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第六話 誘惑

 

 僕はヨロヨロと廊下を歩いていた。小柄だとは言え成人女性だ。しかも(かつ)いだ肩に温かくて柔らかいものが当たるので、気をそらすのに苦労する。

 まぁ、背中合わせに運ぶのは、背筋を伸ばす体操みたいで変だしな、と自分で自分に言い訳をする。彼女に貸している部屋は、リビングから一番離れた奥の部屋だ。リビングの隣を貸しておけばよかったと後悔した。

  ドアを開けて中に入ると、フワリと空気が変わったことに気づいた。何の匂いだろう、植物系の……なんだか説明のできない甘い果実のような匂いがした……花を飾っている訳でもないようだが……。

 僕は海野君をベッドに下ろした。彼女はエプロンをしたままだ。これは脱がしておいた方がいいだろうと声をかけた。

「海野君、エプロンを外すよ?」

 後ろの結び目をほどいて、首から紐をぬく。そこで突然、海野君が覚醒した。いや、寝ぼけたまま行動を開始したと言う方が正確なのだが……。

「ママ?ママ、帰って来てくれたの?」

 海野君は僕に、しがみ付いてきた。

「海野君、僕はママではないよ」

 少し切ない気持で否定する。彼女は亡くなった母親を夢に見ているのかもしれない。

「ママ、会いたかったよ。もう一人にしないで?お願い。私、いい子でいるから。ママの言うことちゃんと聞くから……」

「海野君……」

 僕は当惑する。

「ママ、私、今ね、雪村先生のお宅で働いてるの。雪村先生はとっても良い人なんだよ……私、大好きなの……でもね……」

 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。続きを聞きたいような、聞いてはいけないような……。

「好きになっちゃいけない人……でも、好きなっちゃったの、どうしたらいい?」

 海野君は、そこで再び眠り込んでしまったのかピクリとも動かなくなった。穏やかな寝息が洩れる。

「……」

 僕は完全に思考がストップしてしまった気がした。やはり聞いてはいけなかったのだと後悔する。僕は海野君を静かに横たわらせ、脱がしたエプロンをサイドテーブルに置いた。

 灯りを消して部屋を出て行こうとした時、再び海野君が覚醒した。

「ママ、お願い……苦しいの……」

 僕はギョッとする。か、金だらいが必要なのか?

「海野君、ちょっと我慢するんだぞ!」

 僕が慌てて部屋を後にしようとしたところで、再び海野君の声がした。

「ブラのホックを外して……」




 僕は実験室で様々な試薬を混ぜていた。落ち着く時には、実験をするのが一番だ。

 ゼラチンとアラビアゴム液を混合する。各々の溶液は透明なのだが、混ぜると、にごって見えるようになる。見えるようになる……というのは、本来はにごっている訳ではないからだ。極めて微小な液敵が分離され、その結果、にごって見えるだけなのだ。高校生の時に、この現象を確認して、僕は「命」というものにとりつかれた。

「命」はどうしたら発生するのか……ということについてだ。


 ソ連の科学者オパーリンは、この微小な液敵が、周囲の物質を取り込む性質持っていることを発見し、ここに生命の一つのスタートがあるのではないかと主張した。これが、いわゆる、オパーリンの「生命の起源」説だ。

 次にアミノ酸を加熱して、プロテノイドを作ってみる。これを冷却すると、やはり多数の小さな球が生成される。これがミクロスフェアだ。これは、生活し自己複製する細胞の前駆体と考えられている。次に……。


 僕は、かつて僕を夢中にさせ、他のすべてのことを忘れさせた様々な生成物を次々に作り上げていった。しかし、思いつく限りの生成物を作ることに成功しても、ふと、湧き上がってくる海野君の寝顔を、完全に脳内から閉めだすことには成功できずにいた。


 あの後、十分以上は逡巡(しゅんじゅん)したのだ。

 ブラジャーのホックを外すべきか、否か。


 僕は教育者で、年長者で……それだけを考えれば、外すべきではないのだろうが、海野君は苦しいから外して欲しいと言ったのだし……しかし、その頼みは僕のことを母親だと勘違いしたからこそ言った頼みなのだし……しかも、外して、後々セクハラだなどと訴えられないとも限らないのだし……しかし、外さなかったことによって、具合が悪くなって、その結果……病気になったり……まかり間違って、死んでしまったりしたら……。

 ブラジャーが、どの程度胸部を圧迫するものなのか、着けたことがない僕には予測不可能だった。

 僕は途方にくれる。

 あの告白めいた寝言を聞いてしまったことも、躊躇(ためら)いに拍車をかけた。僕は溜息をついて、フラスコを果てしなく振って、意味もなく中身をグルグル混ぜ続ける。

 きっと、熱帯夜のせいだ。

 恐る恐るブラジャーのホックを外した後、彼女の頬にキスをしてしまったのは……。もしかしたら、ラニーニャ現象のせいかもしれない。きっとそうだ。きっと……そうに違いない。





「先生、おはよーございます。昨日は本当にすみませんでした」

 翌朝、海野君は晴れ晴れとした顔でリビングに現れた。

「お、う、うむ。おはよう。良く眠れたようだね?」

 僕は、ソファで新聞を読むふりをしながら顔色を(うかが)う。

「はい。あのワインとっても美味しかったです。飲んだ後の事が、今一よく思い出せないんですけど、なんだかフワフワして気持良くなっちゃって……あのワインは高いんでしょうね?」

「いや、商店街の酒屋に置いてある安ワインだ。『女王の涙』という名前なんだ」

「へー、素敵な名前ですね。詩的な感じ。今度、探してみよう」

 そう言うと、海野君は、きょとんとした顔で僕を見つめて、ぐぐっと顔を近づけてきた。

「な、なにかね?」

 僕は激しく動揺する。

「新聞、逆さまですよ?」

 海野君は、「ホームドラマでよくありますよね、そーいうの。あはは」などと呑気な事を言いながら朝食の支度を始めた。人の気も知らないで……。



*   *   *



 朝食の後始末が終わって、アンリの散歩を終えてから、私は実験室に向かった。シンク内に溜まった洗いものの山に目を見張る。

 先生は一体、何の研究をしているのだろうか?先生のことだから、きっと何やら難しいことを考えて、難しい研究をしていたのだろうと思う。先生の足を引っ張らないように、今日こそは失敗しないようにしなくては……と気を引き締めて洗いにかかった。

 昨日、私がダメにしてしまった試験管の中身を捨てる。なにやら試験管内にこびりついているようなので、少し水を入れてふやかそうかと考えている所に、フラスコの溶液が目にとまった。

 水は少しでも節約しなくては。エコロジーな私は、フラスコの液体を試験管に、なみなみと注ぎ入れ、しばらく放置してふやかそうと、試験管立てに立てかけた。ふやかしている間に、他の物をどんどん洗っていく。

 今日も暑い日になるらしく、(せみ)が、うるさいくらいに鳴いていた。



読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏

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