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第七話 発生

 

 ただならぬアンリの吠え声に、書庫にいた私は顔を上げた。

 いけない、もう昼を過ぎている。雪村准教授の書庫の蔵書は膨大で、気になったタイトルの本をチラ見するだけでも、かなりな時間が必要だった。しかし、アンリの散歩は朝と夕方の二回。この時間は暑さを避けながら「(たま)らん」と言った表情で、ぐったりと寝ているはずなんだけど……。

「アンリ!しーっ、静かに!」

 私は書庫の窓から顔を出した。誰かが来た様子はなさそうだ。アンリは犬小屋のドアが壊れているので鎖でつながれている。しかし、吠えながら、ものすごい力で引っ張っているので、鎖はピンと張られて、今にもつないでいる根元を壊しそうだ。

「アンリ!しーっ」

 私は慌てて、アンリの小屋へと急いだ。

「アンリ、どうしたの?」

 私はアンリをなんとか落ち着かせようと、頭を撫でてみたり、胸を撫でてみたりしたが、効果は全くなく、アンリの吠え声は益々エスカレートしているようだった。近所迷惑になってしまう。私は困惑した。

 しかも不思議なことに、アンリは門の外へ向かってではなく、家の中に向かって吠えているのだった。泥棒……だろうか?

 ちょっと怖くなった私は、アンリの鎖を根元から外すと、暴走しそうなアンリを止めるべく(いかり)となりながら、ずるずると引かれて家の中へと入って行った。アンリは迷うことなく実験室へと向かった。

 ドアの前で、アンリは「開けろよ」という風に私を振り返った。泥棒は実験室にいるのだろうか。私はドキドキしながら、実験室のドアを開けた。アンリは再び駆けだした。一直線に作業テーブルの上の試験管の前まで行き、グアッと前足を上げると、テーブルの試験管を覗き込んだ。

 アンリの爪が金属張りのテーブルに当たってカシュカシュ音がする。不思議に思った私も、試験管の中を覗き込む。

 私が、こびり付いていたものをふやかそうとして放置していた試験管だ。試験管の中には、何か黄緑色の生き物が浮遊していた。蛍光マーカーみたいなきれいな黄緑色だ。

「ん?なんだこれ……」

 何かの微生物が入り込んだのだろうか?いや、そんなはずはない。ゴム栓の裏側にも汚れがこびり付いていたので、栓をしてあったのだ。密閉された試験管の中に、こんな肉眼でも見られるような生物が、どうやったら入り込める?

 中にいる生き物は一匹ではなかった。百……いや、もう少し多いだろうか。試験管の中を所狭しと泳ぎ回っていた。

 アンリはもう吠えもせず、ただ試験管の中の黄緑色の生物を見ているようだった。アンリがこれほど強く興味を示していなければ、私は、その気味の悪い生き物が入った試験官の中身を、慌てて捨てて洗っていたことだろう。

 次の瞬間、私は目を疑った。黄緑色の生き物たちが共食いを始めたのだ。

 逃げ回る個体、追いかけまわす個体……前者は後者に取り込まれ、後者はその個体の大きさを増大させていった。

 私は慌ててゴム栓を開けてみたが、どうしたらいいのか、さっぱり分からない。

「どうしよう〜アンリ。これほっといていいのかな〜」

 私は不安になって、犬にまで意見を求めてしまう始末だ。しかしアンリは(おごそ)かな表情で、動じることなく試験管の中の生存競争を見つめている。私はアンリの首にしがみついた。

 見ている間に黄緑色の生物は減っていき、悪の親玉のように大きくなっていく一個体と、逃げ回る幾つかの小さな個体たちになり、やがて、逃げ回る個体は最後の一匹になってしまった。

 私はアンリにしがみついたまま試験管を見つめ続けた。


 最後のチビ個体は、すばしっこいらしく、狭い試験管の中を縦横無尽に泳ぎ回った。大きくなったデカ個体は、大きくなった分動きが鈍くなったようだったが、まるで「ウサギとカメ」の競争のカメように、チビをゆっくりと追い詰めていった。チビを下から追い詰めて、試験管の表面に追いやることに成功したデカは、大きくなることで獲得したデカ口を開けて水面まで浮上してきた。

 今やデカの体は試験管の内径の半分ほどを占めている。デカ口を開ければ、試験管の中にチビの逃げ場はもはや皆無だった。

「!」

 私はこの時、心の中でチビに声援を送っていたと思う。逃げて!と。液体表面まで追い詰められたチビは、次の瞬間、蛍のような蛍光を発して、試験管の外に飛出した。試験管の横のテーブルの上に、小さな小さな水たまりを作って、その中でピチピチしている様子だ。私は慌てて、手じかにあったビーカーの中にチビを入れた。

 このビーカーにも何か透明なゼリー状のものが張り付いていたので、水を入れてふやかしていたのだ。

ビーカーに入れられたチビは、嬉しそうに泳ぎ回り、ビーカーの内側に張り付いているゼリーを食べ始めた。

 一方、デカの方は悔しげに試験管内を上下に泳ぎ回っていたが、やがて大人しくなった。デカも食べるかもしれないと、チビが入っているビーカーのゼリーを一掬(ひとすく)いスプーンで取り出して試験管に入れてみたが、デカはそれを好まないようで、ゼリーは試験管の底に沈殿した。

 

 夕刻まで、アンリと一緒に、その不思議な生き物たちを観察した。デカはやがて動かなくなり、ゼリーと同様に試験管の底に沈殿した。一方、チビはビーカーの内側表面を、まるで掃除機のように舐めまわし、プクプク成長した。すべてのゼリーを舐めとった頃には、死んでしまったデカと同じくらいの大きさになっていた。




*   *   *




 今夜の晩御飯は破壊物ではありませんように。僕は、そう祈りながら家路を急いだ。

 今日も暑い一日だった。駅前の商店街で枝豆の茹でたてを売っていたので、ビールのつまみに購入する。僕は枝豆が好物だ。しかし、海野君には内緒にしている。そんなことを話したら、気のいい彼女は俄然(がぜん)枝豆を茹でる気になるだろう。

 しかし、そうしたら、枝豆が長時間茹でられて、トロけた破壊物になる確率は、かなり高いと推測され、僕は好物の枝豆がそんな目に遭うことが怖かった。

 しかし、その晩の夕食は破壊物でさえなかった。

「海野君、夕飯は?」

 着替えを済ませて、リビングに行ったが、キッチンでは何も作っている気配がなく、シンとしている。

「先生、それどころじゃありませんよ、大変なんです!」

 海野君は興奮しているようだった。お腹がすいていた僕はむっとする。

「大変なのは、夕飯の準備ができていないということじゃないかね?」

 僕は嫌味たっぷりに返答した。

「私、ママになっちゃったみたいなんです」

 海野君の言葉に僕は空腹を忘れた。

「ママになった?」

 声が裏返る。

「はい。ちょっと来てくださいよ」

 海野君は僕の手を引っ張った。反射的に僕は手を振りほどく。

「だ、だりが…違うっ!誰が父親なんだね!」

 動揺のあまり噛んでしまった。

「父親?」

 海野君はポカンとしたようだった。幼い様子だったのに、学生の身でありながら、子供ができてしまうなんて……僕は無性に腹が立って仕方がなかった。しかし、次の言葉に、更に衝撃を受けた。

「状況から考えると、父親は先生じゃないでしょうか?」

「……」

「だって、先生が……」

「ま、待ちたまえ、僕は身に覚えがないぞ。しかも、君に会ったのは一週間前だ。不可能だろう?」

 僕は困惑する。

「身に覚えがないなんて言わせませんよ。大体先生は…」

「な、な、何を言うんだね。頬にキスしたくらいで子供ができる訳がないだろう?」

 再び僕の手を取って、歩きだしていた海野君が立ち止まり、僕を見上げた。

「誰が誰の頬にキスしたんですか?」

 海野君は不思議そうに問い返した。

「い、いや、その、あの……ドラマ……とかで、よくそういう勘違いを……」

 僕は、しどろもどろに返答する。

「もーっ、こんな時にドラマの話なんてしてないでください!」

 海野君はプリプリ怒りながら、僕の手を引いてリビングを出て階下へと向かった。


読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏

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