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第八話 進化

 実験室にはアンリがいた。前足を作業テーブルの上に置いて、ビーカーの中を覗き込んでいる。

「海野君、アンリを実験室に入れないでくれたまえ。危険な試薬もあるし、細菌を持ち込むこともあるのだし……」

 僕は顔を(しか)めた。

「これですよ。これ」

 僕の文句はサラリと聞き流して、海野君はアンリが(のぞ)き込んでいるビーカーを指し示した。

「これはなんだね?」

 ビーカーの中には、黄緑色のアマガエルのような生き物が泳ぎまわっていた。カエルにしては、水かきが見当たらない。見たことのない奇妙な生き物。その時、信じられないことが起きた。

「パパ……」

 その緑色の生き物が、水面に口を出したかと思うと、アンリに呼びかけたのだ。アンリも「うぉう」などと甘く鳴きながら返答している。

 今、この緑色の生き物は、発声しただろうか。僕は耳を疑った。

「ありゃ?父親はアンリだったみたいですね」

 後ろで海野君の間の抜けた声がした。海野君がビーカーに近づくと。今度は緑色の生き物が、海野君に向かって「ママ」と発声した。




「で?これが発生していたというのかね?」

 海野君の説明を聞きながら、僕は眉をひそめた。海野君がドッグフードを入れてダメにしてしまったDNAポリメラーゼ液と、僕が夕べ作っていたコアツェルヴァトだかミクロスフェアだかが入った液体(どちらか、らしいのだが、海野君はどちらだったか分からないと言った)を混ぜたら、この生き物が発生したなんて、馬鹿も休み休み言うといいのだ。


 そもそも、このDNAポリメラーゼはPCRマシンに入れて使うことは前述したが、それだけでは不十分で、プライマー(短い合成一本鎖DNA)が必要だ。もっとも、PCRマシンは、それらを入れたチューブを加熱したりさましたりするだけの、実は非常にシンプルな原理のマシンなのだが。

「じゃあ、このしゃべる生き物は一体何なんです?」

 それはこっちが訊きたい。

「君が、その辺の川から拾って来たんじゃないのかね」

「失礼な!そんなもの拾ってきてません。大体、こんなのが川にいる訳ないじゃないですか。しゃべるんですよ?先生も聞いたでしょ?」

 海野君は顔を真っ赤にして怒った。

「……」

 最初、この生き物はゼラチンを食べていたのだが、食べつくすと他の物を欲しがったのだそうだ。ワカメを食べ、パンを食べ、今ではアンリのドッグフードを食べていると言う。そして食べ物が変わるたびに進化してきたのだと言う。ますますもって馬鹿げている。

「ママ……外に出たい」

 その緑の生き物が言った。

「水の外に出ても大丈夫なの?」

 海野君は心配そうな顔で真面目に問い返す。

「うん、大丈夫だから」

 そいつは言った。僕はクラクラする。

 しかも、あろうことかそいつは、僕のことをグランパと呼んだのだ。おじいちゃんだと?なんて失敬な!




 今、僕は海野君に言われるまま、倉庫から水槽を出しているところだ。僕が子どもだったころ、金魚を飼っていた水槽だ。底に土を入れてきて欲しいと海野君は言った。

 なんで僕がそんなことをしなくちゃならないのだと訊いたら、おじいちゃんだからとほざきやがった。まったくもって失礼な!

 しかもだ、名前を付けてほしいと言うので、知ったことかと言ったら、海野君は勝手に、あの緑色の生き物に「ソーマ」などという名前を付けてしまった。インド神話に出てくる「ソーマ」という神酒があって、それは一説によると乳海攪拌(にゅうかいかくはん)から生じたと言われているらしい。

 二つの液体を混合した時の様子が、この乳海攪拌(にゅうかいかくはん)のイメージ(海野君の脳内限定だ)と重なるのだそうだ。そんなことはどうでもいいのだが、僕の名前の「冬馬(トーマ)」と似ているので不快極まりない。そう言ったら、おじいちゃんなんだから構わないでしょ?と涼しげに言いやがった。

「海野君、これでいいのかね?」

 僕はぶつぶつ言いながらも、注文通りの水槽を実験室に運び込んだ。

「ありがとうグランパ」

 海野君ではなく、緑の生き物が答えた。さっき見たよりも、少しでかくなったそいつは、体表面にうっすらと産毛(うぶげ)(まと)っていた。

「さっき、また少し光って、産毛(うぶげ)が生えてきたんですよ。哺乳類(ほにゅうるい)に近づいてきたみたいで……」

 海野君が嬉しそうに言った。

「それはそうと、僕らの晩御飯はどうするんだね?」

 緑の生き物とアンリが旨そうにドッグフードを食べているのを恨めしげに見ながら、僕は言った。

「すぐに作ります。簡単なものでもいいですか?」

 海野君が申し訳なさそうに言った。

「構わない」

 先にシャワーを浴びて、ビールでも飲むかと、僕は溜息をついた。枝豆を買っておいて良かったと心底思った。




「先生、ソーマをどうします?」

「どうするとは?」

 海野君にしては手早く上手に作った親子丼をつつきながら、僕は問い返した。前回作ったものは鶏と卵の雑炊みたいだったが、今日のは絶品だ。海野君はインターネットの動画サイトで美味しい親子丼の作り方というのを見つけたのだと得意そうに言った。

「だって、世紀の大発見かもしれないじゃないですか。あんなしゃべる生き物。先生は研究発表とかしないんですか?」

「あんな素性の知れない生き物をどうやって発表するんだね?君はあの生き物が、どうやってあそこに発生したのか説明できるかね?」

「さっぱり説明できません」

 海野君はきっぱり断言した。

「第一に、あの中で発生したという確かな証拠がない。第二に、あの中であそこまで進化してきたと君は言うが、それを証明できる映像がない。ビデオで撮ったかね?」

「いえ、それは……」

「第三に、研究対象として発表するならば、あの個体の体の構造や機能を調べるために、様々な実験をしたり、検査をしたり、最終的には解剖する必要も出てくる」

「そんな……」

 海野君は情けない顔をした。

「研究とはそう言ったものだ。君のことをママと呼ぶあれをそんな目に遭わせる気があるのなら、そう言いたまえ。僕の学生に運ばせよう」

「嫌です。絶対に嫌!」

 目を潤ませ始めた海野君の顔を見て、僕は盛大に溜息をついた。

「ならば、あれのことは誰にも話さない方がいい」

 海野君は神妙に頷いた。


読んでくださってありがとうございました。 招夏

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