6節 サラドン
6節 サラドン
ミナミが言ったように、それはやがて現れた。はじめは小さな丸いツブツブが見えたかと思うと、徐々にそれらが集まり大型化していくのだ。それを例えると、サラダドレッシングの油滴の出現の様子に似ている気がした。
よくあるサラダドレッシングは上層に油成分が、下層にナトリウムイオンや塩化物イオンが溶けた水成分が混ざらないで分離している。はげしくシェイクすると、水の中に大量の細かい油の粒が分散し浮遊している状態、いわゆる乳化に近い状態になる。このとき元の色が透明であったとしても、屈折率が異なる油滴によって光が乱反射され全体として白い牛乳のような色になるからだ。これをしばらく放置すると、徐々に油の粒は合体して大きくなっていき、やがては元の分離した状態、つまり水の上に油が浮いている状態に戻ってゆく。
この未知のツブツブは水上に浮かんで集まるワケではないが、出現の仕方は油滴そっくりだった。そうやって大型化したところで揺らしたり、音を立てたり、急に明るくしたりすると一瞬でただの水のようになってしまう。集まって大型化するとまるで細胞膜が消えていく… そんな錯覚を覚えるほどの変身ぶりだった。ミナミはこの様子を見てススメに言った。
「このサラダドレッシングちゃんさ、この世の生き物とは思えないけど、現実を直視しなくちゃね」
『ははは、どうやらこのサラドレは生き物だね。とてつもなく恥ずかしがり屋さんの、ね』
こうしてふたりの間ではこの生物のようなものをサラドレと呼ぶようになり、この話が隊員に広がるころには「サラドン」と呼ばれるようになっていた。
「まだ発表には早いかな」
『んん、どうだろう… 発表したら大騒ぎは間違いないけど…』
「うん、まだわからないことが多すぎるかもね」
『そうだな、まず隊長に確認するけどさ、いろんなデータだけは取っとかなくちゃ』
「サラドンは不思議としか言えない性質だもんね」
『そうだなぁ、子供たちにも見せてやりたいな』
「あああ、ついに言っちゃった。カナタ、セイラ、アンナ… 毎日話してるけど、やっぱ衛星電話じゃあね…」
『うん、元気なのはわかって良いけど、ぎゅっと抱き締めたいね、物足りん…』
危険を感じると、通常の光学顕微鏡でも見えにくいほど、大きさで言うと0.1~0.3µm(マイクロメートル)ほどに小さく離散してしまい、小さな細胞よりもっと小さい袋になってブラウン運動的に細かく震えている。しかし危険を感じないときにはみんなで集合し、細胞膜を共有して大きな細胞のような構造を造るのだ。
この0.1µmという大きさは、光学顕微鏡の分解能(2点識別能力)の限界であり、もっと小さい物体があっても見えないほどの大きさなのだ。実際ミナミたちは屈折率向上のために油浸レンズを使用して1200倍の像を得ていた。
顕微鏡で見ている限り、10分間見続けてもサラドンはほぼ見あたらないが、15分間静かに見続けているとだんだん集まって対物レンズの下に出現するのである。
「クラミドモナス」という緑藻類の植物がある。高校の生物の教科書には必ず載っているような、ごくありふれた単細胞生物である。この「クラミドモナス」が数十個から数百個集合したかのような「パンドリナ」や「ボルボックス」のような既知の細胞群体は、細胞の大きさまでをいちいち変えることはないが、サラドンはかなりの緩さで細胞の大きさの変化を許容していた。
群体が大きくなる時にはそれぞれのサラドンの成分が加算されることになる。ただし、どの遺伝子が優先して発現し作動するか、など具体的なことはまだわかっていない。また群体が小さく分割するときに、細胞膜や遺伝子がどういう状態になっているかなどもまだ分かっていない。
サラドンが棲む水中に、DNAはほとんどないのにRNAがほどほど混じっているから考えて、遺伝子はおそらくRNAである。RNAの変異の確率は1万分の1と言われるのに対して、DNAの変異の確率は10億分の1と言われている。つまりRNAはDNAに比べると変異しやすい。だから通常の生物の遺伝子はDNAであるが、逆に変異しやすい特徴を生かし、ウイルスなどの病原体が宿主の免疫系の働きから逃れる目的でRNAを遺伝子としていることがあるのだ。なお、サラドンを構成する小さな単位を果たして「細胞」と呼べるのかどうかは確定できないが、とりあえず「細胞」と呼ぶことにする。
まず、サラドンには時間の感覚がある。光、音、電気、温度については個々の細胞がセンサーとなる受容体を持ち、いちいち敏感に反応した。そしてまだ実験的に確認したわけではないが、群体状に集合したときには、センサーの性能が向上していることが予想された。エネルギー代謝を介在する物質の1つはATPであるが、まだ他にもありそうな様子が見え隠れする。
遺伝子や生殖方法は不明、学習能力や知能、言葉の有無などについては未知である。だから二人は毎日の研究を始めるとき、サラドンに声を掛けるようにしていた。サラドンが出現する時間は徐々に早くなっていき、次第にこの二人ならばいちいち分散しないようになってきた。これは二人に馴れた… つまり… 学習能力と記憶能力を備えていることを意味していた。
サラドンの研究に対して二人は慎重だった。サラドンが知的生命体である可能性も考え、また意思を伝達する手段があることを想定して、「生きたサラドン」はミナミの部屋で保管・研究し、「殺して分析する」するのをススメの部屋という具合に分けていたのである。そうした配慮が実を結んでいるのだと思うと、ふたりはなおさらに嬉しかった。
ところで… 不思議なことがあった。サラドンはあのサンプル瓶IZ-FUB01A だけで観察できたのだ。
あとできちんと採集した湖水からは、いくら待ってもサラドンは出現しなかったのである。これはどうしたことだろうか…
逆に意外すぎる発見もあった。サラドンの内容物を化学的に分析したところ、他の生物では考えられない特徴があったのだ。それが「構成成分として数種類のD-アミノ酸を含んでいた」のである。これは…サラドンが「通常の地球型の生物」ではないことを証明して余りある大発見だったが、これを理解するには多少専門的な知識が必要だろう。
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