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ミナミヘ ススメ  作者: 楠本 茶茶(クスモト サティ)
第2章 代表
21/36

21節 ゼリー作戦

21節 ゼリー作戦


 そして… その日が来た。


 シェニー代表率いる某国交渉団は予定どおりにやってきた。

 南極というところでの予定は、結構難しい。例えば今は1月だが、平均最高気温は約2℃、平均気温は-0.7℃、平均最低気温は-3.7℃と言われている。さらに月間降雪日は約11日あり、ここに風のデータは含まれていない。雪嵐ともいうべきブリザードが来れば、当然ヘリは飛行できない… つまり予定通りにヘリが飛べるというのは、結構運が良いと言えることなのだ。12月から1月にかけては一日中日照がある(白夜が見られるのもこの頃だ)ので、月間の日照時間は12月だと435時間に達する。ちなみに24時間×30日=720時間、降雪日が11日(フルで264時間)とすると、720時間-26時間=456時間 であるから、雪以外のときはずっと晴れてると言っても良いくらい長い昼が続くワケだ。

 

 今日の隠された目的を知っているのは、南戸一家と鷺坂だけである。鷺坂についてはほぼ南戸一家の手中にあると言っても良いくらいにマインドコントロールができるようになっていた。他の代表や随員や観測隊を信じていないわけではなかったが、すこしでも怪しまれる言動は避けるべきだったからだ。それにもし… もしかしたら以前の鷺坂のように他の某国スリーパーがいたら… すべての準備を労力と費用とが無駄になるだけでなく、たった一つの失策から南極の生態系すべてが大混乱に陥ってしまうかもしれないのだ。

 前回の訪問で、鷺坂の行動に特に怪しいところはなかった。もちろん密かに体内のサラドンと連絡して裏は取ってある。ただかつては日本国を裏切り、次には某国を裏切った過去がある… 過去といってもごく最近だが… 南戸一家の家族ほどに心底から信じるワケにはいかなかった。

 

 式典が始まった。

 いよいよ「某国代表シェニー様の挨拶」と司会が紹介しかけるその刹那、つかつかと席を立ったシェニー代表がマイクを握り、開口一番で強烈な先制パンチを浴びせてきた。

「約束というもの、契約というものは、人生でも国際信義の上でも最も大切なことである。いったん約束したものを個人の都合や心境で勝手に変更することは、たとえどんなことがあっても許されない」

このあたりで鷺坂は下を向き、おそらく無意識にビンボウゆすりを始めた。自分のことを当てこすっていると思ったようだ。実際そのとおりなのだが…


「前回貴国ニッポン代表鷺坂さんは、この件について特に反対の意見を述べることはなかった。これは承認の意思の表れであり、わが国としては最大の友人の強い支持を得られたものと解釈していた」

ここまできても、なおゲンパツという単語を口にしないところが狡猾こうかつなところである。

鷺坂は… と見れば、細かく震えだしている。


「我が国は、確かにイザナミ湖の水資源を少しばかり拝借するが、南極大陸の広大さから見て、何らかの影響があるとは思えない。影響があるなどという者は科学を知らず、論理をわきまえず、ただ単に目立ちたいがためのデマゴーグ(デマを流すヒト)としか思えない」

あおくなりかけた鷺坂に、ススメがなにかささやきかけた。そのそばではアンナが鷺坂の手を握って励ましている…ように見えた。


 うんと肯き、つばを飲み込んだ鷺坂が口を出した。

「まあまあシェニー代表… あとで協議に時間はたっぷりとってありますから… 万事はそこで」

「ミスター鷺坂、しかし私は…」

「今日はこちらでおもてなしする番です。ぜひぜひこちらのメンツも立てさせてくださいな」


やや下手に出られて、コトバにつまったところで、鷺坂が蒼い顔のまま指示を出した。


 すかさず司会役の原川隊員が話し出した。

「はい、みなさま、飲み物を注いでくださいな。なみなみと、でもこぼれないようにお願いします。

某国代表団の皆様、寒い中… いつもですが、ようこそおいでいただきました。腹が減ってはなんとやら… まずお食事を召し上がっていただきましょう。

 細かいハナシ、とげとげしい論戦はあとにして、まず腹ごしらえ… これも大切ないくさ前の儀式でございます。本日は山海の… と言いたいところですが、ここ南極の、海海かいかいの珍味を揃えてございます。ミナミヘ兄妹が腕を振るった料理もデザートも御用意いたしましたので、存分に召し上ってください。ではグラスの御用意はできましたでしょうか… 今日は日本風に『乾杯!』でいきますよ… では御唱和ください…  乾杯!」

『カンパイ!』


 これでなんとか無事にランチタイムに持ち込むことができたのだった。


 主なメニューを紹介してみよう。多くは最低限のシンプルな調味のみをほどこしたもので、南極の生物たちそのものの持ち味を生かしたもの… つまり南極にひたすら敬意を表すことを意識して作られていた。

 例えば、「オキアミ」の素揚げ。南極海に、ほとんど無尽蔵にいるのではないかと思うくらいの生物量がある節足せっそく動物の甲殻こうかく類だ。現地では魚類やシロナガスクジラやセミクジラなどヒゲクジラ類の重要なエサになっている。日本では釣り人が「コマセ」として愛用しているエビのようなアレだ。ただただパリパリと触感良く揚げてあるだけだが、この上なく香ばしく、海水そのものの塩味が効いて旨かった。


 例えば「ライギョダマシ」の煮つけとスープ。顔つきが特定外来種として悪名高い淡水魚の「雷魚:ライギョ」に似ている… ということから付けられた名前である。さすがに名前のイメージが悪すぎるせいか、日本では「メロ」とか「銀ムツ」とかいう名で「白身魚のフライ」として流通することが多い。

 ここ南極海では浅いところから深いところまで幅広く棲息せいそくしており、1.5m程度まで成長することが知られている。これがまた…白身で非常に美味いのだ。本日は和風を意識して醤油と和三盆わさんぼんという上質な砂糖で甘辛く煮つけてある。柔らかく脂の甘さと相俟あいまってたまらん味わいになっていた。あまりに美味いため、実はもう二品に使われている。普段はムニエルなどにされることが多いが、今回は特にトマトと共にとろみスープ風に仕立て、クルトンの代わりに日本の駄菓子アラレを浮かべ、広い皿にゆったりと盛り付けてある。

 そして近海で取れるエビやウニを使った寿司とともに、三たびこっそり「ライギョダマシ」が登場するという念の入れようである。寿司の美味さはいうまでもない。


 ひとしきり皿とフォークの触れる音が静かに響き、やがて談笑が混じるようになった。


 さて、南戸家の子供たちは何を作ったか。それはランチタイムの中頃にクイズとして出題された。結論から言うと、以下の2種類である。

・昭和基地の水耕栽培サニーレタスとバジルのサラダ、イザナミ湖の水サラダドレッシング仕立て、カリカリベーコンとチーズ掛け。以前カナタが提案した生マンゴーは入手できず、生パパイヤは冷凍ものが在庫にあったので、すりおろしてサラダドレッシングに加えてあった。これで口内粘膜にダメージを与える作戦である。ご丁寧にゆっくり味わってください、との案内書きも添えてあった。


・謎の生物と白玉入りイザナミ湖の湖水ゼリーとかき氷、生パイナップルと水耕栽培ミント載せ:謎の生物は「貝の刺身」のような歯ざわりで、なかなか好評だった。この生物の正体、実は「ユムシ」と呼ばれる環形かんけい動物で、内臓をしごきとれば刺身でもイケるのだ。生きているときの見た目は、まるで男性が所持するナニのようだし、一切の食欲など催さないが… 味はとにかく美味い。

 ちなみに、日本では全国の釣具屋さんで販売している「釣り餌」としても有名な生物である。これを使うと、大物がヒットしやすいのだそうな…


 どちらもイザナミ湖の水を使った料理だが、仮にサラドン感染が国際問題化した場合の逃げ道としての意味を持たせてある。子供がやったことだ、某国だけでなく日本人も非加熱で食べているではないか… 今まで病原性というデータはなかった…と、知らぬ存ぜぬを通すための布石でもあった。もっともバレるとは爪の先ほども思ってはいないが… まあ用心するに越したことはない。

 

 そして隠し味… どころかこれが本命でもあるが、どちらにもサラドンとD-アミノ酸がしっかりレシピの中に含まれていた。だからといって、別に毒を食わせたワケではない。正確に言うならば、「直ちに害はない…」と表現すべきだが… ススメたちはもう、手段を選ぼうとはしなかった。勝利しか正解はありえない… と思いつめていたのだ。


 アンナでさえ自分の特性と役割を充分に理解していた。親し気にシェニーに近づいては話しかけたり、ひざの上にのったり、歌を唄ったりしていた。たまたまシェニーが食べ残していたカニ玉あんかけチャーハンを見ると、アンナはこれ大好き… と言うが早いか、すかさずシェニー代表の了解を取り、小皿にチャーハンを取り分けた。次いでアンナのポケットから出した小ビン入りの白い粉をササッとかけ回したのである。そのままその辺のスプーンを掴み、落ち着き払ってチャーハンをむさぼり始めたのだ。


「その粉は、何なのかな?」

 ふと疑問を感じたシェニーがアンナに訊ねた。

「これはひみつなの… でもごはんがとってもおいしくなるコナなんだよ。たべてみる?」

「いや、もういい… いや、せっかくだから一口ひとくちもらおうかな」

「いいよオジサン、たべてみて」

アンナの手際は素晴らしかった。ささっと別の小皿にチャーハンを取り分けると、有無を言わさずシェニーの手に小ビンを持たせたのである。

「ふたふりくらいがちょうど良いよ」

「おお、ありがとうね。どれ、いただいてみようか…」


「ふむ… なんだこりゃ… ぜんぜん味が変わって… こりゃうまい。マジックパウダーだね」

「きにいった?」

「入った入った」

「じゃ、オジサンにあげるよ」

「はは、そんなん、いいってば… 子供から貰うなんてできないさ」

「なんで? そんなほうりつがあるの」

「そりゃないな」

「じゃあ、あげるね。アンナのばぁばのおうちのね、てづくりのおしおなんだって。えっとアコーのイリハマホウで作ったおしおだってさ」

アコーにイリハマホー? まあ良い、あとでピルクに調べさせよう。

「ありがとう、アンナ。でもアンナの分がなくなっちゃうんじゃないかい?」

「ダイジョウブ、あとふたつあるから」

「そうかい、じゃぁ、ありがたくいただくね、アンナ」

「いえいえ、それほどでも…」

最近覚えたばかりらしいコトバを妙なイントネーションで発しながら、アンナは次の一口を頬張っている。

「もうちょっといただくとしようかな、アンナ」

そう言いながら、シェニーも負けじとレンゲをあやつって口に運んだ。


 食事は好評だった。これはお世辞ではなく、はっきり確信できた。食べ残された食材はほぼ無かったからである。…ということは、この食事会の意味が充分あったことになる。サラドンは今頃粘膜からの侵入に没頭しているに違いない。そしてじわじわとヤツラに体内で増殖していくのだ。やがて性格や思考を徐々にコントロールしていくに違いない。

今はガマンの時… その日をじっと待ち、一気にカタをつけてやるぞ…


 ひとまず将来のために、言っておくべきことはしっかり言っておき、今少し交渉と工事の本格化を先に延ばす工作をしながら、できれば某国の国元にもサラドンの感染を広げていけないものか…

 そんなことを考えながらススメも談笑に興じていた。もちろん某国代表には先日の無礼を詫びに行き、子が世話になった礼を言い… 今はガマンガマン、あとで見てろよ… 誓いを新たにしたススメだった。某国代表シェニーはカナタとアンナを誉めてくれたが、こんな奴に褒められても… と思うと、ススメは喜べなかった。

 

 さて同じとき、ミナミとセイラには別に重要な任務があった。それは握手である。

 某国代表7人をひとりひとり訪れては、固い握手で迎え、歓迎のコトバを述べたのである。ていねい過ぎる挨拶も、「ミナミヘの妻と娘」であると名乗れば、なんとなく納得された。理由は前回のススメの暴挙にあった。つまり謝罪の意味が籠っていると理解されたのである。


 しかしミナミとセイラには全く別の意図があった。親善の挨拶で握手をするのは、新型コロナ流行後であってもさほど不自然ではない慣習だったし、ここ南極に来るまでの時間を考えると発病するならとっくに発病しているはずでもある。こんにちは、の挨拶と共に手を出されたとき、握手に応じないヒトはいなかった。


 前回の某国基地訪問から4日が経過していたが、まだまだ感染はしていても症状はでていない「潜伏期間」であるはずで、サラドン感染特有の症状である「眼球震顫がんきゅうしんせん」を起こしている者はいるはずがなかった。そこでセイラ自らが握手をすることで、相手の体内の感染の有無と反応を調べる役目を買って出たのである。

 

「ああ、あの方の奥様でしたか… それは大変ですね。」

つまり、それとなく謝罪をしていると勝手に解釈してくれるのだ。

「ああ、いえいえ、私はなれっこになってしまっていますが、初めて聞く方にはさぞ御不快かと…」

「ははは、びっくりはしましたがだいじょうぶですよ」

こんな感じで一気の相手の同情と共感を得て、話が盛り上がるのである。その辺は我々の日常会話とほぼ変わりはない。共通の悪口の対象者がいれば、話は盛り上がり親近感さえも生まれてくるものなのだ。


 こうしてミナミが気を引き会話を続けているとき、実はひそかにセイラの手がしていること…

それがサラドン感染の有無の確認であった。先日日本代表団が今回の下交渉に行ったとき、カナタとアンナがサラドン特攻隊を残置してきたのを覚えているだろうか。

水道の蛇口、調理場のシンクや排水孔の中… 

 なにがなんでも、今回の7人の代表団員には全員にサラドンに感染してもらうからね… ミナミとアンナはアクティブにホステス役を務めていた。


 結果は…喜ばしいものだった。あとでセイラに聞くと双方のリストタッチを通して7人中3人の感染が確認できたと言う。まだ感染初期だから、眼球震顫などの具体的な症状は出てはいないのだ。この分なら、基地残りの隊員にもある程度は感染が拡大しているに違いない。シェニーを含むあと4人にはまだ感染が確認できなかったが、今日からはおそらく… 徐々に味方になってくれるだろう。


 食事会自体はこの上なくうまくできた。しかし後半のゲンパツ会議は双方の主張が全く嚙み合わず平行線を描くばかりであった。だいたい妥協とか協議とかいうものは、双方の着地点が似ているから可能なものであって、このような全く逆の主張では、字義どおり互いにぶつかりあうしか方法がない。敢えてここにはその不毛な議論を収録しなくても良いだろう。


 会合の最後に、鷺坂が苦い顔をして立ち上がり、仕方なさそうに言った。

「本日は協議に応じていただき、ありがとうございました。実は本国から本日訓令が届きまして、代表としては言わなければなりません」

鷺坂は一度コトバを切った。


「他国の南極調査についてとやかく言うべきではないという意見もありますが、貴国の南極調査には重大な環境破壊を引き起こす恐れがある、ここに至っては南極条約の条文も含め、さらに環境アセスメントもしっかりおこなったうえで、両国の友好関係に鑑みて結論を出すべきです。さらに他の10か国も歩調をそろえて同じことを申し入れている事実を尊重していただけるようにお願いしたいです。次回は実務的に解決法を見出し両国の融和的解決を目指すべし…とのことでした。本職として貴国の調査に干渉するようで心苦しいものもあるが、ここは南極大陸であります。お互い地球のための仕事だと割り切って、誠意を尽くして話し合っていくべきときだと考えています。よろしく御理解をお願いいたします」


 これに対する某国の反応は思った通りの苦々しいものであった。

「我が国の南極調査計画は、本来南極条約に違背いはいしていないため、別段協議などに応じる必要などないが、両国の友好関係にかんがみてこうして協議に応じようとしている。ここまでの準備だけですでに50万ドルもかかっておるのだ。要求する条件は何であれ、環境破壊の懸念など少しもないので、日本としては我が国の計画を理解し、すみやかに承認するように鷺坂代表からも上申してもらいたい。次回は今回の協議で出てきたアセスメントについて、詳細なデータを提出することを約束する。工期の関係もあるので、すみやかな解決を望んでいる。本国からの訓令では、場合によっては協議を放棄してもよいと言ってきているのだ。規模の縮小交渉ならまだしも、全面放棄ほうきにはとても応じることができない。日本側はもっとまじめにやってもらいたい。もし次回があるのなら、その辺りの事情をよく含み置いてもらいたい。今日の食事はたいへん美味しかったし、それが収穫だった」


 食事を誉めたのは、もちろん会議がうまく行かなかった皮肉である。またわざわざ50万ドルと言ったのは、もちろん買収工作に充てたカネであり、鷺坂代表への恫喝どうかつであっただろう。

 鷺坂は顔を伏せていたが、傍目からもわかるほど顔色が悪かった。最近貰った賄賂わいろをせめて返却しようとしてシェニー代表の秘書ピルクに接近しようとしているとの報告が、鷺坂サラドンからもたらされていたた。

 バカなヤツである。カネを少しでも、一度でも受け取っていたら契約は成立したと考えるべきで、受け取ったカネをたとえ10倍にして返したところで違約は違約、償えるのは自らの命だけであることを鷺坂は知らないのだ。


 外交的修辞を除けば、ほぼ拒絶ということだし、アセスメントのデータなど根拠のないでっちあげのデタラメに違いないが、それでも一国の代表の言うことについてはお互いに尊重し合わなければならない。ススメたちにとっても、今回の会合はある意味時間稼ぎでもあったのだ。


 次回の会合を約して会合は終わった。ススメ、カナタ、アンナたちは計画していた密かな目的をことごとく達成することができた。次回までの間にサラドンがどれだけ活躍してくれるだろうか。某国代表団をどれだけコントロールできるようになっているだろうか。

 

 やっと作戦の布石が終わった。あとは時間が経つのを待ちながら、某国本国とのやりとりをどう妨害していくか、工事の進行をどのような方法で停めるかを工夫していくことになるだろう。

 同じ仲間の観測隊員にさえ秘密である「南戸一家の心配ごと」は尽きることがなかった。いや、そろそろ観測隊のなかでもシンパを作らなければなるまい。夫婦はそう考えていた。なぜなら観測隊員の中にも今までの鷺坂の手ぬるさを非難する声が高まってきたからである。夏隊に残された時間から見て、少し急ぐ必要があると思われた。時期を過ぎれば《しれとこ》は帰国のためにここを離れてしまうからだ。


 この夜南戸一家とサラドンは301室に集って祝賀会をひそやかに催した。大人はこっそり酒を持ち込んで、気持ちよく酔いしれた。子供たちはソフトドリンクで乾杯した。ほどほどの時刻で解散はしたものの、ススメはもう一度301を訪れ、忘れていた届け物をミナミに渡した。アンナはすでに熟睡していた。

 ミナミはススメの手を離そうとはしなかった。ススメの手もミナミを離さなかった。クチビルが重なると、もう法律も自制も誓約も一切が意味を失った。

 それでよかった。規則なんて破るためにある… などというコトバさえ、思い付くことができなかった。そこにあったのは惑溺わくでき奔流ほんりゅうと快感だけだった。


 カナタは… 自分のベッドに入り一度は眠りについたものの、ふと目が覚めてしまった。

み、みず… 寝る前に飲んだ超有名乳酸飲料のせいか、尿意があり、さらにのども渇いていた。父を気遣きづかってそっと起きてみたが… ん? 父はそこにいなかった。近頃の父は誰かとの連絡や密談などが多いらしく、しばしばそんなことがあった。

 水を飲んで共同トイレに行って… ここにも父はいなかったが… 再び横になった。しかし気のたかぶりもあってか、なんとなく眠れなくなってしまった。こんなとき考えるのは、これからの某国との闘いの行方… などではない。


 セイラ…


 家族と隊員以外に外部と接触がない状況は、想像していたよりもずっと不自由な環境だった。まずセイラ以外に同年代がいない。アンナでは子供過ぎて、どちらかと言うと「オジサン」とか「おとうさん」の感覚で接してしまう。そして恋愛対象になる若い… ちょっと失礼だが、若い女性がいなかった。隊員の中にも女性が居ないワケではなかったが、どちらかと言わなくても「おかあさん」や「おばさん」ばかりで、カナタの年代に見合う「若い女性」は皆無だった。

 話も合い、タイプも好みであり、近頃はめっきりと女性らしい身体のラインが目立つようになったセイラが脳裏のうりを占めるようになっても、何の不思議もない。しかも… セイラとは実の兄妹ではないのだ。

もっと悪いことに、セイラは美しく気高く、お茶目で可愛かったのだ。もしも同じ年頃の若い娘が幾百人いたとしても、カナタはセイラに目を留めたに違いなかった。


 きょうもセイラが代表団と固く長い握手を続けているのを見て、やっていることはわかっていても穏やかならぬ心の内だった。


 ただの握手じゃないか。


 これは嫉妬しっとだ、ジェラシーだ… そんなオレは、シットマン…セイラが盗られて行ってしまいそうな気がしていた。シットマンはカナタの造語である。そんな言い回しなどありはしない。セイラのことが好きで好きで、セイラを独占したくなるカナタに、カナタ自身が自嘲じちょうを込めてつけたニックネームだった。

 

セイラ… ココロで叫んでみた。

セイラがこちらを向いて笑顔になったあと、かぐわしい風を引き連れていそいそと走ってくる… 幻だ。


 セイラとは毎日リストタッチしているのに… ラチャンとタチャンの意思交換のためにそれは必要だったが、カナタにとってはセイラのしっとりと柔らかい腕に堂々と触れることができる貴重な時間でもあった。気付けばカナタの一部がセイラを想って臨戦態勢になっていた。父は不在だ。カナタは自然と本能に身を任せた。

 

 同じ頃302にも起きてしまった女性がいた。隣の303の扉が開いて閉まる音で目覚めたのである。歩く音のクセでカナタであることがわかった。しばらくして、もう一度扉が開いて再び閉まった。ばぁばは静かに寝息を立てている。

 

 カナタ… そっとココロで呼んでみた。


カナタがにっこり笑って、おいでおいでと手招きしてくれた。… 幻だ。


 セイラにとって、年齢さえ無視すれば個性的で魅力的な男性はたくさん居た。でもまぶたを閉じて浮かんでくるのはカナタだけだった。ちかごろめっきりと筋肉が付き声も低くなってきたカナタ。カナタに「セイラ」呼ばれると、知らずしらずのうちに微笑んでしまっているセイラが居た。逆に食堂や研究所のオバサマと楽し気に語り合っているカナタを見ると、セイラの胸にモヤモヤが渦巻く。これは嫉妬だ、ジェラシーだ。アタシってジェラシストなのね… ジェラシストはセイラの造語である。その単語は実は「イタリアでアイスクリームを作るヒト」を意味するのだが、セイラはそれを知らず自嘲を込め嫉妬深い自分の仇名として使っていた。


 カナタとは毎日リストタッチしているのに… タチャンとラチャンの意思交換のために、それは必要だったが、セイラにとってはカナタに堂々と触れることができる貴重な時間でもあった。気付けばセイラの手のひらは彼女の寝巻のすそをめくりあげ、柔らかくふくよかにふくららんだ部分をで触っていた。ブラを付けていない素肌はおそろしく敏感になっている。その生意気に尖った小山のいただきを自分の人差し指と中指で挟んでみると、得体えたいの知れない寒気が身体の中心を突き抜け、また滑り降りてゆき… なんとも言えない心地ここち良さの余韻よいんのリフレインがさらにリフレインしていた。

 これが… これがカナタの指だったら、クチビルだったら…

 

 あ、ヤバイ、下着を汚しちゃうかもしれない… あ、そうか、今は女の子の日だったっけ。

ふと我に帰ったセイラは慌てて、しかしそっと起きだして水を飲んだ。まだ身体の火照りは収まってはいなかった。しかたなく部屋の隅の電灯を小さく付けて、ずっとお気に入りだった絵本を開いてみた。この枕と同じように、どこのページに何が書いてあるのか文の隅々まで、絵まで描けるくらいに暗記しているのに、どうしても手放したくない絵本なのだ。


まるで「セイラとカナタ」のことが書かれているかのような本だった。


 カナタ…

あたしたちってさ…


もしも、もしもだよ

二人が好きあっていたならば…

れ、レンアイってできるのかな?


「できるさ」 

カナタが答える。

「兄妹の恋愛禁止とか、別にそんな法律はないだろ…」


じゃ、結婚は?

「気になるならさ、調べるさ、ネットで…」

カナタがちょっと笑いながら応える。

「やだ、なんで? そんな真剣じゃないよ、知ってるか訊いただけ」

ウソだ、大ウソだ。


「可愛いな、セイラ… 実はオレ調べたんだよ。ほんとはね、セイラ…」

これは妄想… あれ、夢だったの?


 気付けば、もう2時だった。日本だったら「丑三うしみどき」と表現する時刻である。セイラは絵本に突っ伏したまま寝入ってしまっていたのだ。

おまけに、よだれが… 絵本で一番気に入っているコトバが見事にふやけていた。


ふやけてゆがんだ部分で、オスのコアラはこう言っていた。

「いつも いつも いつまでも、

 きみといっしょに いられますようにって いのってたんだ」


 セイラはそのページにティシュペーパーを4枚取ってページの上下からはさみこんだあと、次のページ、メスのコアラのコトバを小さく音読した。


「あら、わたしはちがうわ。ずっと ずっと えいえんに

 あなたといっしょに いられますようにって おいのりしたのよ」


 一緒じゃん… いつものように自らツッコんで、ふと気付くと身体が冷え切っていた。

電灯を消し再びベッドに戻って毛布にくるまった。これも手放せなくて日本から持ってきた枕に頭をゆだねた… と思ったときは、すでに7時で、目覚まし時計が鳴っていた。



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