23節 効果
23節 効果
どうも、おかしい…
シェニーはすっかり人柄が変わっていた。
かつて某国を出発するときに
「この際日本の代表団を骨抜きにしてみせようか」と豪語した面影はほとんど見当たらなかった。
すでに鷺坂を賄賂で釣る作戦は、なぜか破綻していた。
二回目の会合以降、なぜか日本側は具体的な提案をしてこなかったため、連れてきたディベートの達人、議論のプロ、屁理屈の天才たちは、彼らの名人芸を披露する機会は無いままだった。3度目の会合の最後に、ようやく裏切り者の鷺坂が日本代表としてのまともな論争を仕掛けてきたが、シェニーの反論で沈黙したはずだった。
それにしてもおかしい…
その本人が自身の変わりように驚いているくらいだった。口を開けばなぜか思ってもいなかったコトバが、しかも肝腎なところで次々に飛び出してしまうのだ。文章に関しても同じような変化があった。例えば本国に報告書を送ろうとすると、思ってもいなかったコトバを起案し、清書し決裁して送付してしまうようになっていたのである。祖国に忠誠を誓う文言…それは日本を叩き潰し、ゲンパツ建設を推進することになる文言であるが…は、理由は全く不明だがなぜか彼にとてつもない頭痛を与える結果になるのだった。部下の中にもそういう人間が何人もいるのだと秘書のピルクが言っていた。はじめは誰もがそんな自身に驚いているようだったが、だんだんそれがあたりまえのようになってきたのが怖かった。
ほんの一握り、「代表それは間違っています、本国の意思ではありません」と、まっすぐな視線で抗議してくる部下もいた。このコトバと文章と意思の乖離… そう、乖離だ。あの母国のことだ、オレが逆らえば粛清の嵐は家族にも吹き荒れることは肌でわかっている。それでありながら、なんでオレはこんなことを言ってしまうのだろう… 気がおかしくなりそうだった。
当然本国からは叱責のメールが頻々(ひんぴん)とやってくるようになっていた。
いや違うんです、本当はこう言いたいんです…
そう書くべき返信にも、まるで日本のヤツラが言いそうな「環境保護が優先」だの「南極条約の遵守」だの、挙句のはてには「原発計画には賛成しかねる」だの…と反論しかかっている自分がいた。
オレは狂ってしまっているんだ… しかもそれだけでは済まない事態が目の前にあった。
すでに明後日…。ほぼ日本と諸国側の原案に沿って、いかなる国も南極圏にゲンパツは作らないという協定を調印することに合意しているのである。違う、そうじゃないと思っていても、いざ会談の場ではジャップ【日本人の蔑称】の意見に耳を傾けて鷹揚にナルホドと肯き、ゲンパツ計画があることを肯定し、その撤回に賛同してしまったのである。それがどういうココロと頭脳の働き方なのか、いままでエリートで過ごしてきたシェニーには見当もつかなかった。
おそらくこのまま本国に帰ったら、家族ごと逮捕され粛清されるのではないか。それが確実でも、彼の意思の力ではどうにもならなかったのだ。
本当はオレのところへ抗議にやってくるあの連中と同じことを言わなきゃならんのに… シェニーは独り思い悩んだ。オレにもあのまっすぐな視線が欲しい!
ん… 視線だって?
そういえば、日本の鷺坂代表の目は… 片目がよくビクビクと動いていたっけな。何かの眼の病気かと思っていたが…
そういえば… 何も言ってこない部下… つまり今のシェニーに賛同するかのような部下たちの目もたびたび視線が震えていた。あれはなんて言う症状だっけ?
そうだ、眼球震顫だ。
おかしいな、本国を出るときは、そんなことはなかった。みんな視線がピシッと定まっていたぞ。
逆にさっき執拗に抗議に来た連中にはそういうことがなかったような気がする。だから怖かったんだ… 今度はしっかり観察してみよう。そういえば、近頃オレも片目ばかりが疲れてる気がする。
シェニーは鈴を鳴らして秘書を呼びつけた。そして眼球震顫への疑い調査と明後日の調印キャンセルを告げようとした。
「やあピルク、よく聞いてくれよ」
「あ、はいシェニー様」
秘書ピルクの右眼も妖しく震えていた。
「明後日の… いやコーヒー… じゃなくて紅茶をな、とびきり甘くして淹れてくれたまえ。そうだ、あの塩も少しで良い、忘れんようにな」
「はい、シェニー様、紅茶ですね、承知しました」
じつは秘書の眼を見た瞬間、得体の知れない衝動に操られて肝腎なことが言えなくなったのである。もう身体さえもが、時として意思のままにうごくことを拒否するようになり、まるで操られているかのように勝手に動くのだった。
ちなみに「あの塩」とは… 南野 行南がくれたアレだった。アンナの説明によれば、瀬戸内海は赤穂という場所で「入浜法」なる方法で作られた特別な塩だそうで、味に深みと旨味を感じる逸品… これだけは独占していたいシェニーだった。甘い紅茶にほんのひと振り入れるだけで、格別の風味と味わいになるのだ。
この秘書でさえも、公式にはまだ一度しか味わっていなかった。誘惑に耐えかねてこっそり舐めてみたことは何度もあるが…
たまらないうまさだったが、この塩が怪しいと疑ってみようとはしなかった。
どうでも良いことであるが… このピルクという名の妖艶な美人秘書がシェニーの情婦であることは公然の秘密だった。
ピルクは言われたとおりの紅茶をサーブしたあと、自分の分の紅茶を持ち、あたりまえのようにシェニーの横に腰掛けた。シェニーはリモコンで部屋を施錠し、ピルクの細い腰を抱くと、自分の腕で彼女の身体を撫で上げ、彼女の香りと胴体が描く曲線の変化を思うさまに愉しんだ。ピルクの身体を構成するコラーゲンやコンドロイチン硫酸は、シェニーの思い通りに変形するかと思えば、たちまち元の曲線に戻るしなやかな柔軟性を備えていた。
「こりゃたまらん… 飽きるはずがないのぉ」
何度も何度も掌が往復するたびに、その美しい曲線が複雑な弧を描いて変形し、ピルクの表情を甘く歪ませてゆく… どちらにとっても最高の御褒美だった。
不安感でいっぱいのシェニーは、結局ピルクに溺れることで、ひとときそれを忘れようとしたのである。
結局執務は二時間半に渉って中断された。
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