第四話 当惑
現在、うちには家政婦が一名いる。
料理は時々破壊したものを作るが、一度失敗したものは、次回は改善されたものになるので、すべての破壊物を作り終えれば、僕の苦行も終わるに違いないと楽観視している。掃除とアンリ(僕の飼い犬だ)の散歩は、ほぼ完璧にこなす。
ただ、掃除に関しては、その完璧度がエスカレートしているようで多少気になっている。
「なんだね、これは?」
僕はリビングに広げられたブルーシートの上に、様々な物品が並べられているのに眉をひそめた。
「先生の書斎にあった未分類品です。いらないものは左、いるものは右に分けていただけますか?」
僕は顔を顰めた。
「僕の部屋は掃除しなくていいと言ったはずだが……」
「私、今日から夏休みなんですよ。することもないし、サービスで家中の掃除をしますよ。書庫は窓を開けて風を通してもいいですか?もし光を当ててはいけない貴重な本があれば言っていただければ、そのように扱いますよ?」
「いや、そんな本はないよ」
「了解です」
確かに大学は夏休みに入ったのだが、僕は休みになるわけではない。実験動物も飼っているし、研究も続けなくてはならない。もっとも動物の世話は学生がするので実働はないのだが……それでも僕には監督責任がある。
朝日が入るリビングは、早いうちから気温が上昇していて、ぐったりするほどだったが、うちの家政婦は元気いっぱいなようだ。
うちの家政婦の特徴は、朝食が朝食らしくないというところかもしれない。カレーは前述したが、その他にもトマトソースのスパゲッティや親子丼が出てくることもある。僕は、大ザルにきれいに渦を巻いて並べられたソーメンを戸惑い気味に眺めた。朝日を浴びてキラキラ光る氷を飾られて、ソーメンも戸惑ってキョトキョトしている様子だ。刻まれたネギや青じそや、すりおろしたショウガの清冽な匂いが鼻孔をくすぐる。まぁ、こんなに暑い朝ならソーメンも悪くないと気を取り直して、僕は席についた。
「ところで、君は学生だろう?掃除も良いが、書庫にある本を好きなだけ読むといい。時間のある今のうちに、たくさんの書物に触れておくことは大事なことだよ」
「はい!じゃ、遠慮なく読ませていただきます」
「うむ」
年長者として、教育者としての義務を果たしているという充実感を感じながら僕は頷いた。
私は、ブルーシートの前でボーッと佇んでいる雪村准教授をリビングに残して一階の実験室へ向かった。
この家は部屋数が実に多い。二階建ての一軒家なのだが、一階に先生の書斎と実験室、それから残りの広大なスペースを書庫が占領している。二階にはリビング、ダイニングがあり、その他に四部屋が空き部屋になっている。空き部屋の三つはベッドルームになっており、一つは物置として使っている。私は、そのベッドルームの一つを借りて寝泊まりしている。浴室とトイレは各階にあり、和風ペンションを開きたいと思ったら、即始められそうな家だ。
実験室は、小学校の調理実習室と理科室が合体したような造りだ。金属張りの大きめの作業台の横に大きいシンクが付いているのは調理実習室みたいだし、スチールの棚に色々な試薬やフラスコやビーカーやロートなどが並んでいる様子は理科室っぽい。
私は実験室の窓を開けて、早速洗いものにとりかかった。シンクの中に置いてあるものと、作業台の一区画(青いビニールテープで囲まれている)内にあるものが、私の担当だ。洗いものは結構好きだ。特に暑い日の作業は水の冷たさが手に心地よい。
私はビーカーや試験管を片っ端から洗っていった。ほぼ作業が完了した時、青いビニールテープに跨って置かれた試験管立てに気がついた。
そこには一本だけ、何か黄色い液体が入った試験管が立てられていた。
「あれ?これはどっちの領域にあったかな?」
試験管にはゴム栓がきっちり押し込まれてある。私は恐る恐る栓を外し、右手で試験管の口を扇いで臭いを嗅いでみた。特に危険な臭いはしないようだが、さて、どうしたものかと考えていた時、掃除用に着ていた割烹着の袖口から何か丸いものが転がり落ちてきて、試験管の中に落下した。
「あ!」
それはアンリのドッグフードだった。さっき餌をやった時、袖口のどこかに紛れ込んでいたらしい。私は慌てて、ドッグフードを取り出すべく、細長い棒状のものを探し回った。
かき混ぜ棒ではコロコロ転がるだけで取り出せず、スプーンは大き過ぎて試験管の中に入らない。ようやく長めのピンセットを見つけて、つまみだした頃には、透明な黄色だった液体は、すっかり白濁してしまっていた。
これなんだったんだろうか……洗いものだよね……呆然としている私の背後で、突然ドアが開いた。
「海野君」
入って来たのは当然のことだが雪村准教授だった。
「!」
私は文字通り飛び上がった。
「どうかしたのかね?」
「い、い、いえ別に……」
雪村准教授は怪訝そうに私を見つめた。
「言い忘れていたんだが、テーブルの上に試験管を置きっぱなしにしてあるから、それを冷蔵庫に入れておいてもらえるかね。黄色い液体が入っているやつだ」
私は目の前が真っ暗になるのを感じていた。
「……何が入っているんですか?」
「DNAポリメラーゼだ」
「……」
それが何かは分からなかったが、何かとても大事なものらしいということが分かった。
「ゴム栓は絶対外さないようにしてくれ。おっと、もうこんな時間か!じゃあ、僕は大学に行ってくるから。帰りは夕方になる」
雪村准教授は壁の時計に目をやると、慌てたようにドアを閉めて行ってしまった。私はしばらく身じろぎもできぬまま、立ちつくしていた。
怖々(こわごわ)後ろの試験管を見たが、私の願いとは裏腹に、白濁の度合いが増しているようだ。何かの細菌が入り込んでしまったのかもしれない。そう判断した私は、アルコールランプを使って試験管の中身を煮沸消毒することにした。
しばらく沸騰させて試験管立てに立てた。
実験室の窓からアンリの犬小屋が見える。アンリが退屈そうにウロウロしているのを見て、まだ散歩に連れて行っていなかったのを思い出した。私は、動揺したままアンリに引かれて散歩に出かけた。三回自転車にベルを鳴らされ、二回電柱にぶつかり、一回犬の糞を踏んづけた。アンリは心配そうにちらちら後ろを振り返りながら歩いていた。
散歩から帰って実験室に入ると、例の試験管は、もう手の施しようがないほど白濁していた。何か細い糸のようなものが浮遊しているようにも見える。
私は再度沸騰させてみたが、白濁度は収まる気配がなかった。
雪村准教授になんて言えばいいんだろうか……私は、呆然としたままリビングに戻り、ブルーシートに分けられている物品の右側を廃棄処分し、左側を書斎に運び込み整理して置いた。その日一日、私は何をして過ごしたのか、ちっとも覚えていない。
私は小さい頃から優等生で、先生という人種に怒られた記憶が、ほぼなかった。いや、違う。怒られるのが怖かったから「いい子」でいたのだ。私には「いい子」でいられるだけの忍耐力と能力と用心深さがあった……はずだった。
* * *
日が落ちたばかりの夕暮れ時だが、駅から自宅まで歩くと暑さでじんわりと汗ばんでくる。ノウゼンカズラの元気いっぱいな濃いオレンジ色が目にとまり、僕はふと足を止めた。
僕はクスリと微笑んでから再び歩みを進める。
あのオレンジ色はうちの家政婦に似ている、そう思いながら……。
ところが、その夜の家政婦は様子が違っていた。
読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏