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ミナミヘ ススメ  作者: 楠本 茶茶(クスモト サティ)
第1章 新種
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 2節 南へⅠ

2節 南へⅠ


1年前、同じ窓辺ではこんな会話が交わされていた。


「もうじき、また行けるね」

男が話しかける。

「楽しみにしてたもんね、アタシたち… ちょっと不自由だけど…」

と女が答える。

「そしてとびきり寒いけどね」

「そう、そしてかなり寂しいけどね」


 男は南戸ミナミヘ ススメ、女は南戸ミナミヘ 南波ミナミ… 夫婦である。共に離婚歴があるいわゆるバツイチ同士で、お互いに小学校6年生の連れ子が居た。「戸」を文字を「ヘ」と読むのは、一戸イチノヘ八戸ハチノヘなどの例もあるが、苗字としてはかなり珍しい部類だろう。読み方は普通に《ミナミエ》と発音して構わないようだが、フリガナはあくまでも《ミナミヘ》なのがコダワリなのである。なんでも御先祖様は青森とか秋田とか… あっちの方面に住んでいたらしい。大東亜戦争(太平洋戦争)よりも前に台湾に移住していたらしいが、祖父母の死去と共にあいまいになっている。

 

 ススメの連れ子は彼方カナタ、南波の連れ子は星良セイラであり、またススメとミナミの間には6歳になる行南アンナという娘がいた。ミナミとセイラの旧姓は「椎原シイバラ」であった。アンナが産まれた時、二人の愛の証として、そして今度こそお互いの家族を大切にするという決意として、敢えて「南」の文字を入れたのだ。この家族の名前をフルネームで書くと、南という字を7回、「ミ」という文字なら12回も書くことになるわ、とミナミは笑う。その笑顔を美しい、とススメは思っている。


 ところで… 窓辺の会話は何か。

 明日オーストラリア行きの飛行機が日本を発つのだ。オーストラリアのフリーマントルからは五代目の砕氷艦《しれとこ》に乗り換え、約5か月の南極観測の長旅に出るのである。普通「南極観測船」と表記されることが多いが、管轄している防衛省では「砕氷艦」と表記している。

 

 南極観測の送迎は第一次の1975年からしばらくは海上保安庁が、その後は海上自衛隊に引き継がれていた。南極地域観測隊を乗せて、日本との往復に用いられた艦船は、

 初代:宗谷(1957~1962)

 二代:ふじ(1965~1983)

 三代:しらせ・初代(1983~2008)

 四代:しらせ・二代目(2009~)

と続いてきたが。今回からはさらに砕氷能力(氷を割って進む能力)を大幅に上げ、ヘリコプターの搭載機数を増やした新造の砕氷艦《しれとこ》を用いることになったのだ。その能力を、しらせ・2代目と比べてみよう。


       しらせ(2代)        しれとこ

建造費用  376億円           520億円

基準排水量 12,650t           16,800t

満載排水量 22,000t           31,000t

全長    138.0m            145.0m

最大幅    28.0m            28.0m 

吃水     9.2m            9.8m

機関   統合電気推進方式      統合電気推進方式

主機   ディーゼルエンジン×4基  ディーゼルエンジン×4基

     主電動機×4基          主電動機×2基 主発電機×2基

出力   30,000PS(馬力)       36,000PS(馬力)

推進器  スクリュー×2軸       ダクテッド・スクリュープロペラ×1軸

                       ポッド型推進器×2基

速力   19.5ノット(約35km/h)    22.2ノット(約40km/h)

乗員   179名 / 隊員80名       160名 / 隊員80名

搭載能力 輸送物資約1,100t      輸送物資約1,600t

兵装   64式小銃/9mm拳銃      64式小銃/9mm拳銃

搭載機  資材輸送ヘリコプター2機   資材輸送ヘリコプター3機

    人員輸送小型ヘリコプター1機  人員輸送小型ヘリコプター1機

       

 二代「しらせ」の後継艦については当初20,000トンの排水量(船の重さの目安。排水《押しのけた水》の分だけ船の重さがあることになる)を構想していたが、最新技術の投入と予算の関係で16,800トンとなった。これでも海上自衛隊の中で見れば、最大級の大きさを誇っている。排水量の増加により物資の輸送量は1,100トンから1,600トンに、つまり約500トンも増加した。


 出力の「馬力」は、力の単位としてはすでに旧式のものだが、逆に現在の正式の仕事率のkWキロワットで表現してもワケがわからなくなるのがオチだろう。


 念のために換算してみるが…1PS=約0.735kWだから、

《しれとこ》の36,000PS=約26,460kWということになる。

 これは、御家庭の1kWのヘアドライヤーを一気に加熱込みのフルパワーで一気に26,400台動かす仕事に相当する。やっぱり判り難いよなぁ…

 

 では16両編成の新幹線N700Sではどうか。1編成のフルパワーは17,080kWだから、約1.5編成(=24両)分ということになる… これならどうか…? 


 もっとわからなくなったって? んんん…やっぱわからないよな…(反省)

とにかく途方もない、大きな力であることは間違いない。


 推進方式はスクリューとポンプジェットの併用となっている。そのパワーの源はディーゼルエンジン4基、この動力で同じく4基の発電機を駆使して膨大な電力を生み出すのだ。一部は船内の用途に充て、大部分は半導体素子SiCによる可変電圧可変周波数(VVVF)インバータを介して船の動力になる。

 

 まず第1は、従来のように船体後方中央部に突き出した可変ピッチスクリュー1軸に接続された統合電気推進型の巨大な交流電動機モーターを動かしている。スクリュー自体も、氷による万一の損傷を防ぐためにダクト(おおい)をかぶせてある。前進と後退の切り替えは、スクリューの回転は同じ方向のままで、スクリューの羽の角度ピッチを変えて行うのだ。


 第2には、可変ピッチスクリューの少し前の両脇にある可変推力偏向式の強力なポンプジェット推進機2基を動かしている。従来の両脇のスクリューや舵には、舷側横の氷による損傷という不安が残っていたが、船の底から海水を取り入れ、強力な水流を船外に噴射して進むポンプジェット推進ならその心配はほぼない。


 念を押しておくと、「可変推力方向」ということは、スクリューと舵とを兼ねているということだ。レバー操作ひとつで前進から後退へ、また右や左への転舵も、タイムラグほぼゼロで操作できることができるようになったことが画期的であり、従来型に比べても効果が大きいはずだった。

 

 船が南極の氷に閉じ込められると、まさに難局になる。普通に進めなくなると、船は300mほどバックし、そのあと全力で氷に船首をのし上げ、船首の重さで氷を割るのである。これをラミングまたはチャージングという。元々砕氷艦の船首はラミングのためにとりわけ丈夫に作られているのだが、このとき船首の導水管からポンプジェットの水流の一部を氷に吹き付けると、その部分の氷が割れやすくなる。


 《しれとこ》が備えたポンプジェットの水流には、ディーゼル機関から出る温排水が混ぜられており、船首への分流も可能なので、従来よりもラミングの効率は確実に良くなるはずなのだ。つまり… 今まではどうしようもなかった厚い氷でも何とか進むことができると期待されているのである。


 両舷のポンプジェットだけでも舵の役目を担うことができるので、船尾に固定された板状の舵は破損を防ぐために小さく、しかも2枚しかない。しかし可変推力偏向式ポンプジェットを合わせて考えると、《しれとこ》は四枚の舵を持っているのと同等以上の能力を持たされていることになる。


 従来の「しらせ」は例年2月頃に日本の南極観測の拠点である昭和基地を出発し、4月頃に日本に到着してきた。その後8月くらいまでの間に横浜のドックで損傷した船体や故障した機器の整備および検査を行う。それが終わると全国を回り、広報活動や訓練を済ませて、10月には東京の晴海埠頭はるみふとうで観測隊の物資等を搭載し、11月中旬には南極に向けて出港するという1年を繰り返してきた。こうしたスケジュールは《しれとこ》になっても、ほぼ変わらない年間行事になるだろう、とススメは思っている。


 最高速度は確かに上がったが、船が全速力で航行することなど滅多にないことだ。原速(船の常用速度。燃料消費率が良く、効率と経済性のバランスが取れた速度)が今までの観測船と大して変わってはいないから、スケジュールも同じはずだろう。


 ちなみに、観測隊員は日本から乗船するワケではない。砕氷船の乗員は別として、観測隊員はオーストラリアのフリーマントルまで飛行機で行き、そこからは《しれとこ》に乗り換えて11月の終わり頃に南極を目指すことになっている。もちろんこの頃の南極海は「夏」で天候が荒れにくく航海しやすい、という理由によるものだ。


 《しれとこ》には他にも多数の優れた機器が装備されている。氷との摩耗に耐える舷側の鋼鈑、荷役作業の効率化を図るコンテナシステム、二重船殻構造… ちょっと面白いのは、さすが海上自衛隊というか、「武装」がある点である。10丁ほどの7.62mm小銃等および実弾が武器庫にあり、海賊やテロ行為に備えている、という。このほかに南極の自然の保全を意識して、復路では南極観測基地で発生した廃棄物400~500トンを持ち帰るように規定されている。

 また観測機器として船底に音響測深機を備え、南極海の海底地形図を作成するほかに、理論上の進行方向と舵の方向を実際の進路を突き合わせてその誤差を測り、南極海表面の海流を詳細に記録できるシステムを搭載している。


 南極の冬は過酷過ぎる。1981~2010年のデータによると、最も寒いのが8月であるようだ。月間平均「最高」気温が-16℃、月間平均気温が-19℃、月間最低気温が-23.3℃という数字が残っている。これは平均の数字であるので、まあまあの幅はある。最低気温は9月の-45.3℃であると言うが、風速が1(m/秒)増すごとに体感温度は1℃ずつ下がると言われているので、南極嵐ブリザードにでもった日には、うわぁ、もう考えられない寒さである。


 明治35年(西暦1902年)1月、青森県弘前市にあった陸軍第8師団の第5連隊が雪中行軍演習の舞台として八甲田山に挑み、210名参加のうち199人が死亡した悲劇はあまりにも有名だが、南極のブリザードの猛威はそれこそただ一人の生存も許さないだろう。かつて第5連隊の記録を当たってみた中で特に印象に残ったことがある。それはヒトの生理現象で、小便を排出したくなったときのエピソードだった。


 小便を出したい。普通ならボタン(ファスナーは1915年頃に発明された)を外してカバの口のように社会の窓を大きく開き、大蛇を引きずり出したうえで、マーライオンのごとく液体を放出するという手順になるだろう。ところが極端に寒いとどうなるか? ちょっと考えてみていただきたい。

 

 チッ チッ チッ チッ チッ チッ  (シンキングタイム)


 小便がしたい。しかし…まず指が凍えてボタンが外せない。まごまごしていると、隊列はどんどん進んで行ってしまう。気は焦ってもボタンは無情にも外れてくれないので、窓はカバの口のように開かないのである。運よく開いてもあまりの寒さに縮こまった子蛇は大蛇にはなれないのである。したがってマーライオンのように勢いよく放出はできず、チロチロとした流れになる。そしてこれらの事象はさらに困った事態を招くことになる。


 チロチロ出すにしろ漏らすにしろ、出た液体は当初は温かく服を濡らしても(またた)く間に冷め、そのまま凍り付く。すると服は「氷の服」と化して出した当人の動きを妨げるのである。濡らしたタオルや服を-30℃の大気中で振り回す動画を見たことがあるだろうか? 布はたちまちカチコチに… あれと同じことが自分の下半身で起こったら、ものすごく歩きにくくなることは容易に想像できるだろう。当人にとっては、まったくもって冗談ではすまない事態である。激寒の中では小便でさえ命懸けの行為になり得る… それが異常に怖ろしく奇妙に滑稽で面白くもあって… やばい、今日は夢に出てくるかもしれないな…


 2011年度 の第53次南極地域観測航海では海氷が例年以上に厚く、日本の昭和基地の西北西約21kmで接岸を断念し、資材をヘリコプターによる空輸で輸送した。翌2012年度 の第54次南極地域観測航海でも厚い氷を突破できずに、2年連続で接岸を断念した経緯がある。氷の厚さは6mに及び、一日の行程が1kmにも満たない日もあったという。厚い氷を割るには船首を鋭く硬く重くするのが良いし、船体の幅もあまり厚くない方が良い。

 

 また氷に船底で乗り上げるために、通常の船なら当然装備するビルジキール(進路と同じ方向に付けた縦じま状の突起)が無い。ビルジキールはその抵抗で横揺ロールれを小さくする効果があるのだが、これが無いのだから通常の海原の航海では横揺れが激しいのだ。しかし主な任務が一面氷原の南極海を砕氷しつつ航行することであり、氷に乗り上げてはラミングを繰り返すことを最優先に設計されているため、これはガマンしなければなるまい。

 

 南戸夫妻は11月下旬にオーストラリアでこれに乗り込む手筈てはずになっている。気になるのは子供たちの世話であるが、ミナミのばぁばは小学校および中学校の元教員であり、子供たちの面倒を充分すぎるほどに見てくれるため、何の懸念もない。そもそも夫婦とも8年前の観測隊で出会って意気投合し、ついに結婚にぎつけた過去がある。そして2度目の今度は《しれとこ》が南極に到着してから出発するまでの「夏隊」としての参加なのである。


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