という)したその瞬間に化学反応が起きるからである。基質は種類によってそれぞれ形が異なる。それに結合する酵素もそれぞれの基質に対してのオーダーメイドであることは当然で… だから1つの酵素は1つの化学反応にしか関わることはできないのだ。生きている限り、この酵素による連鎖反応は続く。
つまり「生きること」とは、「連続する酵素反応の連鎖」であると言えるだろう。
さて、ここまでに紹介した「アミノ酸」は、炭素原子の周囲4か所に4つの官能基を持つのが基本だ。たとえばアラニンというアミノ酸は、
水素(-H)
アミノ基(NH2)
カルボキシ基(-COOH)
メチル基(CH3)
という名のラジカルを持っている。同様にバリンというアミノ酸は、
水素(-H)
アミノ基(NH2)
カルボキシ基(-COOH)
イソプロピル基(-C3H7)
を持っている。
ここでいう4つとは、紙に炭素原子を描いた場合の上下左右に1つずつというワケではない。自分自身を1個の炭素原子だとすると、方向1は頭上、方向2はおしっこが自然に飛ぶ方向、方向3は右尻の方向、方向4は左尻の方向に… つまり立体的に結合しているのだ。別の言い方で表現すると、正四面体(正三角形4つを合わせた立体)の中心に炭素原子がいて、そこから各頂点に伸ばした線の方向にラジカルがあることになるワケだ。
その4つのうち、水素(-H),アミノ基(NH2), カルボキシ基(-COOH)の3つは共通なので、残り1つの官能基がアミノ酸の性質を決めていることになる。ただし「グリシン」だけは残り1つの官能基も水素(-H)であるが…
このとき、物理的には鏡像異性体、または昔の「光学異性体」)と呼ばれるヘンな関係の分子が混在することになる。例えて言えば、それはあなたの右手と左手の関係とも言うべきものだ。
それぞれの手のひらには通常「親指、人差指、中指、薬指、小指」があり、その点では同一のものだ。しかしそれは本当に同一なのか? 手のひら同士は確かに重なるが、両手とも手のひらを向う側に向けて重ねると、絶対重なることはないので、同じモノとは言えない。つまりグリシン以外のアミノ酸にはラセミ体が存在するのだ。
「バリン」というアミノ酸にも、「偏光」という波の方向がそろった光を当てるとその光を右に旋回させるD-バリン、同じくその光を左に旋回させるL-バリンがある。実験室で化学的にアミノ酸を合成するとDとLはほぼ同じ割合で生じる。ところが… 既知の生物が利用したりタンパク質を合成するために利用するのは、ことごとくL型、つまり左旋回性のアミノ酸なのである。隕石または非生物的環境からアミノ酸が検出されることがあるが、D型が同じ割合で存在すれば、非生物由来と判定される。例えば空中放電で生じたアミノ酸にはDとLが同じ割合で混合している。そしてそれゆえに…従来はL型だけを合成したくても、D型も混在してしまったものだった。
だからこそ野依良治・名古屋大教授ら3人の研究者の「触媒による不斉合成反応の研究」は2001年にノーベル化学賞に輝いたのである。このラセミ体を作り分ける技術を一言で「不斉合成」と言う。不斉合成こそがコストを大幅に下げる技術革新であった。
なぜ作り分けが必要なのか。実は… アミノ酸に限らず、ラセミ体同士の性質は大きく異なっているのが普通なのだ。要るものだけ合成したいのに、要らないものまで合成すれば、原料や後で分別する手間、下手をすると廃棄のコストまでもかかってしまうだろう。
たとえばメンソール(メントール)は、いわゆる「ハッカの爽やかな香り」を持ち、飲料や消炎鎮痛剤に利用される物質だが、そんな性質を持つのはL型のメンソールだけであってD型ではそういう性質は見られない。というより、生物の持つセンサーがD型に反応しないので感じないのだ。他にも薬剤として利用される「プロスタグランジン」や「クラビット」などもL型だけに生理的な意味がある。したがって「不斉合成」という技術は医薬品の合成コストを大幅に下げるのに貢献する画期的な技術であったのだ。
本論に戻そう。アミノ酸にD型が混じるとは、地球上の生物としてとんでもなく珍奇な意味があるということなのだ。むしろ地球の生命といえるかどうか、というくらいに。そして… サラドン体内の液体およびタンパク質からはL-アミノ酸の他にD-アミノ酸が4%ほど混在しているのが確認された。つまりこれは… 既知の生き物には例の無い… どころか、現代の生物学の根底を揺さぶる「大発見」だったのである。
こうなると… サラドンがあのサンプル瓶IZ-FUB01A だけで観察できた理由も見えてくる。つまり…あの黒い小さな塊はおそらく氷雪に埋もれていた隕石であり、サンプル瓶を引き上げるときにでも偶然瓶に入ってしまったのだろう。あのあと1℃で2週間ほど放置されたとき、この隕石に含まれたD-アミノ酸を栄養にして増殖したサラドンが、居眠りから覚めたミナミの目に留まったワケで… 本来ならば捨てられてしまった湖水のサンプルに幾つもの偶然が働いたうえでの大発見だった。さすがイザナミ湖命名の女神さま、ミナミにはツキがあったようだ。
この仮説を元にイザナミ湖から採集した湖水100mLに僅かなD-アミノ酸を混ぜて10日ほど培養してみたところ… 100の実験区のうち、2区画でサラドンの発生が見られたのだ。
早速「サラドン発見」のニュースが世界を駆け巡った…かというと、そうではなかった。
結論から言おう。この大発見は伏せられた。大発見過ぎて隠されたのである。新しく未知すぎたゆえに、もし軍事利用されたりすれば、それこそ大変なことになるかもしれないからだ。例えばサラドン由来の生物兵器を使用されたときに、従来の薬が効きにくいとか効かないとか、人間の免疫力が有効に作用しないと言った事態も予想されたからだ。未知の病気や毒素を持っているかも知れないし軍事的に悪用されるかもしれない… しかし極秘のうちに研究だけは続けることになったのである。
知らず識らずに人体実験の形になっていたミナミとススメを見る限り、ヒトにはただちに直接害はなさそうだという「高等過ぎる判断」で、実験に必要なサンプルだけは日本に持ち帰ることになった。
南極の短い夏(日本では12月~1月)の間、任務である観測と試行錯誤だらけの実験とに明け暮れていたミナミとススメに帰国の時期が迫っていた。体調に異常はなかったが、ミナミとススメは厳重に消毒を受けた後《しれとこ》でオーストラリアのフリーマントルまで戻り、そこから空路で帰国した。サラドンは引き続き《しれとこ》で日本に向かっている。ここまでの知見として、サラドンの生命にはマイナス4~プラス8度程度の温度とわずかに酸性の水、0.5%程度の塩分、ほんのわずかな青い光や糖分、D-アミノ酸が必要なことが分かっていた。
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